2014年

  2014年 1月5日() 新年礼拝

      「信仰、希望、愛」      コリント一13章1-13節         

 

 「主の御名を心より讃美します。」主なる神こそ、大いなるお方、生けるお方、祝福の主です。ハレルヤ! 迎えましたこの年が、幸いな年となりますように。

 

 元旦礼拝では、イザヤ書40章27-31節より、「新たな力を受けて」、メッセージを取り次がせていただきました。新しい年を迎えて、これから踏み出す時に必要なのは、何でしょうか?健康、お金、いろいろな持ち物 確かにそうかもしれません。でも、欠かせないもの、それは、心の平安であり、心の中の希望です。その平安と希望を、天の神さまは与えてくださるお方です。いろいろな厳しい状況の中で、思うように行かない中にあっても、主より、大いなる恵みの平安と希望をいただいて、進んで行きましょう。

 

 私たちの教会のこの年の標語は、「信仰・希望・愛」です。すばらしい標語が与えられ感謝です。

 

 第1番目の信仰。それは、主なる神への信仰です。主は、この世界を創造された方であり、私たちの御救いのためにお出でくださった主イエス様は、十字架にお架かりくださったお方です。主イエス様は、復活の主であり、今もこの世界の救い主として、働いてくださっています。この主を信じ、仰ぎつつ歩んでいく、これほど大切なものはありません。この方のみを信じて信頼して進みましょう。

 

 第2番目の希望。希望は、突然見えなくなることがあります。昨日まで、希望があったのに、今日には希望がないということもあります。わたしたちは、そのような世界に生きていますし、私たちは弱い者です。主と共に歩む中で、希望をしっかり持って歩むことです。

 

  第3番目の愛。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(4-7節)愛はすばらしいものです。しかし、忍耐弱い、情け浅い、ねたむ、自慢する、高ぶる、礼を失する、自分の利益を求める、いらだつ、恨みを抱く、不義を喜ぶ、真実を喜ばない、忍ばない、信じない、望まない、耐えないとその反対になってしまう自分を発見することがあります。

 

 信仰、希望、愛を見失うとどうなるか?自分ばかりを見る。自分の置かれた境遇ばかりを考える。主を見失う。主を見ない。自暴自棄になる。自分の価値を見失う。悪い方、悪い方に考える。否定的になる。人の良さを評価しない。・・・

 

 この年、信仰、希望、愛を見出し、それを回復していただきましょう主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:31)主を見上げ、主に祈り、主の助けをいただきましょう。

 

 「信仰、希望、愛」、これは大切なことです。

 

 1)信仰に生きたらどうなるでしょう、どのように変わるでしょう。主を讃美する。主に感謝する。主の御心を尋ね求める。悔い改めて新たに歩み出す。礼拝を感謝して守る。祈祷会を大切にする。聖書を読み親しむ。主の御心に反することを退ける。主に喜ばれる道を選ぶ。・・・

 

 2)希望に生きたらどうなるでしょう。どのように変わるでしょう。希望を失っている人の苦しみを理解しようとする。その人のために祈る。次の世代のために、日蔭を作る木、実を実らす木を植える。平安の中に生きる。喜びの声、笑いが響くようになる。・・・

 

 3)愛に生きたらどうなるでしょう。どのように変わるでしょう。自分のことばかりに心を向けない。他の人のことでいらいらしない。他の人を安易に批判しない。その人の置かれている立場、状況を考える。大変さを抱えている人のために祈る。その人のために時間を用いる。・・・

 

 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13節)

 

 もしも、信仰、希望、愛を見失っている自分を発見したら、主に正直に願い求めましょう。「信仰のないこの私に信仰を与えてください」と。「希望のないこの私に希望を与えてください」と。「愛のないこの私に愛を与えてください」と。また、切に願い求めましょう。「この私に信仰を満たしてください」と。この私に希望を満たしてください」と。この私に愛を満たしてください」と。

 

 主なる神は、この年、このことを許し、招いてくださっています。その招きを感謝して受け取りましょう。 

                           (久多良木和夫)

 

 

  2014年 1月12日() 聖日礼拝

      「真の信仰を求めて」       ルツ記1章14-19節

 

  ルツの生きた時代は、紀元前1150年ごろです。ルツの姑のナオミは、夫と二人の子どもに先立たれ、ベツレヘムに戻る決断をします。二人の嫁の中の一人ルツは、ナオミについて行きました。

 

 愛はどこにあるのでしょうか。ルツは愛の人でした。姑のナオミを最後まで世話しようと考えました。ナオミもまた嫁たちに対して愛の人であったことでしょう。

 

 希望はどこにあるのでしょうか。この時点では、希望はありませんでした。ただ、天地創造の主、契約の主のみがお持ちでした。

 

 信仰はどこにあるでしょうか。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言ったルツの内に、真の神を信じる信仰が与えられていました。

 

 ベツレヘムにおいて、ルツは、真実と信仰の持ち主であるボアズと出会い、結婚します。ダビデの祖父に当たる人物となるボアズが生まれました。

 

 苦しみと悲しみの世界、激動の世界の中に、私たちは生きています。その中にあって、力ある主、祝福の主、愛の主、祈りを受けるべき主、栄光を受けるべき主である真の神を仰ぎつつ、歩んで行きましょう。 

 

     (久多良木和夫) 

 

   2014年 1月19日() 聖日礼拝

       「嘆きから祈りへ」      サムエル記上1章120節

 

 今日は、ハンナの生涯における「信仰、希望、愛」についてみて行きましょう。信仰、希望、愛を支えてくださる方は、天の神さまです。信仰、希望、愛とその神さまをつなぐ水路は何か?それは祈りではないでしょうか。「喜び、祈り、感謝」の真ん中の祈りです。

 

 ハンナは、夫エルカナとの間に子どもが授からず、もう一人の子どもをたくさん授かった妻ペニナに苦しめられていました。ハンナは、一人で別室に行き、主の御前に祈りを捧げました。彼女は心を注ぎだして祈りました。ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました (15節)その祈りは主に届きました。およそ1年後、男の子サムエルが与えられました。

 

 ハンナは、嘆き、悲しみから神への祈りに導かれ、その後に神への感謝、讃美へと導かれました。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによってお前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩編50:15)

 

 嘆きから祈りに進む者は幸いです。主は、祈りを待っていてくださいます。そして、聞いてくださいます。                          

                           (久多良木和夫)

 

 

  2014年 1月26日() 新年聖会礼拝

    「初めの愛から離れないように」     ヨハネ黙示2章17節  

 

 キリストこそ、私たちの教会を最もよく知っておられる方です。聖会は、キリストの診断を受けて、癒されるためのものです。

 

 エフェソの教会は、パウロの伝道によってスタートしました。エフェソの教会の人たちの行い、労苦、忍耐を主イエスは忘れておられません。ところが、「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(4-5節)とあります。神さまへの愛がだんだん冷えて行きました。神が求めておられるのは、神への愛です。しかも昨日の愛ではなく、今日の愛です。その愛を失っていると指摘されました。

 

 では、どうしたら良いのか。 「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(5節)。主を第一にしなくなった具体的な何かがあったはずです。神さまよりも大切にする何かがあったはずです。それを悔い改める必要があるのです。そして、初めの愛に立ち返りましょう。

 

 神への愛、キリストへの愛は純粋で、ひたむきなものでなければなりません。                                               

                          (福岡聖書教会 井之上 薫師)

 

 

 2014年 2月9日() 聖日礼拝

        「戦いの勝利」         サムエル上17章4147節        

 

 本日の聖書の箇所は、ダビデとゴリアトとの戦いの場面です。私たちの日常生活においても、さまざまな戦いがあります。プレッシャーがかかる緊張する場面もあります。

 

 ぺリシテ軍の中の3メートル近い大男のゴリアトに対して、イスラエル軍は恐れました。しかし、少年ダビデは恐れませんでした。ダビデは、羊を守るためにクマやライオンと戦った経験がありました。そして、主なる神さまに寄り頼む信仰がありました。わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」(45節)。「この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(47節)これがダビデの信仰でした。

 

 戦いの勝利は、主によって与えられます。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙8章31-32節)どんな時にも主を見上げ進んで行きましょう。               

                           (久多良木和夫) 

 

 

      2014年 2月16日() 聖日礼拝

    「あなたの救いを見た」   ルカによる福音書2章22-38節

 

 主イエスがお生れになってから四十日が過ぎて、両親は幼子イエスを主に献げるためにエルサレム神殿に連れて行きました。

  

 神殿の境内にいたシメオンは、幼子イエスを抱き上げて「主よ、今こそ、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」と讃美しました(29-32節)。

 

 また年老いた女預言者アンナも、救い主を待ち望んでいる人々に幼子イエスのことを話しました。

 

 シメオンもアンナも、すべての人々に真の救いをもたらすメシヤの待望を、ひたすら祈り続けて、その人生の最後に幼子イエスにお会いし、その「救いを見」て、安らかに召されて行きました。                                                                                            (井上博子)

 

 

  2014年 2月23日() 聖日礼拝

   「人知を超える神の平和」  フィリピの信徒への手紙4章1-9節

 

 パウロが獄中から手紙を書き送ったフィリピの教会が置かれていた状況は、よこしまなまがった時代の中で(2:15)、キリストの十字架に敵対して鮎産んでいる者がない(3:18)というものでした。パウロは、そのような中で、信仰を歩んでいる兄弟たちのことがあり、まるで冠のようであると記しました。

 

 喜ぶことができない境遇にあるクリスチャンたちに、パウロは、「主において」と強調し、「主イエスにつながる者とされているのですよ」と語っています。

 

 「主はすぐに近くにおられるのですから。」(5節)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(4:6)をお互いの暗証聖句にしましょう。

 

 「人知を超えて神の平和」、それは、「希望」です。  

                          (久多良木志津子)

 

  2014年 3月2日() 聖日礼拝

    「サウルは千、ダビデは万」  サムエル記上18章1-11節

 

若い世代の活躍、それは時代の流れの中で起こって来ます。ソチ冬季オリンピックでも、10代の方々の活躍も目立ちました。フィギュアスケートにおいても、男子も女子も共に金メダルを獲得したのは10代の方でした。

 

 サウル王の家来となったダビデは、戦いに行く度に勝利し、多くの人々は、「サウルは千、ダビデは万」とほめ歌を歌いました。それを聞いたサウルは激怒し悔しがりました。サウルは、ダビデをねたみの目で見るようになりました。自分だけ、自分の国だけを見て、他の人、他の国の活躍を快く思わない、ねたみ、その活躍を妨害する、それは大きな罪です。サウルは、このことを悔い改めず、ダビデの命を狙い続けました。最後にサウルは外国との戦いで死にました。

 

 ねたみやそねみ、それは大きな罪です(ガラテヤ5:19-21、ローマ1:20-31)。それらに支配されないように、悔い改めて原点に返りましょう。                 

                          (久多良木和夫)

 

 

   2014年 3月9日() 聖日礼拝

          「主に信頼したダビデ」    サムエル記上26章1-20節

 

 サウル王はダビデの命を狙うものとなりました。それは、ダビデの活躍に対するねたみのためでした。

 

 ハキラというところで、ダビデはサウル王の命を取り去る機会がありましたが、ダビデはそうしませんでした。 ダビデは、「主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。」と家来のアビシャイに告げました(11節)以前、エン・ゲディというところでも、同じように、サウル王の命を取り去ることをしませんでした(24章7節)。

 

 命を狙われ逃げなければならなかったダビデの苦悩、サウルさえいなけばというダビデの誘惑、ダビデはその苦しみの中で深く深く祈ったことでしょう(詩編50編15節)

 

 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12章17、19、21節)

 

 ダビデがしたように主に信頼しましょう。主に信頼する者に対して主は、特別に守り導き、祝福してくださいます。 

                          (久多良木和夫)

 

 

  2014年 3月16日() 聖日礼拝

        「一粒の麦」      ヨハネ福音書12章20-26節

 

 主イエスは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と語られました(24節)

 

 自然界においても、一粒の種は地に蒔かれなければいつまでもそのままです。しかし、地に蒔かれれば、種から芽が伸び、やがて実を結びます。

 

 この一粒の麦とは、主イエス様の十字架の死を意味しています。一粒の種が地に蒔かれることは、犠牲と愛を意味しています。母親は時に自分の命と引き換えに新しい命を生み出す決断をすることがあります。その根底にあるのは愛です。

 

 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53:5)

 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリント二5:21)     

                          (久多良木和夫)

 

 

   2014年 3月23日() 聖日礼拝

        「弟子の足を洗われた主イエス」           ヨハネ13章1-15節

 

主イエスは、弟子たちを最後の最後まで愛されました。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)

 

 主イエスは、十字架につけられた金曜日の前日の木曜日の夜、最後の晩餐の時を持たれました。その時、足を洗ってくれる僕がいなかったようです。弟子たちは誰もその役をなす者はいませんでした。その時一人の人がその役をなさいました。その方は主イエスでした。

 

 主は弟子たちに主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と語られました(14節)。これは主よりの教えでした。

 

 洗足が本当に意味していることは、弟子たちの、そして私たちの罪の赦しのための贖いの死でした彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5)                                                                                    (久多良木和夫)

 

  2014年 4月6日() 聖日礼拝

     「苦難に対する勝利」     ヨハネ福音書16:25-33
 

 人生におけるテーマには、2つのことがあるのではないでしょうか。一つは、自分の人生で何をなすか、何を成し遂げるかということ。もう一つは苦難、苦しみ、艱難ではないでしょうか。避けて通れないものです。イエス様ご自身もその二つのことに取り組まれました。

 

 貧困、飢餓、病気、生きる意味が分からなくなること、悲しい出来事、愛する者との別れ、道が開かれないこと、孤独等々。それらは苦しみを引き起こします。

 

 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と主イエスは弟子たちに語られました(33節)。そして今を生きる私たちにも語りかけておられます。

 

 主イエスご自身が苦難を受けられました。十字架につけられその命を奪われました。その受難の死を打ち破り、主は復活されました。主イエスはその勝利のおすそ分けを私たちにしてくださるのです。十字架と復活の勝利の主は、私たちと共にいてくださるお方です。見捨てず、最後まで共に歩んでくださいます。

                          (久多良木和夫)

 

   2014年 4月13日() 聖日礼拝

     「三本の十字架」       ルカ福音書23章39-43節 
 

 主イエスは、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしださい」と祈られました。この「彼ら」とは? 

 

34節: くじを引いて着物を分け合っている人たち、それは、苦しむ人のそばで自分の利益を求めている自分。

 

35節: 立って見つめている民衆、弟子たち、それは、大事な時に声をあげることができずにいる自分。嘲笑っている議員たち、それは、その状況から立ち上がれない人を自業自得だと心の中で思っている自分。 

 

39節: 「自分が助からなければ信じない」と主イエスをののしっている犯罪人のような自分。

 

 このような私たちの身代わりとなって、主イエスは十字架刑を受けられました。「この方こそ、私を救ってくださる方。主イエス様、どうか私のことを頼みます。私のことを思い出してください」と私たちも祈りましょう。

                                     (久多良木志津子)

 

 

       2014年 4月20日() イースター礼拝

            「復活された主」     ヨハネ福音書20章1-10節 
 

 キリスト教のシンボルの第1は、十字架です。教会には必ず十字架があります。第2は、イエス・キリストです。主イエスは、クリスマスにこの世界に人としてお生まれくださいました。そして最後は十字架につけられ死なれました。イエス様は、神の愛を教えるために、また私たちの罪が赦され、私たちが永遠の命を得るためにこの世に来られました。

 

死は、私たちすべてに訪れる最大の問題です。人は死をもってこの世の生活が終わります。人生のすべての営みが終わります。どのようなお金持ちであって、どんなに華やかな人生を歩んでいたとしても、どんな有名な人も、どのような業績を上げた人であってもすべてです。だから死は怖く恐ろしいものです。死はすべてを飲み込んでしまいます。飲み込まれたらそこから抜け出すことはできません。死を打ち破ることのできた人はひとりもいません。

 

その死を打ち破られた方が、たった一人だけおられます。その方こそ、イエス・キリストです。主イエス様は死を打ち破られた唯一のお方です。

 

ペトロとヨハネは、主イエスの遺体に巻いていた亜麻布のみが墓にあったことを発見しました。主イエスは、その時既に復活しておられたのです。

 

イエス・キリストの救いを伝えるキリスト教が今も存在し続けている最大の理由は、主イエスの復活です。そのことをお祝いするのがイースター(復活祭)です。

 

過日の韓国旅客船沈没事故で多くの方々お亡くなりになり、とても悲しいことです。約30名の乗組員の中でただ一人亡くなられた方がいます。その方の名前は。パク・チヨンさんです。彼女は、最後まで高校生たちにライフジャケットを手渡し脱出するよう案内放送したそうです。乗組員としての使命を最後まで全うしたのです。チヨンさんの勇気ある行動は、多くの韓国国民の胸を打っているとのことです。

 

主イエス様は、この世に生きる私たちのために、十字架の上でその命を投げ出してくださいました。それは、私たちの罪の代価を支払うためでした。その死によって、私たちの罪の代価をすべて支払われました。そして、死を打ち破り復活してくださいました。

 

死で終わる人生、つらいこと、悲しいことがある人生、でも希望は失われません。イエス様の復活があるからです。イエス・キリストは今も生きておられるからです。神の愛が私たち一人一人に今も豊かに注がれているからです。                                            

                        (久多良木和夫)  

 

     2014年 4月27日() 聖日礼拝

        「右側に網を打ちなさい」  ヨハネ福音書21章1-14節 
 

 主イエスの復活の出来事が起きた後、ペトロたち7人の弟子は、ティベリア湖(ガリラヤ湖)に漁に出ました。夜通し漁をしたにもかかわらず、魚は一匹も捕れませんでした。夜が明けようとしていた時、弟子たちは疲れはてていたことでしょう。

 

 その弟子たちを見守る方がおられました。それは、復活の主イエスでした既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」(4節)。主イエスは、弟子たちのことを心配してくださり見守り、また、弟子たちのために朝食のパンと魚を用意していてくださいました。

 

 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(6節)。弟子たちが主の言葉に従った時、たくさんの魚が捕れました。

 

 主イエスのかけられた言葉には、次のような意味があるように思います。第1のことは、主は魚のいるところをご存知だったということです。私たちがわからないことであっても、主はご存知であるということです。第2のことは、主は、弟子たちに、そして主を仰ぐ者に励ましを与え、意欲、情熱を与えてくださる方であるということです。第3のことは、右側とは遠いところではなくすぐそばということです。身近なところに大きな幸いは隠されているということです。

 

 投げるべき網は3つの網ではないでしょうか。第1は信仰という網です。ラブソナタの集会を力強く進めてくださる韓国のオンヌリ教会の方々の信仰を見習いたいものです。第2は希望という網です。明日を夢見る希望であり、ヴィジョンです。第3は愛という網です。他の人への思いやり、心配りであり、声掛け、電話、訪問、手紙といった具体的な行動です。   

                           (久多良木和夫)

 

 

   2014年 5月4日() 聖日礼拝

        「わたしに従いなさい」   ヨハネ福音書21章15-23節 

 

 復活の主イエスは、ペトロに三度、「わたしを愛するか」とお尋ねになりました。その度に、ペトロは「はい」と答えました。三度も聞かれた大きな理由は、おそらくペトロが三度、主イエスを否んだことに関係があったことでしょう。

 

ペトロがずっと心の中にひっかかっていたこと、それは、主イエスが捕えられた時、主を助けるどころか、そのような人は知らない、関係がないと言って裏切ったことでした。ペトロは裏切ったことの罪責感で苦しんでいたのです。私たちも同じようなことで苦しむことがあります。なぜあのようなことをしたのだろう、あのようなことを言ったのだろう。過去にはもう戻ることもできないと。主イエスは、ペトロの苦しみをご存知であり、その苦しみを癒すために三度尋ねられたのでした。

 

 ペトロにそう命じられた主イエスは、父なる神の御心に従って、この世に来てくださり、最後の最後まで、十字架の死に至るまで、父なる神に従われたお方です。

 

 主に従おうとする時、他の人のことが気になる私たちです。ペトロもそうでした。主イエスは、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22節)と語られました

                           (久多良木和夫)

 

       2014年 5月11日() 母の日伝道礼拝

       「帰りを待つ親の祈り」    ルカ福音書15章11-32節 

 

  本日は、母の日です。母の日は、アメリカのアンナ・ジャービスさんが、愛する母の死を悼み、母親が好きだった白いカーネーションを記念会で飾ったのが発端とされています。カーネーションの赤は「真実の愛」、白は「尊敬」、ピンクは「感謝」を意味しているとのことです。

 

 有名な「放蕩息子のたとえ」は、厳密に言うと「放蕩息子の父親のたとえ」です。弟息子は、父親のもとから出て行き、放蕩に身を持ち崩しすべてを失いました。彼は、どん底の中で父親を思いだし、家に向かいました。

 

 父親は、いち早く弟息子を見つけ迎え入れました。まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(20節)。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(24節)。父親は心から喜び感謝しました。そして、祝宴を始めました。

 

 それを知った兄息子は怒りました。父親は彼をなだめました。弟息子だけでなく、兄息子も、父親から心が離れていたのです。この父親は、天の神さまを指し、弟息子も兄息子も、私たち人間を指しています。

 

 このたとえに話には、母親は登場してきません。でも、もしいたとするならば、父親以上に出て行った息子のことを心配し、父親と共に祈り帰りを待っていたことでしょう。もし、既に亡くなっていなかったとするならば、父親は、その母親の願いを心に深くとめ、切に祈り待ったことでしょう。

 

 出て行った子どもの帰りを待つ親の祈り、それは天の神さまの愛であり、神の祈りです。神は、私たちが神に立ち返るのを待ち望み、待っていてくださっています。「主よ、感謝します。」                              

                           (久多良木和夫)

 

 

  2014年 5月18日() 聖日礼拝

        「平和があるように」      ヨハネ20章19-23節

 

 「あなたがたに平和があるように(19節)。これは、復活の主が弟子たちにかけられた言葉です。原語は「平安があるように」とも訳せる言葉です。

 

 平和、平安、これらは最も素晴らしい内容を意味する言葉です。現代に生きる私たちが最も必要としていることがらです。世界を見渡すと、一見平和に見えますが、よく見るとその反対のことがらがたくさんあります。けんか、争い、紛争、戦争等々です。

 

 不安と恐れが現代を取り囲んでいます。私たちはその不安と恐れに支配されています。それから逃れたいと願いつつもできません。不安と恐れはどこまでも追いかけて来ます。それを忘れるために、時に強いアルコール、薬物、ギャンブル、快楽、バーチャルな世界へ逃げ込みます。いろいろなことを試します。でも逃げ切れません。

 

 主イエスの弟子たちは、恐れて家の戸に鍵をかけて息をひそめていました。ユダヤ人を恐れていたからです。その根底には、神さまへの恐れがあったのです。弟子たちは神さまが自分たちのためにお遣わしくださった主イエスを見捨てたからです。主イエスの恩に対して仇で返したからです。彼らは、神の怒りを恐れ、神からの罰を恐れ、呪いやたたりを恐れていました。

 

 その弟子たちのもとに復活の主イエスは来てくださいました。そして語られた言葉が上記のものです。その意味することは、神の赦しです。もう苦しまなくても良い、もう逃げ回らなくても良いと主は告げられたのです。

 

 弟子たちに神の愛が注がれました。その同じ神の愛は、今、私たちに注がれています。そして、その赦しの言葉はかけられています。だから、私たちは、自らの不安、恐れを主の御前に告白しましょう。そして、不安と恐れから解放していただきましょう。 

                           (久多良木和夫)

 

 2014年 5月25日() 聖日礼拝

         「悼み泣いたダビデ」      サムエル記下1115節

 

 ダビデは、王となる前に苦難を経験しました。それは、サウル王によって命を狙われ逃亡しなければなりませんでした。そのような過酷な状況の中で、彼の慰めは、サウルの息子であるヨナタンが彼の味方になってくれたということでした。

 

 イスラエルとぺリシテの戦いにおいて、サウルの最後がやって来ました。その戦いでイスラエルは敗北しサウルは死にました。同じ日にヨナタンも死にました。

 

 そのことを聞いたダビデは嘆き悲しみました。「ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。共にいた者は皆それに倣った。 彼らは、剣に倒れたサウルとその子ヨナタン、そして主の民とイスラエルの家を悼んで泣き、夕暮れまで断食した。」(11-12節)

 

 無二の友人のヨナタンの死と共に、自分を苦しめて来たサウルが亡くなったことを喜ぶのではなく、悼み泣きました。ダビデは、間違いの多かったサウルでしたが、神の立てられた器が失われたことを嘆いたのです。

 

 私たちはいかがでしょうか。人間的な思いで間違った歩みに進み続けないようにしたいものです。神を真実に畏れ、真実な心を持って歩んだダビデにならいたいものです。

                          (久多良木和夫) 

 

 

   2014年 6月1日() 聖日礼拝

         「新生の恵み」         マタイ福音書9章913節 

 

 人との出会いが、私たちの人生を大きく変えるきっかけになることがあります。

 

 マタイは、主イエスとの出会いを通して人生が大きく変わりました。彼は、敵の国であるローマの手下となり、同胞のユダヤ人に対して徴税人となっていました。彼は町の人たちから嫌われていました。誰も彼に声をかけませんでした。

 

 そのマタイに主イエスは「わたしに従いなさい」と声をかけました。彼は、神の愛と恵みと祝福の対象外だと皆からも言われ自分でもそのように考えていました。ところが、主イエスより教えられたことは、そうではなく、神の愛と恵みと祝福の対象内、それどころかその中心であることを知りました。

 

 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(13節)。マタイは、主イエスに従い、主の弟子となりました。マタイは、神の愛を知り、その愛に包まれて生きる恵みをいただきました。神の愛を知り、それを心に受け止めて生きる者となりました。まさに新生の恵みをいただきました。

 

 主イエスは、罪のない御自身の命を十字架で献げられたことを通して、私たちが支払わねばならない罪の代価をすべて支払ってくださり、神と私たちを結ぶ懸け橋となってくださいました。             

                          (久多良木和夫) 

 

    2014年 6月8日() 聖日礼拝

    「聖化の恵み」          ヨハネ福音書15章917節 

 

 聖化とは、神の御心に沿う形で、新しく造り変えられることを意味します。この聖化の恵みと切りはなせないものは聖霊なる神のお働きです。自分の力の足りなさを覚える時、天からの助け、励まし、支えは大きな感謝です。

 

 ペンテコステの日に主イエスの弟子たちに聖霊が降り、主を証しするために、そして伝道するための大きな力が与えられました。伝道するためには、内なるものが整えられる必要があります。喜び、祈り、感謝、また信仰、希望、愛に満たされることが大切です。

 

 主イエスは弟子たちに、大切な教えを伝えました。第1は、主の愛にとどまること、すなわち主の掟を守ることです(9-10節)。自分の考えよりも聖書の御言葉を優先することです。

 

 第2は、互いに愛することです。人間関係ほど大変なものはありません。人と人、国と国の関係がこじれいがみ合い、冷たい関係になり、戦いにまで発展します。主の御命令は、互いに愛し合うということです(12節)

 

 第3は、出かけて行って実を結ぶことです。(16節)。実を結ぶことは簡単ではありません。ましてその実がずっと残ることは難しいことです。実を結ぶために主イエスの名によって祈りなさいと告げられました。与えられた救いの恵みを感謝して、その信仰を生涯に亘って全うすることを願います。聖化の恵みをいただき、進んで行きましょう。                              

                          (久多良木和夫)

 

 

  2014年 6月15日() 聖日礼拝

        「神癒の恵み」         マルコ福音書5章2534節 

 

父なる神さまが持っておられる「癒しの恵み」は、神さまの側から人に与えられる贈り物です。この恵みをいただくとき、軽い状態で済んだり、日常生活が維持できたり、施された医療が最善に働いて健康が与えられるのです。


 ガリラヤ湖のほとりの人混みの中が大切な場所になった一人の女性は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」(28節)と思いました。

 主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(34節)と言われました。聖書は、主イエスが病気を癒す力を持っておられることを語っています。主イエスが服に触れたこの女性と言葉をかわされたのは、主イエスのことを忘れないでいてほしいという願いがあったからです。

 

 この後、主は十字架にかけられ、すべての人の罪の身代わりとなってくださいました。そして復活されました。そのことによって人は父なる神さまから罪の赦しをいただくことができるようになりました。この女性が主イエスを覚えているなら、この霊的な救いをいただくことができるのです。                                         

                         (久多良木志津子)

 

 

        2014年 6月22日() 聖日礼拝

              「再臨の恵み」    ヘブライ人への手紙9章24-28節 

 

聖書の福音の中心にあるものは、神の御支配であり、神の愛です。

神の御支配とは、神によるこの世界のすべてのものの創造です。この地球には、特別な恵みが与えられています。そして歴史の支配です。

 

 神の愛とは、神より救い主として、イエス・キリストが遣わされたクリスマスの出来事であり、この地上での歩みの最後、十字架につけられその命が取り去られました。主イエスは、私たちが受けるべき罪の罰を身代わりとなって受けてくださいました。この主イエス・キリストを救い主と認め受け入れる者には、罪の赦しと永遠の命が与えられる。神のご支配とその愛は、今もこの世界を覆っている。その大いなる恵みは注がれ続けている。なんという感謝、ハレルヤです。

 

 「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」(27節)。私たち一人一人に例外なく、訪れるもの、受けねばならないものが、2つありまする。第1のものは、死です。命の終わり、人生の終わりです。第2のものは、裁きです。神の前に、この地上においての歩みにおいて、どのように歩んだかを問われる。すべてが明らかになるのです。この世界には、さまざまの矛盾があり、悪がまかり通っていることが多いことです。悪しきことが陰において行われ、そのために苦しむ人がたくさんいる。力と力の関係の中でことが決着し、それで良しとする。そのようなこともすべて、神の前に裁きを受けなければならない

 

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(28節)。

 

 主イエスの約束は、もう一度来られるということ。そのことを「再臨」と言います。再臨とは、復活し、天に昇られたイエス・キリストが世界の終わりの日に、クリスチャンを天へ導き入れるため、また、世界を義をもってさばくために、再び地上に降りて来られることです。

 

「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:44)。最初に来られた時、キリストは苦しみのしもべとして来られ、私たちののために十字架につけられました。この次来られる時は、征服する王として来られます。現在の地上はサタンが支配権を握り、人類はその罪とサタンの誘惑によって翻弄されており、そこには神の統治が見られないかのような状況を呈しておりますが、再臨の際にはサタンは穴に閉じ込めれて、キリストがこの地上においてその統治を開始されます。

 

 本日は、ホ群弾圧受難記念礼拝の日です。1942年(昭和17年)626日から始まった旧ホーリネス教会への宗教弾圧、多くの牧師が検挙され、獄に投げ込まれ、牧師とその家族、教会員は大きな苦しみを受けた。翌1943年(昭和18年)には、教会解散命令が出され、くの教会員が散らされた。解散理由としては、第1は神宮に対する不敬です。唯一の創造神に対する信仰が神宮、国家神道に対する不敬、第2は天皇に対する不敬です。すべての人がキリストに対する信仰によって救われるとすることは現人神として、最高の支配者として天皇をも罪人とすること、第3は国体変革を企図せる罪です。キリストが主の主、王の王として再臨されることを宣伝することは、国体変革を企図せる罪すなわち治安維持法違反になる。当時の日本はアジア全体を支配し、世界をも支配せんとしていました。その弾圧の苦しみは、敗戦の年の1945年まで続きました。再臨信仰が狙い撃ちされたのです。

 

弾圧の苦しみを受けて信仰の道から離れて行った人たちも多くいたことはとても残念ですが、一方、苦しみを受けつつも、信仰の道から離れなかった信仰の先輩たちもいた。その人たちの祈りと信仰によって、そして神の大きな恵みによって、ホーリネスの群は、戦後2年目の1946年に、その旧ホーリネス教会の中で、日本キリスト教団の中にあって、ホーリネスの群が結成されました。

 

 私たちの北九州復興教会も、1946年、山中日出刀牧師を中心として、この北九州の地で伝道開始しました。弾圧で解散させられた北九州の3つの教会すなわち戸畑聖教会、八幡聖教会、門司聖教会の主だった方々が山中師のもとに結集し、私たちの教会は、スタートした。そして、現在があります。                         

                         (久多良木和夫)

 

 

       2014年 6月29日() 聖日礼拝

      「神に貴く用いられる器」  テモテへの手紙二2章14-26節 

 

 今日の箇所は、福音宣教のゆえに迫害に会い、ローマの獄中につながれていた使徒パウロから、エフェソの教会を牧会していた愛弟子のテモテに宛てて書かれた手紙です。この頃、エフェソの教会では、外からは弾圧、内部においては福音から外れた異端が横行し、嵐の中に立たされているような状況にありました。

 
そのような中にあって動揺しているテモテに対して、パウロは、「あなたの祖母ロイスと母エウニケに宿り、それがあなた自身にも宿っている純真な信仰を思い起こす」ように語り、また、「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」と、委ねられた福音を率直に、大胆に語るよう勧めました。

 

 そして、教会を「大きな家」にたとえて、テモテに、その家の中で「貴いことに用いられる器」になるようにと命じました。大きな家には金や銀でできた価値ある器だけではなく、木や土でできた価値のない器もある。しかし、価値のないものであっても、「諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器となり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです」(21節)。

 
諸悪から離れるとき、神は主イエスの血潮をもって、汚れを清めて下さり、木や土の器のような、無価値なものを価値あるものに変えてくださいます。                                                

                            (井上博子)

 

 

 2014年 7月6日() 聖日礼拝

       「主の御前で踊ったダビデ」   サムエル記下 6章1223節

 

 皆さんは、心を込めて行うこと、情熱をもって行っていることは何かあるでしょうか。それは自分のことでしょうか、それとも他の人のことでしょうか。

 

 ダビデはついに王となりました。神の箱がエルサレムに運ばれて来た時、心から喜びました。「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた」(14節)神の箱の中には、十戒の石の板が納められていました。長く、敵であるぺリシテ人に奪われたままでした。その神の箱が戻って来たのです。

 

 ダビデの願いは、エルサレムを契約共同体の中心にしようということであったかもしれません。また祭司が着用するエフォデを着ていたことより、あのメルキゼデクのような王であり祭司であるあり方を願っていたのかもしれません。

 

 ダビデは、主のご支配、助け、守りを感謝し、それを心より感謝しました。そして体全体をもってそのことを表しました。

 

 私たちは、何を神に捧げているでしょうか。賜物でしょうか、財でしょうか、時間でしょうか。人の目を気にすることなく、人の前ではなく、主の御前で心を込めて踊りたいものです。

 

 ダビデの姿を嘲笑ったミカルは、斥けられました。他の人の真剣な姿を批判することなく、自らが真剣な姿で歩みましょう。 

                          (久多良木和夫)

 

 

 2014年 7月13日() 地区講壇交換礼拝

           「今日あるは神の恵み」   コリント二 15章1-11節

 

悪魔の罠は、過去や未来にばかり目や心を向けさせ、現在に目や心を向けさせず、今現在の歩みを空っぽにすることです。私たちは時の罠にひっかかります。

 

 10節には、神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と記されています。口語訳では、「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」と訳されています。原語では、「しかし」があります。この「しかし」が大切なのです。これは「大いなる信仰的しかし」です。

 

 パウロ自身は、過去における自分自身の歩みを振り返り、信仰における未熟児、クリスチャンを迫害したものだと告白しています。しかし復活の主イエスとの出会いによって主の弟子となりました。そして今あるはただ神の恵みであると告白しています。私たちも同じです。信仰的な熱心さ等ではなく、ただ神の恵みによって今あることを告白する者こそ、本当の信仰者の姿です。

 

 今日あるは神の恵み、それは、私たちに対しての神の肯定があるからです。私たちの罪がどんなに大きくても、主イエスキリストにある罪の赦しが与えられているのです。だから、私たちも自分の人生を肯定しても良いのです。神さまが私たちを肯定してくださっているのです。だから、私たちは心から感謝して希望に生きることができるのです。

 

 パウロは救いの福音の中心は、主イエス・キリストの十字架と復活にあると力強く語っています(3-4節)             (安藤洋介師)

 

 

 2014年 7月20日() 聖日礼拝

       「ダビデの罪と悔い改め」   サムエル下11章151417節      

 

 かつて羊飼いの少年だったダビデも、ついに王となりました。サウル王に追われた時も神を畏れ、サウルに手を出さなかったダビデですが、王となって気が緩み大きな罪を犯しました。

 

 それは、ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫の罪でした。それだけではなく、ウリヤを戦場の最前線に送り戦死させました。ダビデは、モーセの十戒の中の第6から第10までの戒めをすべて破りました。

 

 ダビデはすべてが、思い通りにそして計画通り行ったと考えたことでしょう。自分の犯した罪はこれで誰にもわからないと思ったことでしょう。でも、天の神さまはすべてを見ておられました。預言者ナタンをダビデのもとに送り、ダビデの罪を指摘しました。

 

 王となったダビデは、ナタンの指摘を無視したり、ナタンを消し去ることもできたでしょう。でもそうしませんでした。ダビデは自らの罪を認めました。ダビデは罪を悔い改めました。神はナタンを通して、彼の罪の赦しを宣言してくださいました。

 

 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23)

                                      (久多良木和夫) 

 

     

 2014年 7月27日() 特別伝道礼拝

          「弱さを誇る」     コリント二12章9-10節

 

信仰の世界、宗教の世界、弱い者がするものだという偏見があります。人間は自分の力、自分の能力 それを頼っているところがあります。でも、本当は誰一人強い人はいないのです。今の世の中は強さや頭の良さを求めている。効率を求めています。すぐに結果が出ることを求めています。しかし、人の価値は見えるところではなく、見えないところにあります。

 

聖書は負けても良いのだと言っています。だから安心があり、平安があります。パウロ自身は、人間的に強い人。キリストに出会う前は強さを誇っていた人間でした。キリスト教への迫害者でした。キリストとの出会いの後では、迫害を受け、艱難、辛苦を経験しました。彼は、自分の弱さを誇ると言うのです。

 

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました(9節)。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 

人間が自分の力や自分の強さに立つ限りは神を見ることはできません。弱さに立って、神の愛と恵みを知ることができます。自分の弱さ、挫折、痛み、苦しみ、病気、そういうところで、神の愛や恵みを知るのです。病気、苦しみに遭って、初めて今までと違った世界が開かれます。どういう世界か 霊の世界です。自分は愚かな人間だったと知って、その弱さに立って、初めて神を見ることができるのです。

 

弱さを誇るということは、キリストに生かされているという信仰告白です。弱さに立つところに信仰告白があります。                                    

                   (仙台青葉荘教会牧師 潮 義男師)

 

 

 2014年 8月3日() 聖日礼拝

         「ダビデの感謝の歌」     サムエル記下22章1-7節

 

  サムエル記下22章1-51節のダビデの感謝の歌は、詩編18編1-51節としても記されています。ダビデの晩年の歌です。

 

 自分の一生を振り返り、主の守りと助けをいただいたことを覚えダビデは感謝しました。なんと幸いなことでしょう。私たちもその恵みへと招かれています。

 

 ダビデの人生は波乱万丈でした。羊飼いの少年ダビデはやがて王となりました。しかし、サウル王から命を狙われ、自分の子どもであるアブサロムから反逆を受けました。大変なところを数多く通り、悲しみ、苦しみ、孤独を経験しましたが、主の守りと助けをいただきました。

 

 主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(2-3節)ダビデは主を讃美しました。「ほむべき方、主をわたしは呼び求め敵から救われる。」(4節)苦難の中から主を呼び求め わたしの神を呼び求めるとその声は神殿に響き叫びは御耳に届く。」(7節)

 

 旧約聖書の中で、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨナなどは、苦難を経験して練られ神に用いられた人物です。

 

 主は信頼する者たちを顧みてくださるお方です。どのような時にも、主に信頼して進みましょう。                (久多良木和夫)

 

     

 2014年 8月10日() 召天者合同記念礼拝

         「天の故郷」          ヘブライ11章8-16節

 

 この世界は天の神さまによって創造されたものです。人は神のかたちに似せて造られました。しかし、人は罪のゆえに、神に背を向け、神を忘れて生きるようになりました。その結果、人は孤独、悲しみ、絶望を経験するようになりました。

 

 神は、この世界に住む私たちのために、確かな救いの御手を伸ばされました。全世界の民に先駆けて、神はまずアブラハムを選ばれました。

 

 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(8節)。アブラハムが神に従うその信仰の歩みが一つの民を形作りました。彼自身も、この世が与ええない確かな救いを求めていたのでしょう。

 

 最終的には、神は、救い主イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。主イエスの十字架は、私たちの罪の身代わりでした。

 

アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(10節)「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(16節)

 

 天の故郷を用意していてくださっている神さまを仰いで進みましょう。主にあって、平安、感謝をいただき、信仰、希望、愛に生きましょう。天の神さまはあなたに愛を注ぎ続けてくださっています。                           

                          (久多良木和夫)   

 

 

 2014年 8月17日() 聖日礼拝

        「あなたが左に行くなら」     創世記13章1-18節

 

 エジプトに下ったアブラムは、妻サライのことでエジプトのファラオに追い出されて、ネゲブを経て、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだベテルに帰って来たのですが、そこで、アブラムと共に旅をしてきた甥のロトとの間で問題が起こりました。アブラム、ロトの両者共に持ち物、すなわち家畜を多く所有しており、一緒に住むには土地や牧草地が不足してきて、アブラムの家畜を飼う者とロトの家畜を飼う者との間で争いが始まっていたのです。そこで、アブラムはロトに提案します。「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」(9節)。


 アブラムの提案は、この世の人たちが行うように、ありとあらゆる課題を話し合いで解決したり、議論したり、調停者を立てて裁判で決着をつけるのでも、また、何とか両者の間で折り合いをつけて一緒にやっていこうというのでもなく、「わたしたちは親類同志なのだから」、「主にある兄弟なのだから」ということで良い交わりを続けていくために、それぞれ別の場所で使命を果たそうと提案してロトに選択の優先権を譲りました。

 

 アブラムにとって、それは一見、不利な状況におかれたかのようではありますが、神が自分を大いなる国民とし、その名を大いなるものにして下さる、という祝福の約束のみ言葉への確信があったのです。                                  

                            (井上博子)

 

     

 2014年 8月24日() 聖日礼拝

          「知恵を求めたソロモン」     列王記上3章415節

 
 ダビデの死後、その子ソロモンがイスラエルの王となりました。ソロモン自身、不安と恐れがあったことでしょう。ソロモンは、夢で、神さまから何事でも願いなさいと問われ、次のように答えました。「
どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(9節)。ソロモンの願いを神は喜ばれました。

 

 知恵を求めたソロモンの願い、祈りは現代においても大切なものです。現代は、インターネット等でさまざまな情報を得ることができます。でもその中には人を惑わし悪に誘い込むものも多数あります。それらの悪を見分ける知恵が必要です。

 

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エフェソ11719)           

                         (久多良木和夫)

 

 2014年 8月31日() 聖日礼拝

          「喜ぶことの秘訣」       フィリピ4章1014節   

 

 フィリピの信徒への手紙は、パウロ自身が、捕らわれの身にありながら、喜んでおり、フィリピの教会の人々にも、「喜ぶこと」を勧めているので、「喜びの書簡」とも呼ばれています。フィリピの教会は、決して豊かではなかったのですが、献金をパウロのもとに届けました。パウロは、そのお礼を記したのです。

 

 パウロは、与えられた物、現実的な富以上に大切な関係で、フィリピの教会の人々につながっていました。それはたとえ何の贈り物が来なかったとしても、壊されることのない関係です。「富んでいることにも、貧しいことにも支配されることなく、どんな境遇においても、対処し満足し生きることができるようにしてくださるキリストの力、愛、霊に支配されている」ことを述べています。

 

私たちは、人生のいろいろな境遇にあって、自分がそこにいることの意味、神さまの御心を発見できるものでありたいと思います。

 

喜ぶことの秘訣の一つは、想像力を豊かに働かせて、神さまが私たち一人一人をどんなに愛してくださっているかを思うことです。               

                        (久多良木志津子)

 

     

 2014年 97() 聖日礼拝

        「ソロモンの背信」       列王記上11章1-13節   

 

  「終わり良ければすべて良し」ということわざがあります。英語では

The end crowns all.”と言うようです。ソロモン王の歩みは、残念なことにその反対でした。                   

 

 彼は、王となって間もない時には、へりくだって、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えくださいと主に求めました(3:9)。しかし、人生の後半、晩年になって、多くの外国の女性を妻や側室として迎え、心迷わされました。「彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。」(11:3)。彼は、彼女たちに惑わされて、真の神を忘れ、背を向けました。そしてそれらの女性たちが持ち込んだ偶像礼拝を認め、自分も行うようになりました。

 

 主イエスは、神から離れたなら、霊の実を結ぶことはできない、だからしっかりつながっているようにと告げられました(ヨハネ福音書15:1-6)。

 

 「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3:5-6)。自分の分別を第一にするのではなく、主に寄り頼み進んで行きましょう。罪が示されたら、素直に悔い改めましょう。主を礼拝しつつ、歩んで行きましょう。

                          (久多良木和夫) 

     

 

 2014年 9月 14日() 敬老祝福礼拝

      「御顔こそ、わたしの救い」       詩編42編112節      

 

 老後を楽しむために、3つことが必要だと良く言われます。第1は健、第2

はお金、第3は生きがいです。どれが大切か人それぞれ違いますが、生きがいは

最も大切なものの一つです。生きがいを持つためには誰と過ごすかは大事なこと

です。年を取ると、共に歩んで来た人が先に亡くなったりしてだんだん少なくな

り寂しくなります。

 

 詩編42編は、渇きと悲しみと寂しさを経験した一人の信仰者が記しています。なぜうなだれるのか、わたしの魂よなぜ呻くのか。(6節前半、12節)。幸いな歩みの以前とは違う現在を経験しています。

 

 その中で、与えられた光は、神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう「御顔

こそ、わたしの救い」と(6節後半)ということです。御顔とは、神ご自身です。

共にいてくださる主ご自身です。

 

 「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)これは復活のが、

恐れていた弟子たちのところに来られておっしゃた御言葉です。「安かれ」「平安があるように」ということです。

 

 どんな時にも主を見上げ、日々、主に祈り従って行きましょう。主は共にいて

くださいます。救いの主の愛に満たしていただきましょう。 

                          (久多良木和夫)
 

     

 2014年 9月 21日() 聖日礼拝

    「進言した勇気あるエリヤ」   列王記上16章1629177節       

 

 紀元前9世紀において、預言者エリヤは活躍しました。時の王アハズ悪の

王であり、その王妃イゼベルも最悪の王妃でした。どのような味で最悪であっ

たか、それは、偶像礼拝を大々的に行い、真の神を信る者たちを迫害し、死に

追いやったのでした。

 

 誰もアハブ王に進言できませんでした。進言することは命の危険あたからで

す。しかし、エリヤは進言しました。「わたしの仕えているイスラエルの神、主

は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らない

であろう。」(17:1)。

 

エリヤは、イザヤが聞いたように。神さまからの力強いお言葉を聞いてたこ

とでしょう。「恐れるな、・・・わたしはあなたを助ける」(ザヤ書414)、「恐れるな、・・あなたはわたしのもの」(イザヤ書431)

 

 神は、ケリト川のほとりでエリヤを数羽の烏を用いて、養ってくださいまし

た。私たちも神さまによって強めていただき勇気ある者として、歩ませていただ

きましょう。                                    

                         (久多良木和夫)

 

     

 2014年 9月 28日() 聖日礼拝

       「心の貧しい人々は幸い」     マタイ福音書5章112節      

 

 「心の貧しい人」とは、自分の限界を認めて、神さまに物乞いをするように、神さまに頼る人、「へりくだる霊の人」のことを言っています。「天の国は、その人たちのものである。」とは、将来、天の国の祝福を受けるというだけでなく、現在、今、その幸いを受けるということです。主イエスのそばに近寄って話を聞いていた弟子たちは、自分たちの中に実現する天の国(神の国)があることを教えられたのです。

 

私たちは、人の知恵、知識ではどうすることもできない多くの事がらの中で生かされています。いつものように日常生活を送りつつ天の国に入る備えもしておかなければなりません。

 

 「自分の未来は、真っ直ぐに伸びた道のように思えた。いつも先までずっ

と見通せるような気がした。ところが今、曲がり角に来たのよ。曲がり角を曲がった先に何があるかわからないの。でも、きっと一番良いものに違いないと思うの。」村岡花子訳『赤毛のアン』より

                         (久多良木志津子)

 

 2014年 10月 5日() 聖日礼拝

         「カルメル山での戦い」      列王記上18章1624節     

 

 紀元前9世紀、北イスラエルにおいて、アハブ王の時代、偶像礼拝が国中でなされ霊的に暗黒の時代でした。そのような時にエリヤは、預言者として活動しました。

 

 カルメル山で、バアルの預言者450人と主の預言者エリヤ1人の対決です。エリヤは集まった民に「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」と語りました。ラオデキヤ教会に語られた主の言葉を思い出します。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。(ヨハネ黙示録3:15)。

 

エリヤはその戦いに勝利しました。エリヤの祈りに主が応えてくださったからです。エリヤは祈りにおいて、自分の栄光ではなく、主の栄光を求めました。また、その奇跡により民が神を知るようになることを願いとりなし祈りました。(37節)。 

                          (久多良木和夫)

 

 

 2014年 10月12日() 聖日礼拝

       「地の塩、世の光とは」     マタイ福音書5章1320節

 

 「いつも塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。」(コロサイ4:6)とありますように、塩は大切な調味料です。塩が適度に加わることによって素材を美味しく食べることができます。また塩は防腐剤としての働きもあります。主イエスが「あなたがたは地の塩である」と言われたのは、弟子たちを塩の働きに例えられたのです。また、世の光である主イエス・キリストの光を、人々が見るようにしなさい、枡をかぶせてランプの光を消してしまうようなことをしないようにと語られました。

 

 先日のピスガ聖会でチェ・セウン師は大手術を経験された後のことを次のように語られました。「このまま主の前に進む(天に召される)としたら、憎む心、不満、不平を持ったままであったら、惨めな存在になると思った。感謝の心をもって進むことを決めて過去を振り返ったとき、感謝の心が湧き上った。」                                    

 

 私たちはどのような心で主の前に進むのでしょうか?「主よ、ごめんなさい」とへりくだる人が、地の塩、世の光だと思います。主の十字架を見上げていきましょう。                   

                         (久多良木志津子)

 

 

 2014年 10月19日() 秋の特別礼拝

       「新しい人生へ踏み出そう」    ヨハネ福音書5章1-9節

 

 「涙は神がおわかりになる言葉です」という詩があります。38年間病気で苦しんでいる人がいました。彼は、べトザタの池で水の動くのを待って真っ先に入るとその人は癒されるという言い伝えを信じ、真っ先に入ろうと待っていました。ベトザタとは、恵みの家、憐れみの家という意味です。でもいつも、周りの人たちが先に入り、癒されませんでした。彼は悔しくて絶望の日々だったことでしょう。また人間不信にも陥っていたことでしょう。病気で苦しんでいたその男性の涙の叫びを聞いてくれる人は誰もいませんでした。

 

しかし、主イエスはその叫びを聞いてくださっていました。主イエスは苦しんでいる彼のもとに来てくださいました。主は彼に「良くなりたいか」と言われました(6節)。彼は「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えました。主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました(8節)。

 

 この床とは、不平、不満、思い煩い、つぶやき、ねたみ、嫉みを表しています。問題は、社会、他の人だけにあるのでなく、あなた自身にもあるのではないかと主は問われたのです。

 

 教会こそ、恵みの家、憐れみの家です。主イエスは私たち人間の本質の病である罪を赦し癒すことのできるお方です。主イエスにあって、古い人生から新しい人生へと踏み出すことができます。    

                           (安藤洋介師)

 

 

 2014年 10月26日() 聖日礼拝

        「落ち込んだエリヤの回復」     列王記上19章118節

 

 預言者エリヤは、命をかけアハブ王にその間違いを進言しました。彼はその三年後カルメル山でバアルの預言者四百五十人と対決して勝利しました。

 

 その勝利の直後のイゼベルの脅しを聞き、エリヤは恐れに包まれました。元気を失い、生きる希望さえ失いました。えにしだの木の下で眠り込みました。

エリヤは、言うならば燃え尽き症候群に陥っていたのです。

 

 天の神さまは、エリアを少しも責めたりしませんでした。今のエリヤに必要なのは休息であるということをご存知でした。

 

 疲れ切って眠り込んでいるエリヤのもとに、御使いを送り「起きて食べよ」と呼びかけられました(5、7節)。御使いはおいしい焼いたパン菓子と水を与えました。エリヤはぐっすりと眠り栄養をつけ元気を回復しました。

 

 エリヤはさらに、自分の働きの後継者エリシャのこと、信仰の同志がいることを教えられました(18節)。主は、先が見えなくなり出口を見失っていたエリヤにビジョンを与え、出口を用意してくださいました。

                             (久多良木和夫)

 

 

 2014年 11月2日() 聖日礼拝

        「ナアマンの癒し」        列王記下5114節

 

 人に言えない悩みや不安を抱えている時は、元気がなくなったり、夜ぐっすり眠れなくなったり、笑顔が少なくなったりします。皆さんはいかがでしょうか。

 

 ナアマンは、アラムという国の軍司令官で、王に次いで高い身分でした。しかし、彼はある時から重い皮膚病になりました(1)。その病のことが人々に知られたら恥ずかしい、今まで持っていた名誉を失ってしまい、その病は不治の病でいずれは死を迎えるというものでした。

 

 彼の病のことを知り、イスラエルから捕虜として連れて来られていた一人の少女が、イスラエルの国に癒すことのできる預言者エリシャのことを告げました。       

彼女は辛い境遇にありましたが、それを乗り越え、ナアマンが癒されることを願いました。彼女のおかげで、ナアマンは癒しを求めてイスラエルの国に行きました。 

 

 ナアマンは、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」というエリシャの言葉に対して、最初怒りました。でも家来たちの進言を受け入れ、神の人エリシャの言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸しました。彼の体は元に戻り、小さい子どもの体のようになり、清くなりました(14節)。

 

 神の愛を信じ、主の御愛の中に飛び込む者に、神は主イエスを通して備えられた永遠の命を与えてくださいます。        

                          (久多良木和夫)

 

 

 2014年 11月9日() 聖日礼拝

        「大切な一人の子ども」    マタイ福音書18章114節        

 

 日本と世界の未来を作るのは、子どもたちです。大人と比べると小さく見えても、とても大切な存在です。

 

主イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と語られました(3-5節)

 

天の国で誰が一番偉いかという問いに対して、主は、それは子どもであると答えられました。小さな子どもは、素直であり、教えてくださいというへりくだった心をもっています。教えてもらったことを素直に受け入れ従います。

神の真理を教えてください、信仰の乏しいものです。信仰を与えてください。愛の乏しいものです。愛を与えてくださいと心から願う者こそ、主に喜ばれる者です。

 

ノーベル平和賞を受賞したマララさんは、「一人の子ども、一人の教師、一冊

そして一本のペン、それで世界は変えられます」と語りました。

 

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(14節)。        

                            (久多良木和夫)

 

 

 2014年 11月16日() 聖日礼拝

     「良い知らせの日」       列王記下7章1-11節

 

私たちの耳にいろいろなニュース、知らせ、情報が飛び込んできます。一世代前の人たちと比べるとその量は十倍、百倍です。しかし、その分、世界がかかえている課題の深刻さに不安になります。そのような時代に生きている私たちは慰め合い、励まし合い、助け合いたいものです。

 

 エリシャは、紀元前9世紀に活躍した預言者です。イスラエルのサマリヤの人たちは、アラムの国に攻められ、包囲されて、飢餓に苦しんでいました。このまま空腹のまま死んでいくしかないと多くの人たちは考えました。4人の重い皮膚病の人たちは、アラム軍が逃げ去り、多くの食糧も残されたままであることを知りました。彼らは自分たちだけ満腹で良いのかと思いました。彼らは、そのことを同胞に知らせました。「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」(9節)

 

 四人の人たちは、良い知らせを自分たちの内にとどめず、周りの人に知らせました。そのおかげで、町の人たちは食糧にありつき、死なずに済みました。「イエス・キリストによる永遠の命」、それはまさに良い知らせです。この福音を知らせていきましょう。     

                          (久多良木和夫)

 

 

 2014年 11月23日() 聖日礼拝

      「主に依り頼んだ王」         列王記下18章112節

   

 紀元前7世紀に生きた南ユダの第13代目の王ヒゼキヤは、主の依り頼んだ王でした。彼は神に背いて歩んだ父アハズ王の後に立った王です。大国アッスリヤが北イスラエルを飲み込み、南ユダに迫っていました。南ユダの国は、霊的にも政治的にも危機的な状況にありました。

 

 ヒゼキヤは、そのような中で真実な信仰に立ちました。彼はあくまでも天の神さまに依り頼みました。「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。」(5節)。

 

 彼は、主に依り頼む信仰に立ち続けました。神は、彼のもとに預言者イザヤを遣わし彼を励まされました(6)。そして勝利を得ました。

 

 ヒゼキヤは、その信仰により、具体的に主に喜ばれる働きをしました。内に信仰が恵まれていただけでなく、それを外への行動で表しました。彼は祭司とレビ人に命じ、荒れ果てていた主の神殿を聖別し、偶像を捨て去りました(歴代誌下29章5,16節)。また彼は、途絶えていた過越祭を行うように命じ再開しました(歴代誌下30章1,15節)

 

 内においては確かな信仰、外においては信仰に立っての具体的な歩みと働き、私たちも彼に習う者でありたいと思います。

                                        (久多良木和夫)                    

 

 

 2014年 11月30日() 聖日礼拝

        「言い尽くせない喜び」        創世記2117

 

「信仰の父」と呼ばれるアブラハムは、彼が75歳のとき、神から、故郷を去ってて、神が示す地へ向かうように命じられました。そうすれば、「あなたは大いなる国民となり、子孫は天の星の数ほどになり、豊かに祝福される」と約束を受けたからです。そこで彼は、行く先を知らないままに出発しました。それから25年が経ち、彼が百歳になったとき、彼の妻サラは90歳で男の子を産みました。そして、主が命じられた通り、その子に「イサク」と命名しました。 

 

「イサク」とは「笑い」という意味です。以前、サラにまだその徴候が現われていなかったときに、アブラハムもサラも、自分たちの理解を超えた、つまり、年を取って、自然の法則からすれば全くありえないと考えられる、そんな二人から子供が生まれるという神の御計画を、御使いから聞いて、秘かに笑ってしまいましたが、そのことがイサクの名前の起源となったのです。サラは、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と言います。

 

 かつて、神の奇想天外な御計画を笑った自分達であったが、今や逆転して自分達が笑われている。そのように言いながら、しかし、皆から嘲笑されるような、そんな状況を備えてくださった神をほめたたえ、神が誠実に約束を果たしてくださったことに感謝しつつ二人は、「言い尽くすことのできない喜び」に包まれました。
                           (井上博子)

 

 

 2014年 12月7日() 聖日礼拝

       「世に来たまことの光」      ヨハネ福音書1113

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1-2節)。この世界の始まりは130億年よりもっと前ではないかと言われています。神は、その最初からおられ、この世界を創造されました。この言(ことば)は、主イエスを指しています。主イエスは、神と共におられた方です。世界は特にこの50年急激に変化しています。これから世界はどうなって行くのかと心配です。そのような中にあっても、永遠の始めから永遠の終わりまで支配しておられる神を信じる者は、その御力、ご支配のもとで、恐れず歩むことができます。

 

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(4-5節)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(9節)。現実の生活において難しい問題が多くあります。事態は以前より深刻ということもあります。そこに必要なものは光と命ではないでしょうか。私たちの心の内側に、魂の内側に光と命を与えてくださるお方、その方こそ主イエス様です。

 

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(10-12節)。自然、食べ物、花・・自分の命、人生、家族、友、・・これらすべては、神さまからのプレゼントです。その上に神さまが私たちに最高のプレゼントを用意してくださいました。それこそクリスマスの出来事であり、救い主イエス様です。

 

多くの人はそのことを知りません、また忙しさや自分の欲望を優先するあまり無視します。しかし、その大きなそして最高のプレゼントに気がつき、また無視することをやめ、それを心から感謝して受け取る者に神さまの子どもとなる資格を、特権を与えてくださいます。

                           (久多良木和夫)

 

 

 2014年 12月14日() 聖日礼拝

       「戸惑いから信仰へ」       ルカ福音書1章2638節

 

「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(29節)とあります。今まで、素晴らしい音楽に合わせて気持ちよく踊っていたのに突然その音楽が聞こえなくなったのと同じような状態になったのです。マリアは天使と会話を交わした後に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)とそのハプニングを受け入れ、主がなそうとしておられることが実現するように私を使ってください、と心を定めたのです。 

              

私たちは予想もしていなかったことに出会うことがあります。こんなはずで

はなかったと後ろ向きになってしまうことも。しかしそこでマリアのように信仰に立つなら、その境遇の中で感謝を与えられつつ進んでいくことができるのです。

 

 マリアはこの時から、主が共にいてくださる日々を歩んでいきます。社会において、個人において不安なことがいっぱいの今日ですが、私達もマリアに続く者として一歩一歩の信仰の歩みをさせていただきましょう。

                                     (久多良木志津子)

 

 

 2014年 12月21日() クリスマス礼拝

      「救い主への贈り物」       マタイ福音書2112

 

 私たちは恵みに遠い、顧みられていないと嘆くことがあります。主なる神はそのように嘆いている者、不安と恐れの大きい人に対して、心を向けてくださり特別に恵み深い方です。

 

 ユダヤの国から一千キロ以上東に住む学者たちは、特別の輝く星を見て、ユダヤの国に旅をしやって来ました。

 

 救い主よりも自分の地位ばかりを考え、自分の地位を脅かす者は誰であっても消し去ろうと考えていたヘロデは救い主に会うことはできませんでした。

 

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9-10節)救い主を捜し求める者、神に対してへりくだる者であった学者たちはついに救い主に会うことができました。大きな喜びに包まれました。彼らは心からのささげものである黄金、乳香、没薬を捧げました

                             

 救い主である主イエスはどのような贈り物を喜ばれるでしょうか、高価な物

でしょうか、そうではありません。一番喜ばれる贈り物は、神さまありがとうございますという心であり、私の心の中にお入りください、この私と共に歩んでください、導いてくださいという申し出です。    

                              (久多良木和夫)

 

 

 2014年 12月28日() 年末感謝礼拝

      「信仰、希望、愛」  コリントの信徒への手紙一13章113節

 

 2014年の教会の標語は、「信仰、希望、愛」でした。信仰、希望、愛、それらは私たちの内には限られています。時にはほとんどないことに気づかされます。それらをお与えください、満たしてくださいと主に祈りつつ歩みましょうと語らせていただきました。

 

 大きな行事として、3月に希望の祭典in FUKUOKA、5月にラブソナタ下関の特別伝道集会があり、私たちの教会からも参加しました。

 

 この年、5名の兄弟姉妹が主の御許に召されました。それぞれ、信仰、希望、愛を大切に歩まれました。

 

 「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(8節)。愛は、預言、異言、知識より大切です。愛は、信仰、希望よりも大切です。なぜならその愛とは神の愛だからです。愛の神によって私たちは救われたのであり、神の愛が今も私たちに注がれているからです。神の愛は今もあなたに対して、「神の愛の中に生きよ」と招いています。     

                            (久多良木和夫)