2015年11月

   2015年 11月29日() 聖日礼拝

     「主の名を呼び始める」       創世記41326

 

 主なる神にエデンの園から追放されたアダムとその妻エバの間に、カインとアベルの兄弟が生まれ、成長した二人は、それぞれ神に献げ物をしました。しかし、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」ので、怒ったカインは弟アベルを襲って殺してしまいます。補い合い、助け合う関係を否定し、抹殺してしまいました。

 

 そのために、カインはさまよい、さすらう者となり、その生き様は代々受け継がれ、レメクに至って、他者はすべて敵となり、孤立化していきました。さらに、レメクの息子トバル・カインは、「青銅や鉄でさまざまな道具を作る者」となり、それがそのまま武器となって、「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」復讐すると決意するほどに、報復の連鎖の中におかれるになってしまいました。

 

 人々が、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(26)。神は祈りに応えて下さり、二千年前、レメクの世界のまっただ中に、敵を友とするために、その独り子を送って下さいました。「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ36)「主の御名を呼び求める者はだれでも救われる」 (ローマ1013)。   

                           (井上博子) 

 

 

 

2015年 11月22日() 聖日礼拝

 「安らぎを受ける」        マタイ福音書112530

 

主イエスに学ぶ第1のことは、まず天地の主なる神に呼びかけ、この方をほめたたえることです。「イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」(25節)

 

 第2のことは、「幼子のような者になる」ということ、口語訳では、「わたしは柔和で、心のへりくだった者であるから」、新改訳では、「わたしは心優しく、へりくだっているから」とあります。「幼子のように」ということは、自分は立派だと思わず、へりくだっているということです。 主イエスは、御自身の命をかけて、すべての人のしもべになられました。

 

第3のことは、キリストと共にキリストの荷を負うということです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(29節)私たちは、キリストが作ってくださった一人一人にぴったりのくびきを負い、キリストに導いていただくのです。キリストが、同じくびき(横木)につながれて、私たちの最も近くにおられ、私たちと同じ荷を担い、共に苦しみ、私たちの辛さと同じ辛さを味わってくださっておられるのです。                          

  (久多良木志津子)



2015年 11月15日() 聖日礼拝

 「神の愛と慈しみ」           詩編62113

 

「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。」(11節)。暴力とは、力や財力、軍事力による他の人へのひどい行いを意味します。搾取とは不正、策略による他の人の大切なものを奪うことを意味します。それらは魅力的に見えることもありますが、それに寄り頼んではなりません。神はそれらに対して、最後は裁かれます。

 

 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」(2節)。「民よ、どのような時にも神に信頼し御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(9節)。忙しい日々の中にも、主の御前に静まる時を持ちましょう。すなわち、聖書の御言葉を読み、祈る時をしっかり持ちましょう。


 「力は神のものであり 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と」

(12,13節)。神こそすべての良いものを創造してくださった方です。神に感謝することを忘れないようにしましょう。慈しみとは、ヘブライ語で「ヘセッド」です。その意味することは契約の愛、真実の変わらない愛です。

                           (久多良木和夫)



2015年 11月8日() 聖日礼拝

     「恵みと憐みの神」           ヨナ書4111


 預言者ヨナは、紀元前8世紀前半に活躍しました。彼は神のご命令に聞き従いませんでした。その結果、嵐の海の中に投げ込まれました。しかし神は、大きな魚を送り、彼の命を救われました。ヨナは、ついにニネべの町に宣教に行きました。その結果、ヨナの人々は滅ぼされることを逃れました。


 ヨナは、自分たちにひどいことをするアッスリヤの首都ニネべの人たちが好きではありませんでした。ヨナは、彼らが滅ぼされなかったことに対して怒りました。また、とうごまの木が一夜で枯れてしまったことを怒りました。


   主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(10-11節)。神の愛は、選民イスラエルにとどまらず、異教の国の民にも注がれています。


 「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(2節)神は、恵みと慈しみの神です。

                                     (久多良木和夫)



2015年 11月1日() 聖日礼拝

  「私の内に清い心を」         詩編511219    

 

この詩編51編はダビデが大きな罪を犯し、そのことを心に留め書かれたものです。ダビデは王となった後に、バテセバとの姦淫の罪、その夫ウリヤの殺害と取り返しのつかない罪を犯しました。

 

 「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(3、4節)。ダビデはもがき苦しみました。自分の内にある闇に気がつきました。自分中心の心、汚れた心、恐ろしい心を覚えて、この自分を憐れんでくださいと心より祈りました。

 

 神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。」(12節)。清い心、それは単に清らかな心という意味ではありません。恐れない心、平安な心、希望の心です。それを与えてくださるのは主なる神のみです。

 自分の力では限界です。どうすることもできませんと主に依り頼む者に主はなしてくださいます。


 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(19節)。                            

  (久多良木和夫)