2015年 1- 6月

2015年 6月28日() ホ群弾圧受難記念礼拝

      「神の御心に従って生きる」  マタイ福音書51012

 

1942年6月にホーリネス系教会への弾圧が始まりました。翌年には、宗教結社禁止令が出され、ホーリネス系教会は教会を解散させられました。この弾圧により大打撃を受けました。なぜこの弾圧がなされたか、それはホ-リネス系教会が再臨信仰を掲げていたからです。再臨の主イエスが、最後に歴史のすべてを支配しすべてを裁かれるという再臨信仰を当時の日本国家は危険なものだと考え弾圧したのです。その弾圧によって受けた打撃はとても大きなものでした。日本国家は、この弾圧の前年の1941年に治安維持法を改正し、弾圧の準備をしていたのです。

 

 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(10節)。目に見える世界がすべてではない。この世がすべてではない。目に見えない世界がある。天の国がある。すべてを支配しておられる神がおられるのです。

 

同じく弾圧を受けた日本ホーリネス教団は、1997年に、戦争責任に関する告白を出しました。その告白は、当時の自分たちの歩みを真実に告白したものです。真摯に自分たちの姿勢を問うものであり、大いに評価すべきものです。

 

 神の御心に従って歩む時に、戦いがあり、苦難を受けることもあります。それでも神の御心に従う者によって、後に続く者は幸いを受けるのです。

    (久多良木和夫)



2015年 6月21日() 聖日礼拝

      「主イエスの言葉の力」      ルカ福音書7:1-10


この聖書の箇所から、主イエスとは、どのような方かということを教えられたいと思います。

 

1.主イエスは頼みに来た人のことを思い、何とかしてあげようと動いてくださる方です。私たち人間を愛しておられる方です。百人隊長は長老たちを使いにやって部下を癒してくださるようお願いしました。

 

2.病気を癒してくださる方です。人間を創造された天の神さまと三位一体の方です。医療という優れた手段がありますが、身体を創造され、身体のすべてを知っておられる方によって身体は修復されるのです。

 

3.ほめてくださる方です。百人隊長は、ローマ人であり、まことの神さまを礼拝していない民でしたが、ほめてくださいました。彼のうちに、主イエスを「権威ある神」と信じる信仰を見られました。

 

4.場所を超えて働かれる神です。百人隊長の信仰を「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われたその時に、病気だった部下は元気になりました。

   (久多良木志津子)



2015年 6月14日() 聖日礼拝

      「大いなる力と栄光の主」   マルコ福音書132427

 

 現代、この世界に住む多くの人たちは、不安と恐れを心の深いところで持っています。それは、自分自身のことにおいて、もう一つは、この世界のことにおいてです。主のご支配を心に留めて、主に信頼し祈れる者は幸いです。 

 

 マルコ福音書13章は、直接的には、その時からおよそ40年後の紀元70年のエルサレム神殿の崩壊を予告しているところです。それと共に、この世界の終わりを予告しているところです。

 

 終末のしるしは、偽キリストの出現、戦争と戦争の噂、地震、飢餓、福音が全世界に宣べ伝えられること等であることを主イエスは語られました(6-10節)。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」(26節)。人の子とは、再臨の主イエスのことです。主イエスは、最後の最後、栄光の主として来られます。私たちは、どのような時にも、再臨の主を待ち望みつつ、歩みましょう。 

            (久多良木和夫)

 


 2015年 6月7日() 聖日礼拝

     「目を覚ましていなさい」   マタイ福音書243644

 

 今月は、四重の福音強調月間です。今年6月は、「新生、聖化、神癒、再臨」の四重の福音の中の再臨に焦点を合わせて、メッセージをさせていただきます。

 

 主イエスは、救い主としてこの世に来てくださいました。そのクリスマスの出来事は「初臨」と呼びます。復活の主イエスは、すべてを直接支配するためにもう一度来られます。そのことを「再臨」と呼びます。

 

旧約の時代、ノアの生きていた時代、人々は、まことの神さまを無視して、自分勝手に生きていました。心の中には悪い思いがいっぱいで互いに喧嘩ばかりしていました。その結果、洪水によって滅ぼされてしまいました。

 

「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られる

のか、あなたがたには分からないからである。」(42節)。この世界の主人は、三位一体の天の神さまです。主イエスは再び来られます。目を覚ましているとは、具体的には、日々の歩みにおいて、聖書に親しみ、祈りを忘れず、聖日礼拝を捧げ、救いの主を証しして行くことです。出会う人を大切にし、とりなしの祈りをしつつ歩むことです。                                   

     (久多良木和夫)

 


 2015年 5月31日() 聖日礼拝

      「祝福を祈りなさい」     ペトロの手紙一3:8-17


 使徒ペトロは、迫害下にあって試練の中にある小アジアの教会の信徒たちに対して、手紙で、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたのです」(9節)と勧めます。

 

そして、詩編34編から、ダビデがイスラエルの王となる前に味わった苦難の経験を通して知った、主を畏れて生きることの大切さを歌った箇所、「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(15)、「主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」(18)を引用しな

がら、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」(1415)と、キリストを真の救い主として、私たちの心の一番中心にお迎えする時、聖霊の助けをいただいて「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いる」のではなく、迫害する者のために祝福を祈る者とされると語り、また、祝福を祈り、神の愛と恵みを受け継ぐために私たちは神から召されているのであると、その使命を伝えます。              

                      (井上博子)

 


 2015年 5月17日() 聖日礼拝

      「エズラの帰還」        エズラ記7:1-10

 

神の大きな愛と憐れみにより、ユダヤの民はバビロンからエルサレムに帰還することができました。そして民はエルサレム神殿を再建しました。それからおよそ60年経った紀元前458年、祭司であり律法学者であったエズラはエルサレムに帰還しました。

 

エルサレム神殿再建後、民はまたいつのまにか神への信仰を失いかけていました。安息日も守らず、神への礼拝も疎かになっていました。また律法で禁じられていた異民族との結婚も安易に行われていました。

 目に見える建物である神殿は再建されましたが、肝心の目に見えない内側の霊的信仰が崩れていっていました。「エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった」(6節)律法を正しく解き明かし、民を指導する人が必要だったのです。

 

目に見えない内側の 霊的な信仰を正し、それがいきいきとなるために、神の御言葉に聞く必要があります。御言葉を通して神の御心を深く知り受けとめさせていただきましょう。そのことをしてくださるのは聖霊なる神ご自身です。

       (久多良木和夫)

 


  2015年 5月10日() 母の日伝道礼拝

      「五つのパンと二匹の魚」  マタイ福音書141321

 

 第2日5月曜の今日は母の日です。十戒の中の第5戒「あなたの父母を敬え」ということに関連して教会から始まったものです。

 

 母親は、子どものことに心を配り、その必要に敏感です。主イエスは、夕暮れが近づき、集まっていた群衆のことを思い遣られました。弟子たちは、早く解散させましょうと言いましたが、主イエスはそうではありませんでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と弟子たちに命じました。

 

 ヨハネ福音書6章を見ると、フィリポは、二百デナリオン分のパンでは足りないと言いました。しかしアンデレは、少年の持っていた5つのパンと二匹の魚を主のもとに持ってきました。そのパンと魚を主イエスは奇跡によってそこに集まっていた一万人ほどの群衆に与えました。

 

 不可能と思えるような難しい問題であったとしても、それを主のもとに持って来て、助けを求め、ゆだねる時、主は大いなる業をなしてくださいます。

                          (久多良木和夫)

 


 2015年 5月3日() 聖日礼拝

      「神殿再建の働き」       エズラ記3:8-4:5

 

 私たちの国は、この百年を振り返る時、関東大震災、東京大空襲、阪神淡路大震災等の災害を経験し、そこから何とか立ち上がってきました。四年前の東日本大震災からは、今復興の途中です。先日のネパール大地震からネパールの国の人たちが立ちあがってほしいと思います。

 

エルサレム神殿は一番最初は、ソロモン王によって7年半の歳月を経て建てられました。しかし紀元前586年、バビロニア軍によって徹底的に破壊されました。

 

その時から50年たって、バビロンから帰還したユダヤ人によって再建の働きが始まりました。神殿の基礎が据えられたた時、民は喜び感謝して泣きました(3:12)。

 

 しかし、この再建を妨害する人たちが出てきて、16年間工事は中断されました。それはとてもつらいことだったことでしょう。しかし、神は真実をもって民を助け導いてくださいました。工事は再開することができ、工事が始まって4年の歳月を経て、紀元前516年に神殿再建工事は完了しました(6:15)。神殿がすべて破壊されてからちょうど70年たった時でした。

 

 目に見える建物等だけでなく、目に見えないこの世界の様々な難しい事柄に対しても主に祈りつつ取り組んでいきましょう。

                       (久多良木和夫)

 

 

  2015年 4月26日() 聖日礼拝

     「わたしに従いなさい」   ヨハネ福音書21:15-19

 

主イエスとの出会いは、弟子たちにとっては大きな喜びでした。しかし、その主イエスが捕えられ十字架につけられ殺されたことは最大の悲しみでした。しかし、主イエスは死で終わらず、その死を打ち破り復活されました。

 

復活の主イエスはガリラヤ湖でペトロたちに出会いました。朝食の後、ペトロに三度わたしを愛するかと尋ねられました。それは三度主イエスを否んだペトロへの赦しを意味するものでした。

 

 主は、ペトロに対して羊を飼いなさいと命じられました。羊とは主イエスを信じる信仰者のことです。そして、「わたしに従いなさい」と命じられました(Ⅰ9節)。そう命じられたペトロでしたが、他の弟子のことが気になりました。そのペトロに主は「あなたはわたしに従いなさい」と再び語られました(22節)。

 

 私たちも他の人のことが気になることがあります。自分よりずっと優れているように見える人のこと、また自分が一所懸命している時にその反対に見える人のことが気になります。そんな私たちにも主は「あなたはわたしに従いなさい。」と語られています。

                        (久多良木和夫)



  2015年 4月19日() 聖日礼拝

      「主イエスの傷跡」    ヨハネ福音書20:24~29

 

私たちは自分の傷跡を見て過去の事を思い出しますが、主イエスの傷跡を思うとき私たちは前に向かって進むことができます。崖から落ちそうになっている子羊に手を伸ばして助けようとしている羊飼いの絵があります。その羊飼いの手の甲には傷跡が描かれています。この羊飼いは私たちの罪の身代わりとなって十字架刑を受けて死なれ、復活されたイエス様です。

 

 主イエスは恐ろしさと悲しみ、緊張で心がいっぱいだった弟子たちのところに来られて、十字架刑の傷跡を見せてくださいました、「自分の目で見なければ、信じない。」と言ったトマスにも。そしてトマスの疑いの声にそのまま答えて下さいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)。

 

復活の主イエスの目撃証人である弟子たちから数えて、現代の私たちは何代目になるでしょうか、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と言った信仰の告白は続いています。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と復活の主イエスは今も語りかけておられます。

恐れの心、後悔の心にとどまるのでなく、主を信じて一歩を踏み出しましょう。       

     (久多良木志津子)

 


  2015年 4月12日() 聖日礼拝

      「心は燃えていた」    ルカ福音書24:13-35       

 

 主イエスの二人の弟子が暗い心でエマオに向かって歩いていました。彼らは主イエスが十字架上で死んでしまったことを悲しみ希望を失っていました。

 

 私たちもいろいろな悲しいことを、どうしようもないことを経験します。病気、いじめ、受験や就職がうまくいかなかったこと、研究や事業の行き詰まり、難しい課題や仕事、その他いろいろなことです。その時、心が弱り沈みます。

 

 二人の弟子にそっと近づき共に歩んでくださった方がいました。それは復活の主イエスでした。弟子たちはその途中、聖書の解き明かしを聞きました。メシアは苦しみを受けるが、栄光の主になられることも聞きました(27節)。

 エマオに着いて、主イエスがパンを取り、讃美の祈りを唱え、裂いてお渡しくださった時、二人は初めてその方が主イエスだとわかりました。

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った(32節)。二人の心は復活の主イエスの働きかけを通して、燃やされました。

 

 主イエスは、今も復活の主として、私たちの悲しみ、落ち込みを理解して、その心に働きかけ、死んだような心さえも生き返らせてくださるお方です。

 

あの賢い五人のおとめたちが壺の中に入れていた油とは、祈り、御言葉、信仰、聖霊です。私たちも自分の壺の中にその油を入れて、復活の主に励まされて歩んで行きましょう。               (久多良木和夫)

 


   2015年 4月5日() イースター礼拝

      「復活の日の朝に」     マルコ福音書16:1-11   

  

この世界には暗闇があります。夜の暗闇は夜明けと共に消えてしまいます。今現在、世界の闇があり、人生において暗闇があります。この世の暗闇、人生における暗闇はなかなか消えません。それどころかその闇は勢いを増すことさえあります。

  

 十字架から3日目の日曜日に、女性の弟子たちは主イエスのご遺体に香料を塗るために墓に出かけました。すると、入口の石は取り除かれていました。御使いから「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)と告げられました。

  

 復活の主は、マグダラのマリアに一番最初に出会ってくださいました。多くの苦しみを経験したマリアに、主は特別に愛を注がれました。

  

 復活の主イエスは、勝利の主です。私たちのために、十字架において贖いの業成し遂げてくださり、その後、死を打ち破ってくださいました。この世の暗闇に対しても、人生の暗闇に対しても、私たちに勝利を与え、希望を与えてくださいます。 

                        (久多良木和夫)

  

 

  2015年 3月29() 聖日礼拝

     「振り向いて見つめられた主」   ルカ福音書225462   

 

 主イエスの最後の1週間である受難週の第5日目の木曜日、主イエスは、弟子たちの足を洗われました。そして最後の晩餐の時を持ちました。その後ゲッセマネの園で命がけの祈りを捧げ、十字架の道を選ぶ最後の決断をされました。

 その祈りの直後に捕えられ、大祭司カヤファのもとに、そして総督ピラトのもとに連れて行かれました。

 

 弟子たちはすべて主イエスを捨てて逃げ出しました。一人ペトロだけはそっと主イエスの後について行きました。しかし、カヤファの屋敷の中庭で、あのイエスの仲間に違いないと言われた時、あんな人は知らない、関係ないと三度主イエスを否みました。

 

 その時、ちょうど夜が明ける前でニワトリが鳴きました。主イエスの予告(22:34)の通りでした。主イエスはペトロを振り返り見つめられました(61節)。その目は怒りの眼差しでも冷たい突き放す眼差しでもありませんでした。それは憐れみの眼差しでした。

 あなたの信仰がなくならないように祈って来たよ、あなたのためにもわたしは十字架にかかるよと語りかけておられました。

 

十字架の死の三日後に主イエスは復活され、ペトロに会われました。あなたはわたしを愛するかと三度尋ね、三度の否みを完全に赦し、わたしの羊を飼いなさいと語られました(ヨハネ21:15-19)

 

 神の愛を忘れ、恩を忘れ、恩をあだで返すような私たちのためにも、主イエスは十字架の道を選び、十字架に架かってくださいました。神の愛、主イエスの愛の中に生きて行きましょう。            

                            (久多良木和夫)

 


    2015年 3月22日() 聖日礼拝

       「キリストの尊い血」   ペトロの手紙一11319

  

使徒ペトロは、迫害下にあって、悲観の中に落ち込んでいる小アジヤにある教会の信徒たちに宛てて、迫害をしてくる者たちを恐れるのではなく、「人それ
ぞれの行いに応じて公平に裁かれる」父なる神を畏れて生活すべきであると励まします。
 
 

神は、私たちの罪と裁きを背負ってくださるお方として、御自身のひとり子を十字架にかけ、そしてこのお方を甦らせてくださった。そのことによって、私たちに、永遠の命の希望を指し示し、また、御自身の愛する子どもとして認めてくださり、朽ちず、汚れず、しぼんでしまうことのない財産を受け継ぐ者としてくださった。「だから」、神が主イエスを通して備えて下さった恵みを思い起こし「いつでも心を引き締め、身を慎んで」、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となり」、「この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と勧めます。
 
 

 そしてあなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(19節)と記します。血の尊さは、命に直結しています。それを捧げることは、命を捧げることを意味します。主イエスは、その尊い血を、私たちのために注ぎ尽くしてくださいました。     

                           (井上博子) 

 

 

2015年 3月15日() 聖日礼拝

      「死に至るまで」        フィリピ2411

       

主イエスは、この地上ではへりくだる姿で歩まれた。その姿が2章6~8

の各節において記されている。

 

1.身分を固執しなかった。 主イエスは、神の御子であられた。または、神であったと言って良いであろう。それで、天地創造前からおられた。その主イエスが地上に来られたが、主イエスはこの地上では神であることに対して、固執しなかった。どんな苦しみがあろうと自分の身分でその事を打破しようとはしなかった。

 

2.僕の身分となった。 主イエスはこの地上で、神の身分に固執せず僕として歩まれた。僕とは奴隷と同義である。仕える者となられた。 一番上の位の者として仕えられる者が、一番下の仕える者となってくださった。主イエスは弟子たちに、仕える者となることを自ら行いつつ教えられた。

 

3.十字架の死に至るまで従順であった。 神である主イエスが、この地上で僕として仕える姿は、十字架上での死の時まで続いた。主イエスは、最後まで神

の計画に従順に従われたのである。主なる神が、主イエスをこの世に送られたのは、十字架に架からせるためであった。すべての人間の救いのためであり、その計画に従われた。それと同時に、神がわたしたちを愛しているように、主イエスもわたしたちを愛しておられる。そのために、自らの命を犠牲にして、わたしたちを救うために十字架で死んでくださった。    

                            後藤真英)  

 


2015年 3月8日() 聖日礼拝

      「主の記念の晩餐」      ルカ福音書22723    

 

 主イエスと弟子たちの最後の晩餐、主イエスはどのようなお気持ちだったでしょう。その最後の晩餐は、ルカ福音書によれば過越しの祭りの食事であったのです。

 

 過越しの祭りは、ユダヤの三大祭の中の一つです。毎年ユダヤ暦では7月、現在の太陽暦では4月に祝われました。エジプトでの奴隷生活から 解放される決定的な出来事となった過越しの出来事を記念する祭りです。屠った小羊の血を入口の柱と鴨居に塗った家々は、どこも初子が打たれることはなく済みました。主イエスは、まさに罪を取り除く神の子羊なるお方です。

 

 過越祭の食事では、種入れぬパン、羊の足の肉、苦菜が用意されました。そして必ずブドウ酒が出され飲まれました。主イエスはパンを取り「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(Ⅰ9節)とおっしゃいました。また、盃を取り「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(20節)とおっしゃいました。このことが原型となり、聖餐式が執り行われるようになりました。聖餐式を通して、キリストの命、死、復活が明らかにされます。キリストの死とキリストの再臨も共に宣言されます。そしてキリストとの交わりが確認されます。

                          (久多良木和夫)


2015年 3月1日() 聖日礼拝

  「ろばに乗って入城された王」  ルカ福音書19章28-44節 

         

 主イエスは、最後の1週間の第1日目の日曜日、ろばに乗ってエルサレムの町に入られました。その週の金曜日にはゴルゴダの丘で十字架につけられ殺されてしまいました。 

 ろばに乗って入城されることは、500年以上前にゼカリヤ書9章9節に預言され、そのことが成就したのでした。

 

 ろばは背が低く、それに乗られた主イエスは私たちと同じ高さに立ってくださる方です。ろばは馬のように早くは走りません。ろばに乗られた主イエスは私たちと歩みを合わせてくださる方です。ろばに乗られた主イエスは、私たちの罪の重荷をその身に負ってくださる方です。

 

 『主がお入り用なのです』(31節)主イエスは、姿が立派で速く走る馬ではなく、馬に比べると見劣りがするろば、早く走ることもできないろばを選ばれました。主イエスは、今も喜んでその背に乗せるろばを捜しておられます。あなたはどうお応えしますか。

 

主イエスはエルサレムのために涙を流し泣かれました(41-44節)。エルサ

レムとその民が滅亡の運命をわきまえず歩んでいたからです。

                          (久多良木和夫)

 


2015年 2月22日() 聖日礼拝

    「信じて行う」          マタイ21:2832 

  

先週よりレント(受難節)に入りました。この箇所のたとえは、主イエスが十字架にかけられた場所、エルサレムで語られたものです。父親が二人の息子に「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言いました。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけました。弟は『承知しました』と答えたが、出かけなかった。二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたかという問いかけを、祭司長や民の長老たちにされました。

 

バプテスマのヨハネが来て義の道を示したのに信じなかった彼らが「考え直してヨハネの言葉を信じるように」という切なる願いをもって主イエスは語りかけられたのです。人々から尊敬され、指導者であった彼らよりも、ヨハネの言葉を信じて悔い改め、ヨハネから洗礼を受けた徴税人や娼婦たちのほうが父なる神様の望みどおりに行っているのだ、どんな暗い過去があっても新しい人になって生きることができると主イエスは語っておられます。

 

「神様、それはいやです、できません。」と思い、祈っていることがあるかも

しれません。でもそこで神様を信じて行っていくとき、後になって豊かな実が結ばれていくことがあるのです。   

            (久多良木志津子)

 


2015年 2月15日() 聖日礼拝

       「再出発の時」          エズラ記119


 新しい出発は希望に溢れます。再出発の時には喜びに満たされます。日本においても、世界においてもさまざまな困難なことがありますが、新たなスタートが望まれます。聖書においても出エジプトの出来事、またバビロン捕囚からの解放の出来事が記されています。 

 

 北イスラエルは大国アッスリアによって滅ぼされ、南ユダは大国バビロニヤによって滅ぼされました。バビロンの地に捕囚の民として連れて行かれた人たちは年月が流れるにつれ、祖国に帰れることはだんだん不可能と考えるようになったことでしょう。

 

 バビロニヤの国は、ペルシャの国によって滅ぼされました。そのペルシャの王であったキュロス王は、捕囚の民のエルサレムへの帰還の許可を出しました(2-4節)。捕囚の民の中で、希望を捨てず、かつての罪を悔い改めて、神による新たな集発の時を待ち望んだ人たちがいたのです。

  

 自らの罪を悔い改め、主の憐れみを待ち望み歩む時、主は喜びの再出発の時を与えてくださいます。 

                         (久多良木和夫師)

 


2015年 2月8日() 聖日礼拝

       「福音のために」       マルコ福音書1439


 主イエスが十字架にかけられる2日前のことでした。暗闇が迫っているときでした。弟子の一人がお金と交換に主イエスを引き渡そうとねらっていたことも記されています。

 

 マリアが主イエスの頭に注ぎかけた香油は「三百デナリオン(300日分の労賃)もの価値があるのに」と厳しくとがめられました。周りの人たちは(主イエス以外は)マリアの行いを理解しませんでした。マリアが壺を壊し、注ぎかけた時、この家にはどのような良い香りが漂ったでしょうか?

 

第一は、主イエスを愛する愛という香りです。その愛ゆえにマリアは喜んで

捧げたのです。

第二は、全世界へ向かう一歩という香りです。この小さな食事の席で起こったことが、全世界に語り伝えられることになりました。

第三は、たった一回だけの大事さという香りです。主の足もとに座って主の言葉を一生懸命に聞いていたマリアは、この時にしかできないことをしたのです。 

第四は、先を見通す備えという良い香りです。マリアは主イエスの埋葬の準備をしたのです。マリアはこの時、できるかぎりのことをしたのです。

                         (久多良木志津子)

 


2015年 2月1日() 聖日礼拝

       「失われた者への愛」         ルカ19110


 ユダヤの国のエリコという町での出来事です。その町にザアカイという男が住んでいました。彼は徴税人のかしらで金持ちでしたが友達がほとんどいませんでした。彼の名前は清く正しい人になるようにという願いがこめられていました。しかし彼はその反対の歩みをしていました。彼は、孤独を感じ、このままで良いのかと悩んでいたことでしょう。   

 

 そんな彼と出会うために主イエスは、エリコの町に来られました。いちじく桑の木の上にいたザアカイに主は、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかけられました(5節)。ザアカイは、主イエスの愛を受け、神の愛を知りました。彼は自分から罪を告白し、自分のお金を貧しい人に施すと申し出ました。

 

 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(9-10節)。ザーカイは、主イエスとの出会いを通して、自分が価値ある大切なかけがえのない者であることを知りました。

 

 主イエスの私たちへの愛、そして神の愛を知ることができますように。  

                        (久多良木和夫)


 


 2015年 1月25日() 聖日礼拝

       「ヨシヤ王の決断」          列王記下23110

 

南ユダに立てられた王の中で、主の御心に従って歩んだ王の代表の一人は、第16代目のヨシヤ王です。「彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。」(22:2)。

 

 ヨシヤ王は、8歳で王となりましたが、歴代誌下34章には、彼は16歳で神を求め始め、20歳で偶像を取り除き始めたことが記されています。彼は主の神殿の修復にも当たりました。彼が26歳の時にその神殿で律法の書が発見されました(22:8)。250年間にわたってユダの家から消えていた律法の書が発見されたのです。自分たちの歩みが、その書に記されていた神さまの御心から遠く外れていたことを知り、彼は衝撃を受け、心から悔い改めました。すべての民にその御言葉を読み聞かせました。王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。」(3節)。

 ヨシヤ王は、主の御心をいよいよ熱心に求め従いました。過越の祭も再開しました。

 

 律法の書が発見され、それが重んじられたことは、後の世においても大きな影響を与えました。後にユダの民はバビロン捕囚も経験しますが、神の御言葉によって信仰が正されて行きました。

 

 私たちの体は、聖霊なる神が宿ってくださる神殿です(コリント一6:19)。神の恵みを一つひとつ噛みしめ歩みつつ、御言葉をいただき歩むことこそ大切なことです。           

                         (久多良木和夫)

 


    2015年 1月18日() 新年聖会礼拝

       「祝福はここから始まる」      コリント一11831


 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1節)。主イエスの十字架のおかげで私たちは救われました。クリスチャンの力は主イエスの血潮から来ます。

 

クリスチャンとして、良い線まで来ていたのに、主の十字架から離れてしまう人がいます。そういうことがないように祈ります。救いの陰には主イエスの十字架の血潮の代価が支払われています。 クリスチャンであるあなたは価値ある者です。なぜなら主イエスの血潮によって買い取られているからです。


  ヤコブよ、あなたを創造された主はイスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書43:1)。私はダメだという人がいます。そうではありません。私たちは十字架の上に立っています。

 せっかく贖い取っていただいたのにその大きな恵みを理解していないクリスチャンはたくさんいます。この大きな恵みを理解して、主に従い続ける者とさせていただきましょう。     

                         (横田武幸師)

 



     2015年 1月11日() 聖日礼拝

       「旅立ったアブラム」        創世記12章1-9節 

    

 アブラムは75歳の時に、神からの語りかけを受けました。それは、「わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める」という素晴らしい約束でした。それだけならばアブラムはただただ喜ぶばかりだったでしょう。しかし、その前に「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(1節)という命令がありました。

 アブラムは戸惑ったことでしょう。今の安定を捨てて、未知の世界に進み出すことは大きなかけだったことでしょう。自分の持っている友達、親戚関係、財産すべてを失う危険性も大きかったのです。

 

 アブラムはどうしたでしょうか。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(4節)彼は旅立ちました。彼はなぜ旅立つことができたのか 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11章8節)彼は主に信頼したのです。

 

 自分の持っている物への未練、地位、財産、友人関係、家族、利権、職業さまざまなものが神に従うことに対してブレーキをかけます。あなたはどうでしょうか?

 

 一つの国が一歩を踏み出すことにより、また一人の人が踏み出すことにより、その後に続く国、人が起こるかもしれません。そして世界は大きく変わる可能性があります。しかし、その反対に踏み出しを周りは笑うかもしれません。

 

 マザーテレサさんは、安定した身分を捨ててカルカッタの町に出て行きました。その結果、路上でむなしく死んでいく多くの人が、最後に神の愛に包まれて平安が与えられるようになりました。アブラムは一歩を踏み出しました。そのことで、後にイスラエルの民(ユダヤの民)ができました。


 本年の標語は、「一歩を踏み出そう」です。どのような一歩を踏み出すよう主は、あなたに語りかけられておられるでしょうか。      

                          (久多良木和夫)

 


  2015年 1月4日() 新年礼拝

       「信仰、希望、愛」       マルコ福音書161420

 

 本年の私たちの教会のテーマは、「伝道」です。

 伝道とは、福音の宣教です。福音すなわち良い知らせとは、この世界は天の神によって創造されたこと、この世界に住む私たちへの神の御顧み、具体的な救いの御手、イエス・キリストによる救いの出来事、罪の赦しによる永遠の命、聖書を通して、また聖霊なる神を通しての語りかけのことです。

 

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(16節)信じて洗礼を受ける者は、罪の赦しをいただき、神の子どもとされ、平和をいただき、主に対して信頼して祈ることができ、主の愛を知り歩み、主の御業を見ることができます。しかし、信じない者は、神と断絶したままで、平和がありません。主に祈ることができず、主の業を見ることができません。

 

 伝道の実が結ばれるか否かは、クリスチャンである私たちがどのように歩んでいるかに左右します。具体的には、以下のことです。1)喜び、2)祈り、3)感謝、4)希望、5)親切、6)心を開くこと、7)へりくだり。教会においても、個人においても心を込めて歩んで行きましょう。

 

 福音を伝えてくれた友がいたおかげで、その祈りと労苦があったおかげで、私たちは福音を聞き、主に出会うことができ、救いに与りました。今度は私たちが福音を宣べ伝える番です。                                     (久多良木和夫)