2015年8月

2015年 8月30日() 聖日礼拝

       「贖う方は今」        ヨブ記19:21-27

 

ヨブは突然、財産、10人の子ども、そして自分自身の健康さえ失い、大きな苦しみを経験しました。ヨブの3人の友、エリファズ、ビルダド、ツォファルがやって来ました。彼らはヨブを慰めようとやって来ましたが、彼らが最終的になしたことはヨブを責めることでした。こんなことが起こったのは、隠している罪があるに違いないと糾弾しました。

 

私たちも気を付けたいと思います。同じ苦しみを経験していないにもかかわらず、苦しみの中にある人に対して、「あなたはここが間違っていますよ、この点が足りませんよ」などと簡単にその人を裁くことがあります。人を責める安易な言葉は少しも相手の心に届きません。

 

「わたしは知っているわたしを贖う方は生きておられついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。」(25-26節)。

 

ヨブは、旧約の時代の人でしたが、神の光を受けて、贖いの主を垣間見ました。その方こそ、主イエスです。私たちの罪を贖うために、この世に来てくださり、その命を十字架の上で捧げてくださいました。

                         (久多良木和夫)

 


2015年 8月23日() 聖日礼拝

      「神は見て、良しとされた」    創世記1:125  

 

神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。神は光を見て良しとされた」(34)。光が射し、光と闇とが分けられた。これが神による天地創造の1日目である。続いて2日目、神は水と水とを分けられて大空を造られましたが、「良し」とはされませんでした。2日目の創造の業が、まだ完了していなくて、3日目に持ち越されたからです。こうして、3日目に、神は天と地と海を創造され、さらに地に生息する植物を創造されて、「良し」とされました。4日目には太陽と月、星を創造されて、「良し」とされ、5日目には、水中の魚や空を飛ぶ鳥を創造されて、「良し」とされ、6日目には人以外の動物を創造されて「良し」とされました。そして、それらすべては、この後、創造される人間のために準備されたもので、神は私たち人間に、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配させよう」(26)とされたのでした。

 

天地万物を造られた神、その同じ神が今も私たちを支え、私たちの傍らに立って、私たちの必要に斟酌して下さいます。私たちは自分の価値判断で、いろいろな評価をしますが、しかし、この世界は、人間が評価する以前に、父なる神の内に、既に最善の御計画があり、目標があり、行き当たりばったりではなく、良く考え抜かれていて、ついには神御自身が「それを見て、良しとされる」絶対的価値を持っていると宣言されておられるのです。   

                            (井上博子)

 


2015年 8月16日() 聖日礼拝

     「救いの門である主イエス」      アモス書5415     

 

アモスは、羊を飼う仕事をしており、また、いちじく桑の木を栽培していました。神さまは、テコアの牧者として働いているアモスを選んで預言者とし、神さまからのメッセージを伝える者とされました。

 

 イスラエルの民は、内にも外にも、悲しみと脅威がありました。アモスは、悲しみの歌を歌った直後、たった1つの望みを指し示しました。「わたし(主)を求めよ、そして生きよ」という神さまの言葉を。「主」とは、「すばるとオリオンを造り、闇を変えて朝に換え、昼を暗い夜にし、海の水を呼び集めて地の表に注がれる方」(8節)です。この世界を造り、支配しておられる方です。

 

 また、アモスは、14節「善を求めよ、悪を求めるな」と語りました。悪い時代にあって、正義を貫けと力説したのです。


 現在において、主イエス・キリストが至高の神さまとの懸け橋となってくださったので、私たちは主イエスによって、神さまに祈り求めることができます。                                                               

                        (久多良木志津子)




2015年 8月9日() 召天者合同記念礼拝

     「救いの門である主イエス」  ヨハネ10章7-15節

 

「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(9節)。門は用意されています。それは救いの門です。主イエスご自身が救いの門となってくださいました。主イエスにあって、守りと助け、平安と力、慰めと励まし、永遠の命、そして天の御国に入ることのできる切符をいただくことができます。

 

わたしは羊の門です。」(7節)。羊たちは、羊の門を通って囲いから出入りします。羊飼いはその羊の門で、羊たちがちゃんといるかを確かめ、1匹1匹を見て、その健康状態を把握し、弱っていたら特別に世話をします。

 

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(11節)。「わたしは羊のために命を捨てる。」(15節)。羊飼いは主イエスを指しています。羊は私たち人間を指しています。私たちは迷いやすく、強く見えて弱いのです。主イエスは私たちの救いのために、この世に来てくださいました。主イエスは、十字架の上で身代わりとなって、私たちが本来受けねばならないそれぞれの罪の罰を受けてくださいました。

 

召天者の方々は、主イエスを救い主と信じ受け、永遠の命をいただき、最後は天の御国に移されました。あなたにも天の御国は用意されています。その切符を持たないままで人生を進むことは残念なことです。ぜひ、主イエスを救い主として信じ、永遠の命をいただいてください。  

                  (久多良木和夫)

 


2015年 8月2日() 聖日礼拝

       「ヨブの受けた試練」      ヨブ記11822       

 

 人生のおける最大のテーマの一つは、苦難です。さまざまな苦難があります。戦争、事故、災害、病気によって愛する者を失うことほど辛いことはないでしょう。自分自身が経験する自らの病、家族の病、さまざまな難しい問題、その中で、なぜ、どうしてと問わざるを得ません。

  

 ヨブは、持っていた財産を失い、使用人である牧童たちを失い、そして、10人の子どもをいっぺんに失います。その悲しみの中でも、ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(21節)と信仰の言葉を語り主をほめたたえます。

 

しかし、その後、ヨブ自身が重い皮膚病にかかります。三人の友との関わりの中で、ヨブは自分自身の心の深いところにある思いを吐露します。「もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください わたしの一生は空しいのです。」(7:16)。「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。」(17:15)と。また神に向かっても「神よ わたしはあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。」と叫びます。

 

 試練、苦しみの中で、ヨブは呻き叫びます。主を見失いそうになりつつも、なお主に向かい訴え続けます。私たちはどうするでしょうか。私たちも同じように主に訴え祈りましょう。            

                          (久多良木和夫)