2016年 11月

    11月27日() 聖日礼拝

     「思い悩むな」          マタイ福音書6章2534節

      

  イエスは、山上の説教で、「天に富を積みなさい」(20)とお話しになりました。しかし、衣・食・住の悩み、富(お金)の悩みは何処に行っても付いて回るわけで、神にだけ頼っていれば大丈夫なのか、という疑いは常に起こってくるものです。そこで、主イエスは「だから、言っておく」と前置きされて、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25)と言われ、「空の鳥、野の草」を模範として示され、空の鳥、野の花たちが、どれほど、「今」というこの一瞬をひたむきに生きているか、その姿を見なさいと言われました。

 

 それに対して私たち人間はどうでしょうか。暗い罪に満ちた自分の過去に目

 をやり、過去を引きずりながらくよくよと思い悩みます。また、予想のつかな

 い将来(明日)に目をやり、どうしょうか、と不安に駆られて思い悩みます。

 過去への後悔と将来への不安の狭間で、与えられた今日という現在をどれだけ

 生き切っているのか、と問われているのではないでしょうか。

  

 市岡裕子さんが、ニューヨークのハーレムの教会で、ゴスペルを共に歌う仲間から、今日という日を大切に生きることを教えられたと話されていました。

「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(34)。 

日のことについては、天の父の配慮が必ずあることを信じていきましょう。

                            (井上博子)

 

 

    11月20日() 聖日礼拝

      「神の計画と恵み」       テモテ二1章9-14節      

 

 パウロがテモテに託した福音を宣べ伝えることに対して、「折がよくても悪くても励みなさい」(42)と言っています。当時パウロは、ローマの獄中にいました。愛するテモテはパウロの同労者として働き、パウロの心の友となり、忠実にパウロに尽くしたのでした。当時ローマ皇帝ネロのキリスト教迫害が激しくなっていましたので、パウロはテモテのことが心配になり牢獄からこの手紙を送ったのです。

 

 「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」(21)。そして「キリストの立派な兵士として私とともに苦しみをしのびなさい」(23とテモテを激励しています。

 

 私達は、誰でも苦しいこと、つらいこと、悲しいことは避けて通ることを願います。パウロでさえも、肉体にあるトゲを取り去ってくださるように「わたしは三度主にお願いしました」(コリント二128)とあります。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である」(コリント二129)と言われています。

 

 この福音のため私達もパウロも同じように苦しみを忍び歩む時に、神さまの大きな愛と恵みが注がれる、そのことに気づき、しっかり主につながっていきたいと願う者であります。                       

                           (阿部充子師)

 

 

   11月13日() 聖日礼拝

       「良い知らせ」        イザヤ書61章1-4節 

 

  私たちのもとには、様々なニュースが届きます。悲しみのニュースを聞くことが多いです。でも時に喜びのニュースを聞きます。喜びのニュースの一つは子どもの誕生であり、成長です。

  

 心が悲しみに包まれる時、どうしたら良いのでしょうか。おいしいものを食べたり運動したり、眠ったりとするかもしれません。

 

「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(1節)。

 

  主なる神の御心は、悲しみの中にある者を心配してくださり支えてくださることです。わたしはあなたと共にいると語り掛けてくださり支え守ってくださいます。癒しと平安の恵みを与えてくださいます。いろいろなことにとらわれ不自由になっている私たちを解放してくださいます。

 

  ここで語られている主とは天の神さまのことであり、わたしとは、直接的には預言者イザヤのことでしょうが、究極的には主イエスのことです。天の神さまは私たちの救いのために主イエスをお遣わしくださいました。主イエスは、私たちそれぞれが払いきれない罪の代価をご自身の死を通してすべて支払ってくださいました。           

                                (久多良木和夫)

 

 

    11月6日() 聖日礼拝

      「魂に命を得よ」        イザヤ書55章1-7節  

 

 私たちはのどが渇くと共に、魂が渇きます。魂とは心の一番深い部分です。忙しさ、競争、人間関係の難しさ、様々な問題により、また自分がどこに向かっているのかわからなくなったり、自分がやってきたことに意味が分からなくなったりした時、心が弱り、魂が渇きます。

 

 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(1節)。 渇いている者への招きがここにあります。

 

 渇いている時、何とかその渇きを癒そうといろいろ試すことがあります。一時的なものに走ることもあります。深い癒し、満たしは天の神さまから与えられます。水のところとは天の神さまのところです。主は、命の水をくださいます。その水は永遠の命の水です。その水を主はただでくださいます。主イエス・キリストの十字架のゆえに、価なしでくださいます。

 

「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」(3節)。 主の御心は、私たちが魂に命を得ることです。 「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。」(7節)。

 

 「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4章14節)。 主が共に歩んでくださる。なんと幸いなことでしょう。どんな時も主は一歩一歩を守り導いてくださいます。                     

                            (久多良木和夫)