3 月

   2016年 3月27日() イースター礼拝

      「復活なさった主イエス」    マタイ福音書28章1-10節

  

 主イエスの十字架は私たちの背きと咎のためでした(イザヤ書535節前半)。

  

主イエスは、十字架の上で七つの言葉を発せられました。その中には私たちのためのゆるしの言葉、断絶の言葉、苦痛の言葉がありました。

 

 十字架の目的は、私たちの平和といやしを与えるためでした。「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書535節後半)。主イエスは、私たちの罪を背負って身代わりとなってその罰を受けてくださいました。

  

 十字架の上で七つの言葉の中には私たちのための救いの言葉、完了の言葉がありました。主イエスは、救いの業、贖いの御業を完了してくださいました。私たちのために天の御国の門を開いてくださいました。

  

 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(5、6節)。主イエスは、復活し弟子たちのもとに戻って来られました。死が打ち破られたことを、そして主イエスと共に歩む命と天の御国における命があることを宣言するためでした。

                           (久多良木和夫)

 

 

    2016年 3月20日() 聖日礼拝

      「私の家は、祈りの家」    マタイ福音書21章12-17節

  

 ろばに乗ってエルサレム神殿に入城された主イエスは、境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されて、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(13)と言われ、その後で、側に寄って来た目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されました。

  

ここには、怒りを爆発された主イエスと、優しい思いやりに満ちた主イエスのお姿が対比的に描かれています。神が神として立てられずに、「祈りの家」であるべき神殿が汚され、神殿においてさえ、貧しい人々や、寄留の外国人や孤児や寡婦といった立場の弱い人々や、目の見えない人や足の不自由な人々がほったらかしにされている。そしてそれを見ながら、その上にあぐらをかき、私腹を肥やしている人々がいる。主イエスの怒りは爆発します。  

  

しかし、怒りの主イエスと優しく思いやりに満ちた主イエスの、その根底にあるものは、貧しい人々や弱い立場にある人々に対する「愛」と共感であります。主イエスは、今、この時も私たちを「祈りの家」へと招いて下さっています。                                   

                           (井上博子)

 

 

    2016年 3月13日() 聖日礼拝

      「沈黙された主イエス」    マタイ福音書27章11-31節

 

 主イエスは、総督ポンテオピラトの前で、不正な裁判を受け、有罪判決を出され、十字架につけられ殺されました。

  

 祭司長、長老たちのねたみと怒りにより、民衆は扇動されました。人々は、主イエスではなく、バラバを釈放するよう要求しました。ピラトも自分の身分を失わないために有罪の判決を言い渡しました。また、人々は有罪にするために、主イエスに不利な偽りの証言をしました。

  

 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。(1314)主イエスは沈黙を通されました。言い訳もせず、抗弁もなさいませんでした。罪に支配され滅びに向かう私たちの罪をご自分が負って、十字架に架かるためでした。

  

 「苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。」(イザヤ書53章7節) の予告の通りに主イエスは歩み通されました。                               

                          (久多良木和夫)

 

 

    2016年 3月6日() 聖日礼拝

     「命を献げるために来られた方」 マタイ福音書20章20-28節

 

 主イエスの12名の弟子の中の2名が、母親に頼んで、主イエスの両隣の席につくことを願いました。それを知った10名の弟子たちは腹を立てました。自分たちもそう願っていたのに先を越されたからです。

 

 仕える人より仕えられる人になりたいと願いました。これは弟子たちだけでなく、私たちのほとんどの者たちの願いです。 

  

 家庭において、黙々と家族のために仕える人がいるおかげで、家庭の歩みは守られています。社会においても同じです。

  

 主イエスは、最後の晩餐の前に弟子たち全員の足を洗いました。誰もしたいと願わなかったことを自ら引き受けました 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14-15)

 

 「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(26-28節)

                           (久多良木和夫)