2017年10月

   10月29日()  秋の特別歓迎礼拝

          「確かな希望に生かされて」    ヨハネ福音書1417

 

 14歳の時に隣の家のおばあさんが亡くなりました。私は、人は死ねば忘れ去られていく、生きることはむなしく、何のために生きていくのだろうと思いました。むなしいものではなく、確かなもの、絶対なるもの、永遠なるもの、聖なるものを求めるようになりました。仏教関係の本、キリスト教関係の本を読みあさりました。

 

 大学に入って、医学の勉強と共に通信講座で仏教の勉強をしました。卒業後3年して京都にて尼僧となりました。仏教大学の専攻科の学びもし、尼僧道場の舎監と教師になりました。真剣に厳しく求め続けましたが、私が求めていた絶対なるものはありませんでした。お釈迦様は大変偉大なお方であり、世界の名だたる宗教家のお一人ですが、私たちと同じく死すべき方でした。仏教は、人間の理性の基づいた悟り、深い宗教哲学はありますが、理性を超え宇宙を貫いて存在する絶対的真理はありません。私は失意落胆し、還俗し、小児科医に戻り結婚し、子どもが二人与えられました。

 

 神は生きておられます、私たちの主イエスは生きておられます。私たちは神に到達しようと一生懸命努力しますが、それは不可能です。神さまの方から私たちのすぐそばまで来てくださいます。私は夫婦の愛情問題でとても悩みました。夫が百パーセント悪いと思い、離婚も考えました。そのようなとき、隣に建ったキリスト教会の特別伝道集会で、説教者の伊藤栄一牧師より全き平安を与えられた証しの説教を聞きました。そして自分も全き平安をいただきたいと心から願い、主イエスを信じ受け入れました。その後、不思議なことに、夫への赦しと愛が豊かに与えられました。 

 

 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節) 

                          (藤井圭子師)

 

 

 10月22日()  聖日礼拝

            「主の霊を注ぐ約束」         ヨエル3:1-5

 

 水を注ぐことで花や作物は元気を取り戻します。愛情を注ぐことで赤ちゃんは健やかに成長します。

 

私たちは、現在のこと、将来のこと、持ち物のこと、健康のこと、そして人生の終わりの時のことに大きな恐れをいだきます。

 

 預言者ヨエルは、主の日のことを預言しました。「ああ、恐るべき日よ 主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。」(1:15)。「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。」(3:4)。預言者ヨエルは、イナゴの大群の預言、アッスリア、バビロンによる敗北の預言をしました。主の日は、主がすべてを裁かれる日です。

 

 「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(1,2節) 。天の神さまは私たち人間に主の霊を注ぐ約束をしてくださいました。裁きの日である主の日がやって来ても、主の霊をいただいている者は大丈夫です。

 

 主の霊は、イエス・キリストを救い主として受け入れた者たちにペンテコステの日に注ぎ与えられました。イエス・キリストの十字架の贖いを通して、永遠の命を受けることができます。              

                         (久多良木和夫)

 

 

   10月15日()  聖日礼拝

            「キリストから学んだこと」    エフェソ4:1724

 

 「異邦人と同じように歩んではなりません」(17節)は、口語訳などでは間に「むなしい心」が入る。むなしい心とは、一言で表わすと罪の心である。罪の意味は的外れであり、的外れの道を歩んではならないとなる。そのようにならないためにも、「心の底から新たにされて」(23)いくことが必要である。それは自分(人間)の力では出来ない。

 

 「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(3:17)、キリストの内住である。心の王座をキリストに明け渡すことである。むなしい心の状態は、寂しい状態ともいえる。他に頼れるものがなく、罪の道へと入ってしまった。しかし、心にキリストが内住してくださることで、寂しくなくなり喜びへと変わる。キリストの内住により、「心の底から新たにされたもの」は、「正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(24)

 

 聖めの生活である。『キリストから学ぶ』とは、キリストに興味を持ち、影響を受けることである。聖めは、キリストに似たものとなることである。似たものとなるためには、キリストに興味を持ち、影響を受けていくことになる。聖めの生活を送るために私たちは、キリストから多くの事を学び続けていこう。キリストから何を聞き、何を教えられ、何が真理と学ぶのか。(21節参照) それは、主イエスキリストそのものである。   

                          (後藤真英)

 

 

 10月8日()  聖日礼拝

            「人生の転機」        マルコ福音書10:4652 

 私たちの人生には、様々な転機があります。それは一つ一つの出会いによって起こります。それは、すべて神さまの御手の中にあります。

 

 主イエスは一人一人を見られ、その人に呼びかけられ、その人が求めているかどうか、ついてくるかどうかを見ておられます。

 

 ティマイの子で盲人のバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と繰り返し叫び続けました。多くの人が叱りつけ黙らせようとしても叫び続けました。ダビデのことは当時メシア(救い主)の称号として、ユダヤ人だけが用いていた呼び方です。

 

 主イエスが、「あの男を呼んで来なさい」と言われると、人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、素晴らしい言葉を彼に語りました。

 

 バルティマイは、主イエスからの呼びかけに応答することを通して、道端で、神さまが憐れみ深いことを知らされ、身体の目と霊の目を開いていただくという二重の喜びを経験しました。             

                         (久多良木志津子)

 

 

  10月1日()  聖日礼拝

            「主のもとに立ち帰れ」      ホセア書1425 

  

 紀元前8世紀半ば、預言者ホセアは神からのメッセージを告げます。

 

イスラエルの民は、天の神さまを捨て、偶像礼拝に向かい、大国アッスリア、エジプトに寄り頼みます。偶像は、命なく、私たちを祝福することはできません。大国は最後にはイスラエルを見捨てました。

 

 神は慈しみと憐れみをもって語られました。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与えアコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったときエジプトの地から上ってきた日のように。」(2:16-17)。               

 

 「イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。」(2節)。私たちは目の前のものに踊らされます。力あるように見えるもの、偶像の神々、この世の流行、価値観、それらのものはやがて移り変わっていきます。

 

 「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」(エゼキエル書19:32)。天の神さまは、私たちが滅びるのでなく、永遠の命を持つことを願っておられます。

 

「わたしは背く彼らをいやし喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」(5節)。  

                           (久多良木和夫)