2017年 3月

        3月26日() 聖日礼拝

       「苦しみを受ける前に」    ルカ福音書22723  

      

 主イエスは、十字架刑の金曜日の前の木曜日、そのことを前にしてどんなに苦しかったことでしょう。しかし、主イエスはこの地上に残る弟子たちのことを心配しておられました。

 

主イエスと12弟子たちとの最後の食事は、過越祭の特別の食事でした。その場所を主ご自身が前もって用意していてくださいました(13節)。

 

イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。(15節)。十字架の死による別れを前に、主は弟子たちにもっとも大事なことを伝えたいと願っておられました。過越しのできごとは、イスラエルの民の救いの原点でもあります。最も危機的な時に天の神さまは民を助けてくださいました。その時に傷のない1歳の雄の小羊の命が取り去られねばなりませんでした。

 

主イエスは、どんなに大変な時にも神の助けがあることを弟子たちに伝えたのでした。そして、人間の罪による滅びからの救いのためには、罪のない方の命が必要であることを伝えました。そしてご自身が、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)となられました。

 

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。(19節)。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(20節)。                  (久多良木和夫)

 

    3月19日() 聖日礼拝

       「神は愛です」           ヨハネ一4717 

 

『ハイデルベルグ信仰問答』の最初に、「私たち人間は生まれながら神を愛することはできず、また、自分を愛するように隣人を愛することが出来ないで、神を憎み、人を憎むようになってしまっている、そこに人間の悲惨を見る」とあります。たとえ全人類を愛することができても、たった一人の隣人を愛することが出来ないでいる愛の欠如した罪人であります。

 

ところが、ヨハネは私たちが、そのように神を愛することも、隣人を愛することもできない悲惨な人間であることを知り尽くしたうえで、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(7)と勧めます。何故なら、神はその創造の初めから私たち人間を愛されるために造られたのであり、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(10節)。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(11節)。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(12節)。御霊のなせる業として、私たちは互いに愛することが出来るように変えられるのです。

 

北九州復興教会の看板は、「神は愛です」。これを見上げるとき、主イエス・キリストが、どんなに深い愛を確かにするために、ここに来てくださっているかを互いに愛し合いつつ、祈りつつ確認したいものであります。                                

                          (井上博子)

 

    3月12日() 聖日礼拝

       「主に向かって叫べ」         哀歌21821

 

哀歌は、ヘブル語のエーハ―というヘブル語で始まります。その意味は、どうして、なぜ、ああという驚きや悲しみを表します。

 

私たちも、いろいろな場面で叫ぶことがあるでしょう。喜びの叫び、恐怖の叫び、悲しみの叫び、怒りの叫び、でも日本人である私たちはそれを押し殺すことが多いことですが、内にためてしまい、精神衛生上はあまり良いとは言えません。

 

「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き異国の民の中に座り、憩いは得られず苦難のはざまに追い詰められてしまった。」(1章3節)。「幼子は母に言うパンはどこ、ぶどう酒はどこと。都の広場で傷つき、衰えて母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。」(2章12節)。バビロニアに滅ぼされ多くの民がバビロンに捕囚として連れていかれ、エルサレムの町は破壊され、悲惨な状況が広がっていました。預言者エレミヤはそのことを伝えています。

 

人間の傲慢が、大きな悲惨をもたらします。また、指導者の傲慢が多くの民に悲しみをもたらします。北朝鮮、中国、ロシア、しかりです。アメリカや日本でも決して例外ではありません。福島第一原発事故は自然災害のためだけでは決してありません。

 

 「主の御前に出て水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよあなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。」(19節)主に向かって祈り叫べと語り掛けられています。主なる神は、信頼しつつ叫ぶ祈りを聞いてくださる方です。    

                         (久多良木和夫)

 

    3月5日() 聖日礼拝

       「エレミヤの受けた苦難」    エレミヤ書38113 

    

 今日着る服やどこに行くかは選ぶことができます。しかし、どの時代に生きるか、どの国に、その家庭に生まれるかは選ぶことができません。

  

 預言者エレミヤは、紀元前7世紀半ばに生まれ、父親は祭司でした。しかし、彼は、預言者として召されました。北イスラエルがアッスリアに滅ぼされ、南ユダはバビロニアに攻められ、ついには滅ぼされるという激動の時代に生きました。

 

第16代目のヨシア王の時代から最後の20代目のゼデキヤ王の時代に預言者として働きました。第18代目のヨヤキム王の時には、バビロニア王ネブカドネザルに攻められ第1次捕囚、第2次捕囚が起きました。

 

エレミヤは、南ユダがバビロニアに滅ぼされ、70年のバビロン捕囚の憂き目に遭うことを預言しました(25:11-12)。エレミヤの預言は、王たちにも、人々にも受け入れられませんでした。それどころか、迫害を受けました。

 

ゼデキヤ王の時代に、カルデア軍すなわちバビロニアに投降するならば命が助かることを告げました(2,3節)。そのため役人たちによって、水溜めに投げ込まれました。死を覚悟したことでしょう。

 

エベド・メレクの勇気ある行動によって、エレミヤは助け出されました。涙の預言者と呼ばれたエレミヤは、救い主イエスを指し示しています。「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章5節)。      (久多良木和夫)