2017年 4月

         4月30日() 聖日礼拝

         「平和があるように」    ルカ福音書243649 

 

 私自身は、高校1年の最初に、英語の教科書で初めて「Easter」(復活祭)という英単語に出会いました。大学3年生の時に、主イエスを信じクリスチャンとなり、今イースターの主をほめたたえ礼拝する者になっていることは大きな感謝です。

  

 主イエスは、十字架の死から3日目の日曜日、予告通り復活されました。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリント一15:20)。「最後の敵である死も滅ぼされます。」(15:26)。すべてを飲み込んでしまう死が、最後の敵として滅ぼされたのです。復活の主は、主を信じる者たちの主としてすべてを支配してくださっています。

 

 イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた(36節)。恐れていた弟子たちは一つの部屋の中で息をひそめて隠れていました。弟子たちの最大の恐れは、主イエスを見捨てた自分たちへの神の怒りと呪いでした。その弟子たちに、復活の主イエスは、神の赦しと祝福を告げられました。その平和、平安は、神とつながった者とされ与えられるものです。

 

 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(44節)。実現した詩編の代表の一つは詩編23編です。「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」(23:6)。最善と変わらない愛が与えられ続けるのです。                            

                          (久多良木和夫)

 

 

    4月23日() 聖日礼拝

        「エマオへの道」        ルカ福音書242835 

 

主イエスの弟子であるクレオパともう一人が、エルサレムからエマオまでの道のりを歩いている途中の出来事。その間に、彼らに何が起きたのか 

 

1.目が開かれる

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とある。それまでは「二人の目が遮られていて、イエスだと分からなかった。」(16節) ここでの目とは、肉の目ではなく、心の目であり、霊の目である。

彼らは、主イエスの弟子であったが、イエスの事がこの時分かっていなかった。その理由は、主イエスの死であった。このお方こそ救い主だと希望を持っていたが、十字架の死で失望へと変わった。その中、婦人や同じ弟子の仲間から、主イエスの復活を聞いたが、彼らは信じることが出来ず暗い気持であった。そのような彼らの前に、主イエスが現われ彼らと一緒に歩いた。その時は、彼らはその方が主イエスだと気づかなかった。主イエスは、そのような彼らに対し、語りかけられた。主イエスが泊まった部屋で行ったことを通し、彼らの目が開かれイエス様だったと気づいた。目が開かれることによって、私たちは主イエスへの喜びに満ち溢れることが出来る。

 

2.心が燃やされる

彼らが、気づかされた「心が燃やされる」(32節)とは、どのような状態であろうか。彼らは、心の目が遮られている時も、主イエスの話には引き込まれていた。この状態こそ心が燃やされることである。ジョン・ウェスレーはこの言葉を「心は暖かであった」と言っている。これは、キリストの内住である。主イエスが私たちの心の中に入ってくださり、冷え切っていた心が燃やされる、暖かな状態になれる事である。             

                           (後藤真英師)

 

       4月16日() 聖日礼拝

        「復活された主イエス」    ルカ福音書24:1-12   

 

私たち人間は、神から特別の知恵を能力を与えられました。そのことでいろいろなことが出来ます。その裏返しとして、苦悩や不安、恐れを持ちます。

 

主イエスの弟子たちの中で女性の弟子たちは、十字架の死の金曜日から3日目の日曜日の早朝、主イエスの葬られた墓に行きました。

 

主イエスのご遺体がなく、途方に暮れていた時、み使いは語りかけました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(5-7節)

 

主イエスは、弟子たちに、ご自身が十字架につけられ殺されること、三日目によみがえることを度々告げておられました。でも弟子たちは、そのことを理解していませんでした。

 

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリント一5:54-55)すべてをのみ込むように思われる死が最後の敵として滅ぼされました。復活の主は、主を信じる者たちの主としてすべてを支配してくださっています。復活の主は私たちと共にいてくださいます。                                              

                         (久多良木和夫)

 

    4月9日() 聖日礼拝

       「十字架上での祈り」       ルカ福音書232643   

 

本日は、棕櫚の聖日です。主イエスは、平和の君として馬ではなくロバに乗ってエルサレムの街に入られました。

 

主イエスは、夜を徹しての不正で強引な裁判によって有罪判決を受け、十字架につけられることになりました。重い十字架の木を担がされました。途中、キレネ人シモンは、ローマの兵隊に命じられ十字架の木を担がされました。シモンにとっては最悪の一日となりました。でも後にシモンは主イエスを信じる者となりました。

 

十字架刑の前にも、そして十字架につけられた時も、主イエスは、多くの者たちからさんざんひどい言葉をかけられました。―民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」―(3537節)。兵士たちは主イエスの一枚織りの上等の下着が誰のものになるかを決めるために十字架の足元でくじ引きをしていました。

 

そのような中で、主イエスは祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)。その祈りは呪の祈りではなく、赦しと祝福を求める祈りでした。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント二5:21)。 

                         (久多良木和夫)

 

        4月2日() 聖日礼拝

        「御心のままに」       ルカ福音書223946  

       

 主イエスは、十字架につけられ殺される前日の木曜日、弟子たちとの最後の晩餐の後、ゲッセマネの園に行かれました。

一緒に行った3人の弟子たちは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)と命じられましたが、眠り込んでしましました。祈らせないようにする誘惑はいろいろあります。私たちも主イエスの言葉を心にしっかり留めましょう。

 

主イエスを捕らえに来た人たちは、イスカリオテのユダに教えてもらい、そこにやってきました。主イエスは、抵抗することをしませんでした。

 

主イエスは、祈るためにゲッセマネの園にやって来られました。十字架の死を前に、深い苦しみ、悲しみの中にあったことでしょう。

 

主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。(42節)主は、最初は何とか十字架にかからないで済む道はないかと願いました。しかし、最終的には十字架にかかる道を選ばれました。なぜなら、その道を避けるならば、地上に生きる人間の救いの道は永遠に閉ざされることになります。罪の全くない神の独り子なるご自身が、全人類の罪の身代わりとなる道を選び取ってくださいました。

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6章23節)。 

 

       (久多良木和夫)