2017年5月

  5月28日() 聖日礼拝

          「すべての人に福音を」   マルコ福音書16章1420節

  

主イエスの復活のことを聞きながら信じることができなかった弟子たちの不信仰とかたくなな心を主はおとがめになりました(14節)。その弟子たちに主は現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られました(ヨハネ福音書20:19)。またトマスにも出会ってくださいました(20:27)。

  

イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(15節)。全世界とは、今置かれている家庭、職場です。また、今以外のところをも指しています。主は私たちを信任して遣わされるのです。

  

使徒パウロは福音について語っています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)。心を込めて福音を伝えていきましょう。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(16節)。救いの恵みに与る者が一人でも起こされるように祈りつつ進んでいきましょう。

  

主イエスの昇天の後、弟子たちは聖霊降臨の大いなる恵みをいただきました。「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(20節)主の大きな助けをいただきました。私たちもそのように歩むよう招かれています。                                    

 

 (久多良木和夫)

 

 

   5月21日() 聖日礼拝

          「福音を正しく宣べ伝える」  エレミヤ書23章1829節

  

預言者エレミヤは、神の言葉を語る者たちとの戦いの日々の連続であった。このエレミヤの戦いの根本には神の言葉を言葉とするものであった。当箇所は、エレミヤのような真の預言者と偽預言者との違いである。

  

「主の会議」(18、22節)とは天において行われており、「主の会議」で決められたことは世界の歴史を動かす者である。預言者は、「主の会議」によって決められたものを、主なる神から人々に語る者として召されたものである。反対に、偽預言者は神からの召しを受けていないが彼らが勝手に語り、勝手に預言している。そして、神から召されたものとは、主なる神の言葉をただ聞くのではなく、悔い改めの思いを持って聞くものである。

  

主なる神は、世界の「すべてに満ちておられ」(24節)支配されておられる方である。その中において、インマヌエルの神として、私たちと共に働いてくださる。

 

偽預言者が語ることは「夢」であり、自分が思うままに語っている。そして、聴く者たちから「主の名を忘れさせよう」(27節)としていた。反対に真の預言者の語る言葉は、「主の言葉を忠実に語るもの」(28節)である。私たちは、礼拝で日本基督教団信仰告白を奉じる。その一文に「福音を正しく宣べ伝へ」とある。神の言葉は、言葉そのものに命があり生き生きとし私たちの糧となる「穀物」である。偽預言者の言葉は、何も深みがなくただの「もみ殻」(29節)である。

  

インマヌエルの神である全能者の神の言葉を悔い改めもって聞き、その言葉を忠実にいただいて福音を宣べ伝えるものとして歩もう。                                

                           (後藤真英)

 

5月14日() 聖日礼拝

          「立ち帰って生きよ」    エゼキエル書1821-32

  

 預言者エゼキエルは、捕囚のユダヤの民の中から召された預言者です。

  

 18章には、主なる神の深いお心が記されています。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(23節)。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(31-32節)

 

 本日は母の日です。アンナ・ジャービスの母アン・ジャービスは10人の子どもの中で、戦争や病気で8人の子どもを失っています。残った二人の一人がアンナです。アンナは、母が亡くなって2年目の母を偲んでの記念礼拝の時に、母の好きだったカーネーションを飾りました。翌年、最初の母の日が祝われ、母が好きだった赤いカーネーションを参加者全員に手渡しました。

 

 初期西方キリスト教会の教父となったアウグスチヌス(AD354-430)は、若いころ異教マニ教にのめりこみ、放蕩三昧に生きました。熱心なクリスチャンだった母モニカは息子ために一所懸命祈りました。アウグスチヌスは33歳の時に回心して洗礼を受けました。それから四か月後、モニカは天の神様のもとに召されました。

 

 母親は命がけで子どもを産み、乳幼児期に一所懸命世話をし育てます。そして子どものことを気にかけます。神の愛は母の愛よりもさらに大きく深いものです。               

                         (久多良木和夫)

 

 

    5月7日() 聖日礼拝

         「主の慈しみと憐れみ」        哀歌32233

  

紀元前587年に南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、エルサレム神殿も崩壊しました。ユダヤの民は兵糧攻めの中で、飢えの中で苦しみました。そして多くの民がバビロンに連れて行かれました。哀歌は、その出来事の中で記された書です。 「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き異国の民の中に座り、憩いは得られず苦難のはざまに追い詰められてしまった。」(1:3)。    

 

 そのような絶望の中で、神からの語りかけがありました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。」(22‐23節)

  

 「慈しみ」の原語のヘブライ語はへセド(ケセド)です。新改訳聖書では、「恵み」と訳されています。変わることのない確かな愛、ゆるぎない愛を意味しています。人は神の祝福の契約(約束)に対して、背を向け勝手な歩みへと踏み出しました。しかし、神はその契約の祝福を変えられませんでした。

  

 「憐れみ」の原語は、ラハミーム(ラカミーム)です。それは、「レケム(子宮)」を語源とする語です。神のはらわたの痛みを伴う愛を意味します。主イエスの十字架の苦しみ、死を通して私たちを救う愛です。

  

 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(22節)。神の慈しみと憐れみは絶えることも尽きることもありません。

                           (久多良木和夫)