2017年 7月

   7月30日(日)  聖日礼拝

          「新しい心、新しい霊」    エゼキエル書362530  

  

 人生は、リセットできませんが、リスタートは何度でもできます。リセット、すべてをなしにして最初からやり直すことはできませんが、再スタート、今という時から新たに歩み出すことはできます。

 

 預言者エゼキエルの生きた時代、ユダヤの民は、国を滅ぼされ、捕囚の民として遠い地であるバイロンに連れて行かれました。みじめで希望のない状態でした。

  

 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(26節)。石の心とは硬く強情な心、自分勝手な心です。肉の心とは やわらかく、素直な心、少年サムエルのような謙虚な心です。

  

 「主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。」(31節)。町が再び立て直されるのです。エゼキエルは、骨となってしまった人々が再び生き返り動き出す幻を見ました。

  

 神の霊が吹き込まれると、骨に筋が付き肉が付き、皮膚で覆われ生き返るのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ3:6)。神の設けてくださった門を通ること、すなわち神の独り子イエス・キリストを信じることを通して神の霊である聖霊をいただくことができます。                                                 

                                       (久多良木和夫) 

 

         

   7月23日(日)  聖日礼拝

          「命を得る道」      エゼキエル書3:1621  

  

 エゼキエルは、旧約聖書の中でのイザヤ、エレミヤ、ダニエルと共に四大預言者の一人です。命(いのち)について、普段はあまり考えないものです。人生の後半、家族、友の死、困難や苦難に遭遇して考えます。より豊かに、より確かに生きる道を探します。生きるということには、もう一つの課題があります。人生の終わりを迎え、生きる意味を見失う時に、どうしたら良いか行き詰ります。聖書は語りかけます。命の主につながって生きよと。

  

 神の大いなる命の恵みに与った者たちの使命は、滅びの道を警告し、命の道を指し示すということです。「わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。」(18節)「しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」(21節)

  

 機会あるごとに命の道を指し示すこと、そのために祈ること、見張り人としての使命を果たさせていただきましょう。

  

 神の御心は、この地上の命だけで終わらないように、もう一つの永遠の命すなわち霊の命をいただくようにということです。 

                         (久多良木和夫)

 

  

   7月16日(日)  聖日礼拝

          「今日はあなたの家に泊まる」   ルカ福音書19:1-10

  

 エリコの町の人々はイエス様を一目見ようと、イエス様のもとへと向かった。ザアカイもそうである。ザアカイは周りの人々に遮られて見ることが出来なかった。ザアカイは諦めず、「徴税人の頭」という身分、そして多くの人々がいる中であったが木に登った。地位や名誉を捨ててまでもイエス様を見たいという思いの姿である。

  

 ザアカイを見てイエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」(5)と言われた。初めて会ったザアカイに対し、「そこの木に登っている男の人」ではなく、「ザアカイ」と名前を呼ばれた。私たちがイエス様を知る前からイエス様は全てを知っていてくださっている。その後、イエス様は「あなたの家に泊まりたい。」と語られた。これは、ザアカイにお願いしているのではない。原文では「今日はあなたの家に泊まることになっている。」と決まっている事として言っている。自分の名前が呼ばれたこと、イエス様が泊まってくださることで非常にザアカイは嬉しくなった。

  

しかし、周りの人々はこの光景を良く思っていなかった。ザアカイの事を良く思っていなかった。「罪深い人」と思っていたからである。イエス様の事を「あの人」(7)と呼んでいる。ザアカイは、「主」と呼んでいる。そして、律法以上の償いをする事を告白した。(8)イエス様は、ザアカイのことを「この人もアブラハムの子なのだから」といった。救いの系図を表わしている。その系図から迷い出てしまった人を捜すためにイエス様は来られた。そして、私たちもこの救いの系図に入れられている。

  

ザアカイが救われたのは、名誉を捨ててイエス様を見たいという思いからか、必要以上の償いの告白をしたからか、そうではない。「今日はあなたの家に泊まる」とイエス様の言葉でザアカイに救いが開かれた。 

                            (後藤真英)

 

  

   7月9日(日)  地区講壇交換礼拝

            「メタノイア‐愛のため」  ルカ福音書5:27-32  

  

 『メタノイア・アイノタメ』は30年前に牧師仲間で流行った言葉遊びです。「メタノイア」は「悔い改め」という意味の2000年前のギリシャ語の言葉です。でも「悔い改め」の目的が「神の愛のため」となれば、なかなか含蓄のある言葉となります。日常会話で「悔い改め」の言葉は使われませんが、心の中で他人を非難する時に用いましょう。でもそれは聖書本来の使い方ではありません。「悔い改め」は神様の愛に出会い、主の愛に生きるための祝された世界なのです。だからイエス様もバフテスマのヨハネもパウロも悔い改めを語り続けたのです。

  

 メタ(共に)・ノイア(考える)。つまり「悔い改め」とは、御言葉を自分の心に重ねて主と共に深く考える中で与えられる世界です。深い所で聖霊の働きなくして悔い改めになりません。自分で考えるのは「ごまかし」にしかなりません。 

  

ギリシャ人のルカ(光を与える)は「ルカ福音書・使徒言行録」の両方を記す際、パウロから示された「悔い改め」を真心こめ随所にちりばめ記すのでした。

  

 イエス様は32節「私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」と言われました。罪人として主の招きに預かりながら神の愛を、聖霊の助けによって共に広げて参りましょう。 

                   (小倉東篠崎教会 福島義人師)  

 

 

   7月2日(日) 聖日礼拝

           「わたしが選んだ器」    使徒言行9119a 

  

 サウロは、ステファノが石を投げつけられ殺害することに賛成し、そばでステファノの殉教を見ていました。その後、サウロは、クリスチャンへの迫害を熱心に行いました。

  

 ダマスコにいる主イエスを信じる者たちを捕らえるために出かけて行く途中に、復活の主イエスの御声を聴き、まばゆい光に照らされ目が見えなくなりました。三日間、飲むことも食べることもしないで過ごしました。

 

 主イエスの弟子であるアナニヤがサウロのもとに遣わされました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と神は語られました(15節)

  

 サウロはアナニアに祈ってもらい目が見えるようになりました。その直後に、彼は洗礼を受けクリスチャンになりました。サウロはパウロという名前になり、主イエスの福音を宣べ伝える者となりました。

  

 アメージンググレイスの作詞をしたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。23歳の時に嵐で死を覚悟した時、今までの歩みを改め、主イエスに従う決心をしました。後に、英国国教会の聖職者となりました。

  

 サウロを回心に導いたのは、迫害者サウロへの神の恵みです。それは、いつくしみと憐みであり、深く大きな愛です。    

 

                         (久多良木和夫)