2017年 8月

   8月27日()  聖日礼拝

          「わたしが自ら同行する」  出エジプト記33:12-17           

   

モーセは出エジプトをし、シナイ山にて神から十戒を授与され、これからと思っていた矢先に、山を下ると同胞のイスラエルの民たちが金の子牛を作って偶像礼拝をしていました。希望が失望に変わってしましました。その時神から語られたのが14節の言葉でした。

  

『わたしが自ら同行し』とは、原文では「わたしの顔が行く」です。顔とは、神様が行くべき道を示してくださっており、その道を恵みの道として開いてくださっています。また、その道を一人ではなく神様が共に進んでくださるという意味です。それは、一人ではない、必ずその道まで神が導いて恵みを与えてくださるとの大きな励ましを神様がまず語られたのでした。

  

 「あなたに安息を与える」とは、神様がモーセに「わたしが行くからあなたは休んでいていいよ」ではありません。神様が約束の地まで共に歩んでくださり、そこにおいてあなたに安息の場所を用意しているとのことでした。わたしたちにとっての安息は、日曜であり、礼拝です。礼拝は神様から御言葉を頂き、1週間の疲れの癒しと、新たな力が与えられ、これから1週間へと旅立っていく場所であります。神様は私たちにそのような安息の場所を必ず備えてくださいます。その事に大きな希望を持ちたいと思います。

 

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。」(ヨハネ14:1)                                        

                            (後藤真英)

 

   8月20日()  聖日礼拝

          「祈りをやめなかったダニエル」    ダニエル6:118          

  

ダニエル書の前半の第1章から第6章までは、異教社会の中で歩んだ、神を信じる4人の若者の歩みが記されています。その若者とは、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4名です。  

  

 第1章では、四人は、宮廷の肉類と酒を避けることを言い表し、助けをいただきました。第3章では、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は、偶像の金の像を拝むことを拒否した結果、燃え盛る炉に投げ込まれましたが、助け出されました。

  

 第6章では、王以外のものに願い事をするものはライオンの洞窟に投げ込むという法律ができた後も、ダニエルは日に三度の天の神さまへの祈りを決してやめませんでした。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」(11節)。そのためにライオンの洞窟に投げ込まれましたが、助け出されました。

  

 多くの人が拝んでいたとしても、神社、仏閣に祭られているものはまことの神ではありません。決して拝んではいけません。そこに安易に出入りすることも避けさせていただきましょう。

  

 天の神さまこそ、まことの神です。真実な方です。まことの神のみを礼拝し、祈りと賛美を捧げましょう。          

 

                          (久多良木和夫)

 

  8月13日()  召天者合同記念礼拝

           「天の故郷を仰ぐ」       ヘブライ111316 

 

 故郷とは、生まれ育ったところ、子ども時代過ごした地、父母のいるところを意味します。地上の故郷は、父母や友が亡くなり、思い出の地になってしまうことがあります。天の故郷は、天の神さまが直接支配している世界です。

  

 地上の歩みにおいて、大きな困難に出会うことがあります。自分のふがいなさ、弱さを覚える時があります。孤独、不安、恐れ、罪責感にさいなまれる時があります。その時に神は語り掛けます。あなたを忘れてはいない、覚えている、わたしに立ち帰りなさいと。 「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ45:22)。

  

「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(16節)。

   

 人生は、『天の故郷を目指して進む歩み』と言うこともできます。その途中、迷いの森に入り込むことがあります。天の神さまを見失ってしまうことがあります。そのような私たちを神は憐れんでくださいます。私たちのために救い主である主イエスをお遣わしくださいました。真理の霊である聖霊をお与えくださいます。

  

 天の故郷を備え、支配しておられる神さまを仰いで進ませていただきましょう。

 

                         (久多良木和夫) 

 

  8月6日(日)  聖日礼拝

          「命の水の川」      エゼキエル書47:1-12 

  

 預言者エゼキエルは、枯れた多くの骨が生き返る幻を見ました(36章1‐12節)。その出来事において、働いたのは神から吹き込まれた息、すなわち吹き付けられた霊でした。

  

 エゼキエルは、もう一つの幻を見ました。エルサレムの神殿の敷居の下から湧き出た水が東に向かい、だんだんその川の深さが増すのでした。その川は死海に達し、その中に注ぎ込みました。

  

 「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(9節)。死んだ湖が生きた湖となったのです。多くの魚が住めるようになったのです。

  

 命の水は、神殿より流れ始めました。旧約の時代、神殿は、動物の犠牲が献げられ、罪の赦しをいただくところでした。新約の時代、イエス・キリストを通して永遠の神殿が打ち建てられました。それはイエス・キリストの命の犠牲を通して罪の赦しをいただき、神と共に生きる恵みの泉です。

 

 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)。神の霊である聖霊を受けて、内に永遠の命をいただきましょう。 

                                      (久多良木和夫)