2017年9月

  9月24日()  聖日礼拝

          「信じるものは何でもできる」     マルコ92029       

 

悪霊に取りつかれた子どもを連れた父親が、悪霊を取り除いていただこうとイエス様のもとに来た。まず、父親は今まで取り除こうと色々な事を試してきたことを説明した。それで「おできになるなら」と言った(22節)。主はその言葉や弟子の姿を見て「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」(23節)と言われた。この言葉を聞いて、父親はとても驚いた。今まで、色々な事を行っていたけど出来なかったから無理だろうと思っていた。イエス様の力を完全に信じきれておらず、半信半疑だった。しかし、父親は、イエス様の言葉を聞きイエス様を完全に信じるようになった。私たちは信仰を持つことは、過去でも、未来でもない。「今」である。その言葉を聞き、イエス様は癒された。

  

 この光景を見た弟子たちも驚いていた。それは、自分たちでは霊を追い出すことが出来なかったからである。そこでイエス様に質問をした。そのイエス様の答えは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ない。」(29)と祈ることの重要性を語られた。祈りは、密接な関係をあらわす。父なる神様との関係が密接となる事が必要。それは、神に全てを委ねるということである。

  

私達、イエス様を「今」信じ、神様と密接な関係となることで喜びの信仰生活を送ることが出来る。           

                            (後藤真英)

 

 

9月17日()  聖日礼拝

          「命の光を持つ恵み」      ヨハネ81214  

  

人生後半の課題は、2つあります。第一のことは人生の晩年をどう生きるかということです。第二のことは人生の最後に迎える死にどう立ち向かうかということです。

 

人生半ばの課題は、どう人生を進めるかということであり、もう一つは難しい問題にどう立ち向かうかということです。

  

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12節)。

暗闇の中を歩むとは怒りや許さない心を持ち続けることであり、希望を失い絶望の中に歩み続けることであり、自分がどこに行くかわからないまま生きることです。

命の光を持つとは、怒りや許さない心を捨てることであり、絶望から脱し希望を持つことです。たどり着くべき天のふるさとをいただいて生きるということです。

  

サマリヤの一人の女性は、人目を避け、虚しさの中にもがきながら生きていました。しかし、主イエスに出会い、渇く水ではなく渇かない水があることを知り、その水をいただくものになりました。(ヨハネ4:14)。

  

世の光である主イエスに従う時に命の光を持つことができ、喜び、祈り、感謝することができるのです。    

                         (久多良木和夫) 

 

 

   9月10日()  聖日礼拝

          「神の憐れみ」          ホセア書22025

  

ホセアは、北イスラエルのヤロブアム2世の時代の紀元前8世紀に活躍した預言者です。彼は、神さまから一人の女性ゴメルを結婚するように命じられ結婚します。 

  

ところが、そのゴメルは夫であるホセアではない他の男性に走り、三人の子どもを産みます。ホセアの悲しみと嘆きはいかばかりであったことでしょう。その悲しみと嘆きは、ご自身を捨てて偶像の神々に走ったイスラエルに対する神さまの悲しみと嘆きを意味しています。

  

「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び 正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。」(21節)。慈しみ憐れむは、原語では、慈しみと憐れみとをもってと名詞形です。憐れみの言語のラハミームは、深い痛みを伴った愛を意味しています。

  

「地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔きロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみロ・アンミ(わが民でない者)に向かって「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。」(24,25節)。

 

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント二5:21)。

                          (久多良木和夫)

 

   9月3日()  聖日礼拝

          「目覚めた人々は輝く」    ダニエル書12:1-13             

 

預言者ダニエルは、バビロニアのネブカドネツァル王、ベルシャツァル王、ダリオス王、そしてペルシャのキュロス王に仕えました。彼はおよそ400年の歴史を預言しました。

 

12章は、10章から始まる終わりの時の預言の最後のところです。大天使長ミカエルによる選びの民に対する守りと共に苦難がなお続くことが語られています。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は。」(1節)。

  

最も悪しき者の一人は、紀元前2世紀に立ったシリアのセレウコス王朝のアンティオコス4世です。この王によるユダヤ教徒の仰ぐ神への冒涜、ユダヤ教徒への迫害はすさまじいものでした。すべての者は神の前に立たねばなりません。永遠の生命に入る者は幸いです(2節)。

 

「目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。」(3節)。目覚めた人々は、新改訳では「思慮深い人々」、口語訳では「賢い者」と訳されています。目覚めた人々とは、主に寄り頼む者のことです。主イエスを救い主と信じ続ける者です。(ヨハネ福音書5:5)。

  

「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。」(10節)。       

                                                                    (久多良木和夫)