2017年

    1月1日() 元旦新年礼拝

       「新しい歌を歌え」          詩編9817     

 

 「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた。」(1節)。

 

 詩編98編は大きな苦しみを経験した後に歌われた詩篇です。その苦しみとは国が滅ぼされた後に、遠いバビロンに捕囚の民として連れて行かれたということです。しかし、長い年月の後に再び祖国に戻ることができたのです。神の助けと導きによって夢のような出来事だったのです。

 

 主のご支配の中で、幸いなる歩みをいただきましょう。また道を間違えたなら軌道修正していただきましょう。そのためには、自分が中心ではなく、主を仰ぎ、助けと導きをいただくことが必要です。

 

「主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き諸国の民を公平に裁かれる。」(9節)。主はすべてを公正に裁かれるお方です。主はおごり高ぶるものを打ち砕かれるお方です。

 

 「イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。」(3節)。いつくしみとまこと、それは、神の変わることのない真実の愛を意味しています。

 

 主イエスが語られた最も有名なたとえ話の一つである「迷い出た一匹の羊」で語られた真の羊飼いの愛を私たちは受けています。迷い出た一匹を見つけ出すまで探し求め、見つかったなら心から喜んでくださる神の愛があるゆえに、新しい歌を歌うことができるのです。     

                           (久多良木和夫) 

 

    1月8日() 聖日礼拝

      「舟の右側に網を」     ヨハネ福音書21114 

               

 新年の初めに当たっての願い、抱負を持たれた方も多いことでしょう。

 本日の聖書個所は、主イエスが十字架につけられ死なれた後、弟子たちがガリラヤ湖で漁をした時のことを伝える個所です。

 

 ペトロ達は、一晩中漁をしたのに1匹の魚も捕れませんでした。朝早く、復活された主イエスは岸に立って弟子たちをご覧になっておられました。

 

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 (5、6節)

 

 魚が一匹も捕れなかったということは行き詰まりを意味しています。私たちも時に大きな行き詰まりを経験します。主イエスは、舟の右側に網を打ちなさいと言われました。ペトロ達がその指示に従った時、素晴らしいことが起きました。なんと153匹もの大きな魚が捕れたのです。

 

 あきらめて何もしなければ何も起きません。しかし、示されたことをその通りした時、事は起きました。

 

 舟の右側は、遠くではありません、すぐ近くです。主の語りかけを聞き従う時、素晴らしいことが起きるのです。この年、そのことを経験させていただきましょう。            

                 (久多良木和夫)

 

 

   1月15日() 聖日礼拝

      「荒れ野よ、喜び躍れ    イザヤ書35110 

                     

 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」(1、2節)。地球環境は砂漠化、地球温暖化、様々な大変さに向かっています。まさに荒れ野、荒れ地になりつつあります。その荒れ野、荒れ地が回復するヴィジョンと約束が語られています。そのヴィジョンは地球環境だけを差しているのではありません。私たち人間のそれぞれの歩みの荒廃をも指しています。そこからの回復のヴィジョンと約束です。

 

 「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(5,6節)。この御業は、肉体の癒しと霊的な癒しについてです。肉体の弱さ、欠けが癒されることを祈り求めて行きましょう。それだけでなく霊的な弱さ、欠けが癒されるよう祈り求めていきましょう。

 

「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。」

 

(10節)。その当時における内容は、アッスリヤやバビロンからの解放です。現代における内容は、主の愛を知らずさ迷っている状態から、主の愛を知り、生かされる恵みを約束しています。      

           (久多良木和夫)

 

 

   1月22日() 聖日礼拝

       「舟の右側に網を打て」   ヨハネ福音書21114節 

 

 主イエスが十字架に掛けられてから三日後に甦られて、その姿を弟子たちの前に、二度にわたって現わされた後、弟子たちの内の七人は故郷のガリラヤに帰っていました。ある日、ペトロが「漁に行く」と言い、他の弟子たちも一緒に漁に出ました。しかし、一晩中漁をしたけれど、魚は取れませんでした。疲れ果て、落胆して漁から帰る途中で、岸辺に立っておられた主イエスから、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」と言われ、その言葉に聞き従います。

 

 「そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(6)。それを目の当たりにして、弟子たちは声をかけられたのが復活された主イエスであったことを知り、朝の食事を用意して待って下さっていた主イエスとお会いします。

 

 弟子たちはこれまで頑張って漁をしました。しかし、どんなに頑張っても収穫を得ることが出来ませんでした。その彼らが、この朝、キリストが伴なってくださる働きの中に入れられて、収穫は今、彼らの手では引き上げることができないほどにいただきました。

 

 現代に生きる私たちも、すでに収穫はいただいています。主に結ばれていれば、私たちの労苦は、祈りは、決して無駄にはなりません。

                           (井上博子)

 

 

      1月29日() 聖日礼拝

        「主の救いを得よ」      イザヤ書452025節 

  

 「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は わたしのほかにはない。」(21節)。真の神は、「偶像を担いだり、救う力のない神に祈るな」と命じておられます。

 

  私たちは、いろいろな場面、いろいろなことで幸せを感じます。ただし、ほとんどのものは過ぎ去っていきます。お金も健康も地位も例外ではありません。いろいろなものに左右されやすい私たちですが、そのような私たちを主なる神は、変わらずに目を注いでいてくださいます。主は変わることのない愛をもって守り導いてくださいます。聖書の御言葉をもって語りかけてくださいます。

  

 「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」と呼び掛けていてくださいます(22節)。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」とも呼び掛けておられます(55章3節)。主は私たち一人一人のために、その語り掛けからおよそ700年後に御独り子主イエスをこの世にお遣わしくださいました。

 

 先週26日(木)の夜、83歳で主の御許に召された山村英幸先生は、23歳の時に主イエスを信じ、クリスチャンとして歩み出し、42歳の時に献身して神学校に進みました。その献身とその後の牧師としての歩みは、主の御愛に対する感謝の応答としての歩みでした。 

                          (久多良木和夫)

 

2月5日() 聖日礼拝

        「賛美の衣、救いの衣」       イザヤ61:111 

 

「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(1節)

 

 打ち砕かれた心とは傷ついた心であり、弱っている心です。その心を包んでくださるのです。捕らわれ人、つながれている人とは、牢獄に入れられている人だけではなく、憎しみや怒りや劣等感等に縛られている人も指しています。そのような束縛からの解き放ち自由を与えてくださるのです。

 

 「シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」(3節)。嘆き、暗い心が取り除かれ、喜びの声、賛美の歌声が与えられます。

 

 「主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ花嫁のように宝石で飾ってくださる。」(10節)。この世には特別に高価な立派な衣装はあります。しかしお金をどんなにたくさん積んでも買えない衣装こそ、救いの恵みの衣です。罪の赦し、永遠の命、聖霊を内に宿す恵みです。 

 

 神からの油注ぎを受け、そのような大きな恵みを与えてくださる方こそ、主イエスです。主イエスは公生涯の初めにそのことを明らかにされましたルカ福音書4章18,21節)。                  (久多良木和夫)

  

    2月12日() 聖日礼拝

       「行って語れ」           エレミヤ1:1-8              

 

エレミヤは、南ユダの王ヨシヤの治世13年に、預言者として召されました。彼は、南ユダが滅ぼされ、人々がバビロン捕囚となるのも見ることになりました。

 

「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」(5節)。彼の父は祭司でしたが、彼自身は預言者として召されました。若くとても任に堪えないと答えたエレミヤに対して、主は語られました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(7-8節)。

 

神から人々に告げるように与えられたメッセージとは、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」(3:22)、「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」(4:1)でした。

 

人々はエレミヤを通して語られる神からのメッセージを無視しました。エルサレム入城の後、主イエスは、エルサレムの民を覚えて涙を流されました(ルカ福音書19章41節)。エレミヤは、涙の預言者と言われます。神の召しに応え、預言者として歩むものとなりました。         (久多良木和夫)

 

2月19日() 聖日礼拝

       「主に信頼する者は」        エレミヤ17:5-8  

           

「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとしその心が主を離れ去っている人は。」(5節)。頼りになるようでならないものは、人間であり、財産、お金です。それらのものに心を向けすぎて、主を忘れることは愚かなことです。  

 

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り暑さが襲うのを見ることなくその葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶことをやめない。」(7.8節)。

 

主に信頼して歩む者に、主は大いなる恵みを注いでくださいます。イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ福音書6章35節)。

 

「主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編2-3節)。

 

聖書の御言葉を心の中にしっかり握り、歩んでいきましょう。この世の教え、流れを第一とせず、主の教えを第一としましょう。

   (久多良木和夫)

 

2月26日() 聖日礼拝

       「とこしえの愛をもって」      エレミヤ3116

 

日常生活の中で、人生の中においては、楽しいこと、嬉しいことと共に、急なこと、思わない出来事が起き、心が慌てることがあります。一人で乗り越えようとする人もいれば、誰かに支えてもらおうとする人もいます。天の神さまはそのような私たちに対して愛を注ぎ目を注いでくださっています。

 

 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29章11節)。

 

愛にはいろいろなものがあります。一時的な愛、打算的な愛、自己中心の愛もあります。一方、真実な愛、変わらない確かな愛もあります。ただし人は変わっていきます。天の神様の愛は真実であり、変わりません。

 

「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。」(31章3節)。この愛は選びの愛であり、無条件の愛です。慈しみとは契約に基づく愛です。変わらない愛です。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)。

                        (久多良木和夫)