2017年

  1月1日() 元旦新年礼拝

       「新しい歌を歌え」          詩編9817     

 

 「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって主は救いの御業を果たされた。」(1節)。

 

 詩編98編は大きな苦しみを経験した後に歌われた詩篇です。その苦しみとは国が滅ぼされた後に、遠いバビロンに捕囚の民として連れて行かれたということです。しかし、長い年月の後に再び祖国に戻ることができたのです。神の助けと導きによって夢のような出来事だったのです。

 

 主のご支配の中で、幸いなる歩みをいただきましょう。また道を間違えたなら軌道修正していただきましょう。そのためには、自分が中心ではなく、主を仰ぎ、助けと導きをいただくことが必要です。

 

「主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き諸国の民を公平に裁かれる。」(9節)。主はすべてを公正に裁かれるお方です。主はおごり高ぶるものを打ち砕かれるお方です。

 

 「イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた。地の果てまですべての人はわたしたちの神の救いの御業を見た。」(3節)。いつくしみとまこと、それは、神の変わることのない真実の愛を意味しています。

 

 主イエスが語られた最も有名なたとえ話の一つである「迷い出た一匹の羊」で語られた真の羊飼いの愛を私たちは受けています。迷い出た一匹を見つけ出すまで探し求め、見つかったなら心から喜んでくださる神の愛があるゆえに、新しい歌を歌うことができるのです。     

                           (久多良木和夫) 

 

    1月8日() 聖日礼拝

      「舟の右側に網を」     ヨハネ福音書21章114節 

               

 新年の初めに当たっての願い、抱負を持たれた方も多いことでしょう。

 本日の聖書個所は、主イエスが十字架につけられ死なれた後、弟子たちがガリラヤ湖で漁をした時のことを伝える個所です。

 

 ペトロ達は、一晩中漁をしたのに1匹の魚も捕れませんでした。朝早く、復活された主イエスは岸に立って弟子たちをご覧になっておられました。

 

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 (5、6節)

 

 魚が一匹も捕れなかったということは行き詰まりを意味しています。私たちも時に大きな行き詰まりを経験します。主イエスは、舟の右側に網を打ちなさいと言われました。ペトロ達がその指示に従った時、素晴らしいことが起きました。なんと153匹もの大きな魚が捕れたのです。

 

 あきらめて何もしなければ何も起きません。しかし、示されたことをその通りした時、事は起きました。

 

 舟の右側は、遠くではありません、すぐ近くです。主の語りかけを聞き従う時、素晴らしいことが起きるのです。この年、そのことを経験させていただきましょう。            

                 (久多良木和夫)

 

 

  1月15日() 聖日礼拝

      「荒れ野よ、喜び躍れ    イザヤ書35章110節 

                     

 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。」(1、2節)。

 

 地球環境は砂漠化、地球温暖化、様々な大変さに向かっています。まさに荒れ野、荒れ地になりつつあります。その荒れ野、荒れ地が回復するヴィジョンと約束が語られています。そのヴィジョンは地球環境だけを差しているのではありません。私たち人間のそれぞれの歩みの荒廃をも指しています。そこからの回復のヴィジョンと約束です。

 

 「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」(5,6節)。この御業は、肉体の癒しと霊的な癒しについてです。肉体の弱さ、欠けが癒されることを祈り求めて行きましょう。それだけでなく霊的な弱さ、欠けが癒されるよう祈り求めていきましょう。

 

「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて 喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え 嘆きと悲しみは逃げ去る。」

 (10節)。その当時における内容は、アッスリヤやバビロンからの解放です。現代における内容は、主の愛を知らずさ迷っている状態から、主の愛を知り、生かされる恵みを約束しています。      

           (久多良木和夫)

 

 

   1月22日() 聖日礼拝

       「舟の右側に網を打て」   ヨハネ福音書21114節 

 

 主イエスが十字架に掛けられてから三日後に甦られて、その姿を弟子たちの前に、二度にわたって現わされた後、弟子たちの内の七人は故郷のガリラヤに帰っていました。ある日、ペトロが「漁に行く」と言い、他の弟子たちも一緒に漁に出ました。しかし、一晩中漁をしたけれど、魚は取れませんでした。疲れ果て、落胆して漁から帰る途中で、岸辺に立っておられた主イエスから、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ」と言われ、その言葉に聞き従います。

 

 「そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(6)それを目の当たりにして、弟子たちは声をかけられたのが復活された主イエスであったことを知り、朝の食事を用意して待って下さっていた主イエスとお会いします。

 

 弟子たちはこれまで頑張って漁をしました。しかし、どんなに頑張っても収穫を得ることが出来ませんでした。その彼らが、この朝、キリストが伴なってくださる働きの中に入れられて、収穫は今、彼らの手では引き上げることができないほどにいただきました。

 

 現代に生きる私たちも、すでに収穫はいただいています。主に結ばれていれば、私たちの労苦は、祈りは、決して無駄にはなりません。

                           (井上博子)

 

 

     1月29日() 聖日礼拝

        「主の救いを得よ」      イザヤ書452025節 

  

 「わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神は わたしのほかにはない。」(21節)。真の神は、「偶像を担いだり、救う力のない神に祈るな」と命じておられます。

 

  私たちは、いろいろな場面、いろいろなことで幸せを感じます。ただし、ほとんどのものは過ぎ去っていきます。お金も健康も地位も例外ではありません。いろいろなものに左右されやすい私たちですが、そのような私たちを主なる神は、変わらずに目を注いでいてくださいます。主は変わることのない愛をもって守り導いてくださいます。聖書の御言葉をもって語りかけてくださいます。

  

 「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」と呼び掛けていてくださいます(22節)。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」とも呼び掛けておられます(55章3節)。主は私たち一人一人のために、その語り掛けからおよそ700年後に御独り子主イエスをこの世にお遣わしくださいました。

 

 先週26日(木)の夜、83歳で主の御許に召された山村英幸先生は、23歳の時に主イエスを信じ、クリスチャンとして歩み出し、42歳の時に献身して神学校に進みました。その献身とその後の牧師としての歩みは、主の御愛に対する感謝の応答としての歩みでした。 

                          (久多良木和夫)

 

 

  2月5日() 聖日礼拝

        「賛美の衣、救いの衣」     イザヤ61章111節 

 

「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。」(1節)

 

 打ち砕かれた心とは傷ついた心であり、弱っている心です。その心を包んでくださるのです。捕らわれ人、つながれている人とは、牢獄に入れられている人だけではなく、憎しみや怒りや劣等感等に縛られている人も指しています。そのような束縛からの解き放ち自由を与えてくださるのです。

 

 「シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」(3節)。嘆き、暗い心が取り除かれ、喜びの声、賛美の歌声が与えられます。

 

 「主は救いの衣をわたしに着せ恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ花嫁のように宝石で飾ってくださる。」(10節)この世には特別に高価な立派な衣装はあります。しかしお金をどんなにたくさん積んでも買えない衣装こそ、救いの恵みの衣です。罪の赦し、永遠の命、聖霊を内に宿す恵みです。 

 

 神からの油注ぎを受け、そのような大きな恵みを与えてくださる方こそ、主イエスです。主イエスは公生涯の初めにそのことを明らかにされました(ルカ福音書4章18,21節)。            

                          (久多良木和夫)

  

 

 2月12日() 聖日礼拝

       「行って語れ」           エレミヤ1章1-8節              

 

エレミヤは、南ユダの王ヨシヤの治世13年に、預言者として召されました。彼は、南ユダが滅ぼされ、人々がバビロン捕囚となるのも見ることになりました。

 

「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」(5節)。彼の父は祭司でしたが、彼自身は預言者として召されました。若くとても任に堪えないと答えたエレミヤに対して、主は語られました。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(7-8節)。

 

神から人々に告げるように与えられたメッセージとは、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」(3:22)、「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」(4:1)でした。

 

人々はエレミヤを通して語られる神からのメッセージを無視しました。エルサレム入城の後、主イエスは、エルサレムの民を覚えて涙を流されました(ルカ福音書19章41節)。エレミヤは、涙の預言者と言われます。神の召しに応え、預言者として歩むものとなりました。

                         (久多良木和夫)

 

 

 2月19日() 聖日礼拝

       「主に信頼する者は」        エレミヤ17章5-8節  

           

「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとしその心が主を離れ去っている人は。」(5節)。頼りになるようでならないものは、人間であり、財産、お金です。それらのものに心を向けすぎて、主を忘れることは愚かなことです。  

 

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り暑さが襲うのを見ることなくその葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶことをやめない。」(7.8節)。

 

主に信頼して歩む者に、主は大いなる恵みを注いでくださいます。イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネ福音書6章35節)。

 

「主の教えを愛しその教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編2-3節)。

 

聖書の御言葉を心の中にしっかり握り、歩んでいきましょう。この世の教え、流れを第一とせず、主の教えを第一としましょう。

   (久多良木和夫)

 

 

 2月26日() 聖日礼拝

       「とこしえの愛をもって」     エレミヤ31章16節

 

日常生活の中で、人生の中においては、楽しいこと、嬉しいことと共に、急なこと、思わない出来事が起き、心が慌てることがあります。一人で乗り越えようとする人もいれば、誰かに支えてもらおうとする人もいます。天の神さまはそのような私たちに対して愛を注ぎ目を注いでくださっています。

 

 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29章11節)。

 

愛にはいろいろなものがあります。一時的な愛、打算的な愛、自己中心の愛もあります。一方、真実な愛、変わらない確かな愛もあります。ただし人は変わっていきます。天の神様の愛は真実であり、変わりません。

 

「遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。」(31章3節)。この愛は選びの愛であり、無条件の愛です。慈しみとは契約に基づく愛です。変わらない愛です。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3章16節)。

                        (久多良木和夫)

 

 

 3月5日() 聖日礼拝

       「エレミヤの受けた苦難」    エレミヤ書38章113節 

    

 今日着る服やどこに行くかは選ぶことができます。しかし、どの時代に生きるか、どの国に、その家庭に生まれるかは選ぶことができません。

  

 預言者エレミヤは、紀元前7世紀半ばに生まれ、父親は祭司でした。しかし、彼は、預言者として召されました。北イスラエルがアッスリアに滅ぼされ、南ユダはバビロニアに攻められ、ついには滅ぼされるという激動の時代に生きました。

 

第16代目のヨシア王の時代から最後の20代目のゼデキヤ王の時代に預言者として働きました。第18代目のヨヤキム王の時には、バビロニア王ネブカドネザルに攻められ第1次捕囚、第2次捕囚が起きました。

 

エレミヤは、南ユダがバビロニアに滅ぼされ、70年のバビロン捕囚の憂き目に遭うことを預言しました(25:11-12)。エレミヤの預言は、王たちにも、人々にも受け入れられませんでした。それどころか、迫害を受けました。

 

ゼデキヤ王の時代に、カルデア軍すなわちバビロニアに投降するならば命が助かることを告げました(2,3節)。そのため役人たちによって、水溜めに投げ込まれました。死を覚悟したことでしょう。

 

エベド・メレクの勇気ある行動によって、エレミヤは助け出されました。涙の預言者と呼ばれたエレミヤは、救い主イエスを指し示しています。「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章5節)   

                          (久多良木和夫)

  

 

 3月12日() 聖日礼拝

       「主に向かって叫べ」         哀歌2章1821節

 

哀歌は、ヘブル語のエーハ―というヘブル語で始まります。その意味は、どうして、なぜ、ああという驚きや悲しみを表します。

 

私たちも、いろいろな場面で叫ぶことがあるでしょう。喜びの叫び、恐怖の叫び、悲しみの叫び、怒りの叫び、でも日本人である私たちはそれを押し殺すことが多いことですが、内にためてしまい、精神衛生上はあまり良いとは言えません。

 

「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き異国の民の中に座り、憩いは得られず苦難のはざまに追い詰められてしまった。」(1章3節)。「幼子は母に言うパンはどこ、ぶどう酒はどこと。都の広場で傷つき、衰えて母のふところに抱かれ、息絶えてゆく。」(2章12節)。バビロニアに滅ぼされ多くの民がバビロンに捕囚として連れていかれ、エルサレムの町は破壊され、悲惨な状況が広がっていました。預言者エレミヤはそのことを伝えています。

 

人間の傲慢が、大きな悲惨をもたらします。また、指導者の傲慢が多くの民に悲しみをもたらします。北朝鮮、中国、ロシア、しかりです。アメリカや日本でも決して例外ではありません。福島第一原発事故は自然災害のためだけでは決してありません。

 

 「主の御前に出て水のようにあなたの心を注ぎ出せ。両手を上げて命乞いをせよあなたの幼子らのために。彼らはどの街角でも飢えに衰えてゆく。」(19節)主に向かって祈り叫べと語り掛けられています。主なる神は、信頼しつつ叫ぶ祈りを聞いてくださる方です。    

                         (久多良木和夫)

 

 

 3月19日() 聖日礼拝

       「神は愛です」           ヨハネ一4章717節 

 

『ハイデルベルグ信仰問答』の最初に、「私たち人間は生まれながら神を愛することはできず、また、自分を愛するように隣人を愛することが出来ないで、神を憎み、人を憎むようになってしまっている、そこに人間の悲惨を見る」とあります。たとえ全人類を愛することができても、たった一人の隣人を愛することが出来ないでいる愛の欠如した罪人であります。

 

ところが、ヨハネは私たちが、そのように神を愛することも、隣人を愛することもできない悲惨な人間であることを知り尽くしたうえで、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」(7)と勧めます。何故なら、神はその創造の初めから私たち人間を愛されるために造られたのであり、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(10節)。「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(11節)。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(12節)。御霊のなせる業として、私たちは互いに愛することが出来るように変えられるのです。

 

北九州復興教会の看板は、「神は愛です」。これを見上げるとき、主イエス・キリストが、どんなに深い愛を確かにするために、ここに来てくださっているかを互いに愛し合いつつ、祈りつつ確認したいものであります。                                

                          (井上博子)

 

 

 3月26日() 聖日礼拝

       「苦しみを受ける前に」    ルカ福音書22章723節  

      

 主イエスは、十字架刑の金曜日の前の木曜日、そのことを前にしてどんなに苦しかったことでしょう。しかし、主イエスはこの地上に残る弟子たちのことを心配しておられました。

 

主イエスと12弟子たちとの最後の食事は、過越祭の特別の食事でした。その場所を主ご自身が前もって用意していてくださいました(13節)。

 

イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。(15節)。十字架の死による別れを前に、主は弟子たちにもっとも大事なことを伝えたいと願っておられました。過越しのできごとは、イスラエルの民の救いの原点でもあります。最も危機的な時に天の神さまは民を助けてくださいました。その時に傷のない1歳の雄の小羊の命が取り去られねばなりませんでした。

 

主イエスは、どんなに大変な時にも神の助けがあることを弟子たちに伝えたのでした。そして、人間の罪による滅びからの救いのためには、罪のない方の命が必要であることを伝えました。そしてご自身が、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)となられました。

 

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。(19節)。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(20節)。              

                        (久多良木和夫)

 

 

 4月2日() 聖日礼拝

        「御心のままに」      ルカ福音書22章3946節  

       

 主イエスは、十字架につけられ殺される前日の木曜日、弟子たちとの最後の晩餐の後、ゲッセマネの園に行かれました。

一緒に行った3人の弟子たちは、「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)と命じられましたが、眠り込んでしましました。祈らせないようにする誘惑はいろいろあります。私たちも主イエスの言葉を心にしっかり留めましょう。

 

主イエスを捕らえに来た人たちは、イスカリオテのユダに教えてもらい、そこにやってきました。主イエスは、抵抗することをしませんでした。

 

主イエスは、祈るためにゲッセマネの園にやって来られました。十字架の死を前に、深い苦しみ、悲しみの中にあったことでしょう。

 

主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。(42節)主は、最初は何とか十字架にかからないで済む道はないかと願いました。しかし、最終的には十字架にかかる道を選ばれました。なぜなら、その道を避けるならば、地上に生きる人間の救いの道は永遠に閉ざされることになります。罪の全くない神の独り子なるご自身が、全人類の罪の身代わりとなる道を選び取ってくださいました。

 

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6章23節)。 

                           (久多良木和夫)

 

 

 4月9日() 聖日礼拝

       「十字架上での祈り」      ルカ福音書23章2643節   

 

本日は、棕櫚の聖日です。主イエスは、平和の君として馬ではなくロバに乗ってエルサレムの街に入られました。

 

主イエスは、夜を徹しての不正で強引な裁判によって有罪判決を受け、十字架につけられることになりました。重い十字架の木を担がされました。途中、キレネ人シモンは、ローマの兵隊に命じられ十字架の木を担がされました。シモンにとっては最悪の一日となりました。でも後にシモンは主イエスを信じる者となりました。

 

十字架刑の前にも、そして十字架につけられた時も、主イエスは、多くの者たちからさんざんひどい言葉をかけられました。―民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」―(3537節)。兵士たちは主イエスの一枚織りの上等の下着が誰のものになるかを決めるために十字架の足元でくじ引きをしていました。

 

そのような中で、主イエスは祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)。その祈りは呪の祈りではなく、赦しと祝福を求める祈りでした。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント二5:21)。 

                         (久多良木和夫)

 

 

 4月16日() イースター礼拝

        「復活された主イエス」   ルカ福音書24章1-12節   

 

私たち人間は、神から特別の知恵を能力を与えられました。そのことでいろいろなことが出来ます。その裏返しとして、苦悩や不安、恐れを持ちます。

 

主イエスの弟子たちの中で女性の弟子たちは、十字架の死の金曜日から3日目の日曜日の早朝、主イエスの葬られた墓に行きました。

 

主イエスのご遺体がなく、途方に暮れていた時、み使いは語りかけました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」(5-7節)

 

主イエスは、弟子たちに、ご自身が十字架につけられ殺されること、三日目によみがえることを度々告げておられました。でも弟子たちは、そのことを理解していませんでした。

 

「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリント一5:54-55)すべてをのみ込むように思われる死が最後の敵として滅ぼされました。復活の主は、主を信じる者たちの主としてすべてを支配してくださっています。復活の主は私たちと共にいてくださいます。                                              

                         (久多良木和夫)

 

 

 4月23日() 聖日礼拝

        「エマオへの道」        ルカ福音書24章2835節 

 

主イエスの弟子であるクレオパともう一人が、エルサレムからエマオまでの道のりを歩いている途中の出来事。その間に、彼らに何が起きたのか 

 

1.目が開かれる

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(31節)とある。それまでは「二人の目が遮られていて、イエスだと分からなかった。」(16節) ここでの目とは、肉の目ではなく、心の目であり、霊の目である。

彼らは、主イエスの弟子であったが、イエスの事がこの時分かっていなかった。その理由は、主イエスの死であった。このお方こそ救い主だと希望を持っていたが、十字架の死で失望へと変わった。その中、婦人や同じ弟子の仲間から、主イエスの復活を聞いたが、彼らは信じることが出来ず暗い気持であった。そのような彼らの前に、主イエスが現われ彼らと一緒に歩いた。その時は、彼らはその方が主イエスだと気づかなかった。主イエスは、そのような彼らに対し、語りかけられた。主イエスが泊まった部屋で行ったことを通し、彼らの目が開かれイエス様だったと気づいた。目が開かれることによって、私たちは主イエスへの喜びに満ち溢れることが出来る。

 

2.心が燃やされる

彼らが、気づかされた「心が燃やされる」(32節)とは、どのような状態であろうか。彼らは、心の目が遮られている時も、主イエスの話には引き込まれていた。この状態こそ心が燃やされることである。ジョン・ウェスレーはこの言葉を「心は暖かであった」と言っている。これは、キリストの内住である。主イエスが私たちの心の中に入ってくださり、冷え切っていた心が燃やされる、暖かな状態になれる事である。             

                           (後藤真英師)

 

 

   4月30日() 聖日礼拝

         「平和があるように」     ルカ福音書24章3649節 

 

 私自身は、高校1年の最初に、英語の教科書で初めて「Easter」(復活祭)という英単語に出会いました。大学3年生の時に、主イエスを信じクリスチャンとなり、今イースターの主をほめたたえ礼拝する者になっていることは大きな感謝です。

  

 主イエスは、十字架の死から3日目の日曜日、予告通り復活されました。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(コリント一15:20)。「最後の敵である死も滅ぼされます。」(15:26)。すべてを飲み込んでしまう死が、最後の敵として滅ぼされたのです。復活の主は、主を信じる者たちの主としてすべてを支配してくださっています。

 

 イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた(36節)恐れていた弟子たちは一つの部屋の中で息をひそめて隠れていました。弟子たちの最大の恐れは、主イエスを見捨てた自分たちへの神の怒りと呪いでした。その弟子たちに、復活の主イエスは、神の赦しと祝福を告げられました。その平和、平安は、神とつながった者とされ与えられるものです。

 

 「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(44節)。実現した詩編の代表の一つは詩編23編です。「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」(23:6)。最善と変わらない愛が与えられ続けるのです。                            

                          (久多良木和夫)

 

 

 5月7日() 聖日礼拝

         「主の慈しみと憐れみ」        哀歌3章2233節

  

紀元前587年に南ユダ王国がバビロニアによって滅ぼされ、エルサレム神殿も崩壊しました。ユダヤの民は兵糧攻めの中で、飢えの中で苦しみました。そして多くの民がバビロンに連れて行かれました。哀歌は、その出来事の中で記された書です。 「貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き異国の民の中に座り、憩いは得られず苦難のはざまに追い詰められてしまった。」(1:3)。    

 

 そのような絶望の中で、神からの語りかけがありました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。」(22‐23節)

  

 「慈しみ」の原語のヘブライ語はへセド(ケセド)です。新改訳聖書では、「恵み」と訳されています。変わることのない確かな愛、ゆるぎない愛を意味しています。人は神の祝福の契約(約束)に対して、背を向け勝手な歩みへと踏み出しました。しかし、神はその契約の祝福を変えられませんでした。

  

 「憐れみ」の原語は、ラハミーム(ラカミーム)です。それは、「レケム(子宮)」を語源とする語です。神のはらわたの痛みを伴う愛を意味します。主イエスの十字架の苦しみ、死を通して私たちを救う愛です。

  

 「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」(22節)。神の慈しみと憐れみは絶えることも尽きることもありません。

                         (久多良木和夫)

 

 

 5月14日() 聖日礼拝

          「立ち帰って生きよ」    エゼキエル書18章21-32節

  

 預言者エゼキエルは、捕囚のユダヤの民の中から召された預言者です。

  

 18章には、主なる神の深いお心が記されています。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(23節)。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(31-32節)

 

 本日は母の日です。アンナ・ジャービスの母アン・ジャービスは10人の子どもの中で、戦争や病気で8人の子どもを失っています。残った二人の一人がアンナです。アンナは、母が亡くなって2年目の母を偲んでの記念礼拝の時に、母の好きだったカーネーションを飾りました。翌年、最初の母の日が祝われ、母が好きだった赤いカーネーションを参加者全員に手渡しました。

 

 初期西方キリスト教会の教父となったアウグスチヌス(AD354-430)は、若いころ異教マニ教にのめりこみ、放蕩三昧に生きました。熱心なクリスチャンだった母モニカは息子ために一所懸命祈りました。アウグスチヌスは33歳の時に回心して洗礼を受けました。それから四か月後、モニカは天の神様のもとに召されました。

 

 母親は命がけで子どもを産み、乳幼児期に一所懸命世話をし育てます。そして子どものことを気にかけます。神の愛は母の愛よりもさらに大きく深いものです。               

                         (久多良木和夫)

 

 

 5月21日() 聖日礼拝

          「福音を正しく宣べ伝える」  エレミヤ書23章1829節

  

預言者エレミヤは、神の言葉を語る者たちとの戦いの日々の連続であった。このエレミヤの戦いの根本には神の言葉を言葉とするものであった。当箇所は、エレミヤのような真の預言者と偽預言者との違いである。

  

「主の会議」(18、22節)とは天において行われており、「主の会議」で決められたことは世界の歴史を動かす者である。預言者は、「主の会議」によって決められたものを、主なる神から人々に語る者として召されたものである。反対に、偽預言者は神からの召しを受けていないが彼らが勝手に語り、勝手に預言している。そして、神から召されたものとは、主なる神の言葉をただ聞くのではなく、悔い改めの思いを持って聞くものである。

  

主なる神は、世界の「すべてに満ちておられ」(24節)支配されておられる方である。その中において、インマヌエルの神として、私たちと共に働いてくださる。

 

偽預言者が語ることは「夢」であり、自分が思うままに語っている。そして、聴く者たちから「主の名を忘れさせよう」(27節)としていた。反対に真の預言者の語る言葉は、「主の言葉を忠実に語るもの」(28節)である。私たちは、礼拝で日本基督教団信仰告白を奉じる。その一文に「福音を正しく宣べ伝へ」とある。神の言葉は、言葉そのものに命があり生き生きとし私たちの糧となる「穀物」である。偽預言者の言葉は、何も深みがなくただの「もみ殻」(29節)である。

  

インマヌエルの神である全能者の神の言葉を悔い改めもって聞き、その言葉を忠実にいただいて福音を宣べ伝えるものとして歩もう。                                

                           (後藤真英)

 

 

 5月28日() 聖日礼拝

          「すべての人に福音を」   マルコ福音書16章1420節

  

主イエスの復活のことを聞きながら信じることができなかった弟子たちの不信仰とかたくなな心を主はおとがめになりました(14節)。その弟子たちに主は現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られました(ヨハネ福音書20:19)。またトマスにも出会ってくださいました(20:27)。

  

イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(15節)。全世界とは、今置かれている家庭、職場です。また、今以外のところをも指しています。主は私たちを信任して遣わされるのです。

  

使徒パウロは福音について語っています。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1:16)。心を込めて福音を伝えていきましょう。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(16節)。救いの恵みに与る者が一人でも起こされるように祈りつつ進んでいきましょう。

  

主イエスの昇天の後、弟子たちは聖霊降臨の大いなる恵みをいただきました。「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」(20節)主の大きな助けをいただきました。私たちもそのように歩むよう招かれています。                                    

                           (久多良木和夫)

 

 

 6月4日() ペンテコステ礼拝

           「注がれた神の霊」      使徒言行2章14-21節 

  

復活の主イエスの弟子たちへの命令は約束のものを待ちなさいということでした。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ福音書24:49)。

  

私たちは力に憧れます。神以外からの力は人を傷つけ苦しめます。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(テモテ二1:7)。神は力と愛と思慮分別の霊である聖霊を与えてくださいます。

  

 旧約聖書の時代には、モーセ、ヨシュアといった特別の人だけが神の語り掛けを聞き励まされました。またギデオンといった特別な人だけが神の霊によって強めていただきました。

  

新約聖書の時代になり、ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事を通して、主イエスを信じる者すべてが聖霊を受けることができるようになりました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17節)。

 

 「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(20-21節)。聖霊によって支えられ強められるのみならず、どのようなことが起きても、天の御国を受け継ぐことができます。なんと感謝なことでしょう。 

                          (久多良木和夫)

 

 

 6月11日() 聖日礼拝

            「恐れは信仰に」     ルカ福音書7章11-17節 

  

 「主」(13節)とは、イエスキリストのことを指している。十字架からの甦りの後、昇天され、神の右の座に着き、今も世界を支配されていることを表わしている。イエスキリストは、この地上で驚くべき主の御業を多くなされている。

  

 はじめに、唯一の家族であった息子を亡くした母親に対して「もう泣かなくてよい」と語る。(13節)これは、神の臨在をこの母親が感じるための先行的恩寵として語られた慰めの言葉である。次に主は、「棺に手を触れられた」これは律法で禁じられている行為であったが、主はこのような些細なことには拘らず、この時必要な事をなされた。最後に、死んでいる息子に対し「起きなさい。」と一言命令された。この一言で、生き返っただけでなく、この人は「何かを言い始めた」(15節)のである。ここでの主の御業には、神の臨在を示し、律法よりもまさるもので、死にも打ち勝つものであった。

  

 この主の御業を見ていた人は「皆恐れを抱き」ました(16節)。しかし、これは恐怖ではなく、起こっていることにパニックを起こしたような形での恐れである。その恐れが、主を称える賛美へ、そしてこの出来事を多くの人を宣べ伝える伝道へと移り変わった。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」(17節)は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)を連想させる。                         (後藤真英師)

 

 

 6月18日(日) 聖日礼拝

            「大胆に神の言葉を」   ルカ福音書7章11-17節 

  

 聖霊降臨の恵みを受け、主イエスの弟子たちは主を力強く証ししました。エレサレム神殿の美しい門において、生まれつき足が不自由だった男の人が主イエスの名によって癒され、そのことを通して多くの人が主イエスを救い主と信じ受け入れました。危機感を抱いたユダヤ教指導者たちは、ペトロとヨハネを牢に入れ、主イエスの名を用いないように脅し釈放しました。

  

 二人は、仲間たちのもとに戻り、あったことを報告しました。一時的に人間の力や権力や脅しが勝利したように見えてもそれは一時的なことで終わります。

 

 弟子たちは、主に向かって祈りました。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(29-30節)。祈りが終わると弟子たちに再び聖霊が降り、聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り出しました。

  

「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩編50:15、口語訳)。 困難な時、悩みの時、主に祈り寄り頼み進んで行きましょう。          

                          (久多良木和夫)

 

 

 6月25日(日) 聖日礼拝

            「殉教者ステファノ」   使徒言行録7章54節83節 

  

初代教会の最初の殉教者はステファノという人です。彼は霊と知恵に満ち、信仰と聖霊に満ち、恵みと力に満ちた人でした。彼を責め立てる人たちを前にしても天使のように顔が輝いていました。

 

 彼の的をついた説教に腹を立てたユダヤ人たちは彼に襲いかかり石を投げつけ彼を殺害しました。彼は、死を覚悟しつつ「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈り、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と自分にひどいことをする人たちをお赦しくださいと祈りました。(59-60節)

  

 今から75年前の1942年6月、ホーリネスの教会に国家により宗教弾圧がなされました。前年の1941年に治安維持法が改正され、弾圧の準備が着々と進められていました。この宗教弾圧は治安維持法違反ということでなされました。弾圧と翌年1943年の教会解散命令の理由は3つでした。()神宮に対する不敬、()天皇に対する不敬、()国体変革を企図した罪でした。

  

 現在の日本には、政府が思いのままに国民を支配しようとする動きがあります。かつてのようなことが起きないように祈りましょう。唯一のまことの神を信じる信仰を貫いて行きましょう。   

                           (久多良木和夫)

 

 

 7月2日(日) 聖日礼拝

           「わたしが選んだ器」     使徒言行9章119節a

  

 サウロは、ステファノが石を投げつけられ殺害することに賛成し、そばでステファノの殉教を見ていました。その後、サウロは、クリスチャンへの迫害を熱心に行いました。

  

 ダマスコにいる主イエスを信じる者たちを捕らえるために出かけて行く途中に、復活の主イエスの御声を聴き、まばゆい光に照らされ目が見えなくなりました。三日間、飲むことも食べることもしないで過ごしました。

 

 主イエスの弟子であるアナニヤがサウロのもとに遣わされました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」と神は語られました(15節)

  

 サウロはアナニアに祈ってもらい目が見えるようになりました。その直後に、彼は洗礼を受けクリスチャンになりました。サウロはパウロという名前になり、主イエスの福音を宣べ伝える者となりました。

  

 アメージンググレイスの作詞をしたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。23歳の時に嵐で死を覚悟した時、今までの歩みを改め、主イエスに従う決心をしました。後に、英国国教会の聖職者となりました。

  

 サウロを回心に導いたのは、迫害者サウロへの神の恵みです。それは、いつくしみと憐みであり、深く大きな愛です。    

                           (久多良木和夫) 

 

  

 7月9日(日)  地区講壇交換礼拝

            「メタノイア‐愛のため」  ルカ福音書527-32節  

  

 『メタノイア・アイノタメ』は30年前に牧師仲間で流行った言葉遊びです。「メタノイア」は「悔い改め」という意味の2000年前のギリシャ語の言葉です。でも「悔い改め」の目的が「神の愛のため」となれば、なかなか含蓄のある言葉となります。日常会話で「悔い改め」の言葉は使われませんが、心の中で他人を非難する時に用いましょう。でもそれは聖書本来の使い方ではありません。「悔い改め」は神様の愛に出会い、主の愛に生きるための祝された世界なのです。だからイエス様もバフテスマのヨハネもパウロも悔い改めを語り続けたのです。

  

 メタ(共に)・ノイア(考える)。つまり「悔い改め」とは、御言葉を自分の心に重ねて主と共に深く考える中で与えられる世界です。深い所で聖霊の働きなくして悔い改めになりません。自分で考えるのは「ごまかし」にしかなりません。 

  

ギリシャ人のルカ(光を与える)は「ルカ福音書・使徒言行録」の両方を記す際、パウロから示された「悔い改め」を真心こめ随所にちりばめ記すのでした。

  

 イエス様は32節「私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪人を招いて悔い改めさせるため」と言われました。 罪人として主の招きに与りながら、神の愛を聖霊の助けによって共に広げて参りましょう。 

                   (小倉東篠崎教会 福島義人師)

 

 

 7月16日(日)  聖日礼拝

          「今日はあなたの家に泊まる」  ルカ福音書19章1-10節

  

 エリコの町の人々はイエス様を一目見ようと、イエス様のもとへと向かった。ザアカイもそうである。ザアカイは周りの人々に遮られて見ることが出来なかった。ザアカイは諦めず、「徴税人の頭」という身分、そして多くの人々がいる中であったが木に登った。地位や名誉を捨ててまでもイエス様を見たいという思いの姿である。

  

 ザアカイを見てイエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」(5)と言われた。初めて会ったザアカイに対し、「そこの木に登っている男の人」ではなく、「ザアカイ」と名前を呼ばれた。私たちがイエス様を知る前からイエス様は全てを知っていてくださっている。その後、イエス様は「あなたの家に泊まりたい。」と語られた。これは、ザアカイにお願いしているのではない。原文では「今日はあなたの家に泊まることになっている。」と決まっている事として言っている。自分の名前が呼ばれたこと、イエス様が泊まってくださることで非常にザアカイは嬉しくなった。

  

しかし、周りの人々はこの光景を良く思っていなかった。ザアカイの事を良く思っていなかった。「罪深い人」と思っていたからである。イエス様の事を「あの人」(7)と呼んでいる。ザアカイは、「主」と呼んでいる。そして、律法以上の償いをする事を告白した。(8)イエス様は、ザアカイのことを「この人もアブラハムの子なのだから」といった。救いの系図を表わしている。その系図から迷い出てしまった人を捜すためにイエス様は来られた。そして、私たちもこの救いの系図に入れられている。

  

ザアカイが救われたのは、名誉を捨ててイエス様を見たいという思いからか、必要以上の償いの告白をしたからか、そうではない。「今日はあなたの家に泊まる」とイエス様の言葉でザアカイに救いが開かれた。 

                            (後藤真英)

 

 

 7月23日(日)  聖日礼拝

          「命を得る道」        エゼキエル書3章1621節  

  

 エゼキエルは、旧約聖書の中でのイザヤ、エレミヤ、ダニエルと共に四大預言者の一人です。命(いのち)について、普段はあまり考えないものです。人生の後半、家族、友の死、困難や苦難に遭遇して考えます。より豊かに、より確かに生きる道を探します。生きるということには、もう一つの課題があります。人生の終わりを迎え、生きる意味を見失う時に、どうしたら良いか行き詰ります。聖書は語りかけます。命の主につながって生きよと。

  

 神の大いなる命の恵みに与った者たちの使命は、滅びの道を警告し、命の道を指し示すということです。「わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。」(18節)「しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」(21節)

  

 機会あるごとに命の道を指し示すこと、そのために祈ること、見張り人としての使命を果たさせていただきましょう。

  

 神の御心は、この地上の命だけで終わらないように、もう一つの永遠の命すなわち霊の命をいただくようにということです。 

                         (久多良木和夫)

 

  

 7月30日(日)  聖日礼拝

          「新しい心、新しい霊」    エゼキエル書36章2530節  

  

 人生は、リセットできませんが、リスタートは何度でもできます。リセット、すべてをなしにして最初からやり直すことはできませんが、再スタート、今という時から新たに歩み出すことはできます。

 

 預言者エゼキエルの生きた時代、ユダヤの民は、国を滅ぼされ、捕囚の民として遠い地であるバイロンに連れて行かれました。みじめで希望のない状態でした。

  

 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(26節)。石の心とは硬く強情な心、自分勝手な心です。肉の心とは やわらかく、素直な心、少年サムエルのような謙虚な心です。

  

 「主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。」(31節)。町が再び立て直されるのです。エゼキエルは、骨となってしまった人々が再び生き返り動き出す幻を見ました。

  

 神の霊が吹き込まれると、骨に筋が付き肉が付き、皮膚で覆われ生き返るのです。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネ3:6)。 神の設けてくださった門を通ること、すなわち神の独り子イエス・キリストを信じることを通して神の霊である聖霊をいただくことができます。                                                 

                                       (久多良木和夫) 

 

 

 8月6日(日)  聖日礼拝

          「命の水の川」        エゼキエル書47章1-12節 

  

 預言者エゼキエルは、枯れた多くの骨が生き返る幻を見ました(36章1‐12節)。その出来事において、働いたのは神から吹き込まれた息、すなわち吹き付けられた霊でした。

  

 エゼキエルは、もう一つの幻を見ました。エルサレムの神殿の敷居の下から湧き出た水が東に向かい、だんだんその川の深さが増すのでした。その川は死海に達し、その中に注ぎ込みました。

  

 「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(9節)。死んだ湖が生きた湖となったのです。多くの魚が住めるようになったのです。

  

 命の水は、神殿より流れ始めました。旧約の時代、神殿は、動物の犠牲が献げられ、罪の赦しをいただくところでした。新約の時代、イエス・キリストを通して永遠の神殿が打ち建てられました。それはイエス・キリストの命の犠牲を通して罪の赦しをいただき、神と共に生きる恵みの泉です。

 

 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)。神の霊である聖霊を受けて、内に永遠の命をいただきましょう。 

                                      (久多良木和夫) 

 

  

 8月13日  召天者合同記念礼拝

           「天の故郷を仰ぐ」       ヘブライ11章1316節 

 

 故郷とは、生まれ育ったところ、子ども時代過ごした地、父母のいるところを意味します。地上の故郷は、父母や友が亡くなり、思い出の地になってしまうことがあります。天の故郷は、天の神さまが直接支配している世界です。

  

 地上の歩みにおいて、大きな困難に出会うことがあります。自分のふがいなさ、弱さを覚える時があります。孤独、不安、恐れ、罪責感にさいなまれる時があります。その時に神は語り掛けます。あなたを忘れてはいない、覚えている、わたしに立ち帰りなさいと。 「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ45:22)。

  

「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(16節)。

   

 人生は、『天の故郷を目指して進む歩み』と言うこともできます。その途中、迷いの森に入り込むことがあります。天の神さまを見失ってしまうことがあります。そのような私たちを神は憐れんでくださいます。私たちのために救い主である主イエスをお遣わしくださいました。真理の霊である聖霊をお与えくださいます。

  

 天の故郷を備え、支配しておられる神さまを仰いで進ませていただきましょう。

                           (久多良木和夫) 

 

 

 8月20日()  聖日礼拝

          「祈りをやめなかったダニエル」    ダニエル6章118節          

  

ダニエル書の前半の第1章から第6章までは、異教社会の中で歩んだ、神を信じる4人の若者の歩みが記されています。その若者とは、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4名です。  

  

 第1章では、四人は、宮廷の肉類と酒を避けることを言い表し、助けをいただきました。第3章では、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの三人は、偶像の金の像を拝むことを拒否した結果、燃え盛る炉に投げ込まれましたが、助け出されました。

  

 第6章では、王以外のものに願い事をするものはライオンの洞窟に投げ込むという法律ができた後も、ダニエルは日に三度の天の神さまへの祈りを決してやめませんでした。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」(11節)。そのためにライオンの洞窟に投げ込まれましたが、助け出されました。

  

 多くの人が拝んでいたとしても、神社、仏閣に祭られているものはまことの神ではありません。決して拝んではいけません。そこに安易に出入りすることも避けさせていただきましょう。

  

 天の神さまこそ、まことの神です。真実な方です。まことの神のみを礼拝し、祈りと賛美を捧げましょう。          

                            (久多良木和夫)

 

 

 8月27日()  聖日礼拝

          「わたしが自ら同行する」  出エジプト記33章12-17節           

   

モーセは出エジプトをし、シナイ山にて神から十戒を授与され、これからと思っていた矢先に、山を下ると同胞のイスラエルの民たちが金の子牛を作って偶像礼拝をしていました。希望が失望に変わってしましました。その時神から語られたのが14節の言葉でした。

  

『わたしが自ら同行し』とは、原文では「わたしの顔が行く」です。顔とは、神様が行くべき道を示してくださっており、その道を恵みの道として開いてくださっています。また、その道を一人ではなく神様が共に進んでくださるという意味です。それは、一人ではない、必ずその道まで神が導いて恵みを与えてくださるとの大きな励ましを神様がまず語られたのでした。

  

 「あなたに安息を与える」とは、神様がモーセに「わたしが行くからあなたは休んでいていいよ」ではありません。神様が約束の地まで共に歩んでくださり、そこにおいてあなたに安息の場所を用意しているとのことでした。わたしたちにとっての安息は、日曜であり、礼拝です。礼拝は神様から御言葉を頂き、1週間の疲れの癒しと、新たな力が与えられ、これから1週間へと旅立っていく場所であります。神様は私たちにそのような安息の場所を必ず備えてくださいます。その事に大きな希望を持ちたいと思います。

 

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。」(ヨハネ14:1)                                        

                            (後藤真英)

 

 

 9月3日()  聖日礼拝

          「目覚めた人々は輝く」    ダニエル書12章1-13節             

 

預言者ダニエルは、バビロニアのネブカドネツァル王、ベルシャツァル王、ダリオス王、そしてペルシャのキュロス王に仕えました。彼はおよそ400年の歴史を預言しました。

 

12章は、10章から始まる終わりの時の預言の最後のところです。大天使長ミカエルによる選びの民に対する守りと共に苦難がなお続くことが語られています。「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は。」(1節)。

  

最も悪しき者の一人は、紀元前2世紀に立ったシリアのセレウコス王朝のアンティオコス4世です。この王によるユダヤ教徒の仰ぐ神への冒涜、ユダヤ教徒への迫害はすさまじいものでした。すべての者は神の前に立たねばなりません。永遠の生命に入る者は幸いです(2節)。

 

「目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。」(3節)。目覚めた人々は、新改訳では「思慮深い人々」、口語訳では「賢い者」と訳されています。目覚めた人々とは、主に寄り頼む者のことです。主イエスを救い主と信じ続ける者です。(ヨハネ福音書5:5)。

  

「多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。」(10節)。       

                                                                    (久多良木和夫)

 

 

  9月10日()  聖日礼拝

          「神の憐れみ」           ホセア書2章2025節

  

ホセアは、北イスラエルのヤロブアム2世の時代の紀元前8世紀に活躍した預言者です。彼は、神さまから一人の女性ゴメルを結婚するように命じられ結婚します。 

  

ところが、そのゴメルは夫であるホセアではない他の男性に走り、三人の子どもを産みます。ホセアの悲しみと嘆きはいかばかりであったことでしょう。その悲しみと嘆きは、ご自身を捨てて偶像の神々に走ったイスラエルに対する神さまの悲しみと嘆きを意味しています。

  

「わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び 正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。」(21節)。慈しみ憐れむは、原語では、慈しみと憐れみとをもってと名詞形です。憐れみの言語のラハミームは、深い痛みを伴った愛を意味しています。

  

「地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。わたしは彼女を地に蒔きロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみロ・アンミ(わが民でない者)に向かって「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。」(24,25節)。

 

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント二5:21)。

                          (久多良木和夫)

 

 

 9月17日()  聖日礼拝

          「命の光を持つ恵み」        ヨハネ8章1214節  

  

人生後半の課題は、2つあります。第一のことは人生の晩年をどう生きるかということです。第二のことは人生の最後に迎える死にどう立ち向かうかということです。

 

人生半ばの課題は、どう人生を進めるかということであり、もう一つは難しい問題にどう立ち向かうかということです。

  

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12節)。

暗闇の中を歩むとは怒りや許さない心を持ち続けることであり、希望を失い絶望の中に歩み続けることであり、自分がどこに行くかわからないまま生きることです。

命の光を持つとは、怒りや許さない心を捨てることであり、絶望から脱し希望を持つことです。たどり着くべき天のふるさとをいただいて生きるということです。

  

サマリヤの一人の女性は、人目を避け、虚しさの中にもがきながら生きていました。しかし、主イエスに出会い、渇く水ではなく渇かない水があることを知り、その水をいただくものになりました。(ヨハネ4:14)。

  

世の光である主イエスに従う時に命の光を持つことができ、喜び、祈り、感謝することができるのです。    

                         (久多良木和夫)

 

 

 9月24日()  聖日礼拝

          「信じるものは何でもできる」     マルコ9章2029節       

 

悪霊に取りつかれた子どもを連れた父親が、悪霊を取り除いていただこうとイエス様のもとに来た。まず、父親は今まで取り除こうと色々な事を試してきたことを説明した。それで「おできになるなら」と言った(22節)。主はその言葉や弟子の姿を見て「『できれば』というか。信じる者には何でもできる。」(23節)と言われた。この言葉を聞いて、父親はとても驚いた。今まで、色々な事を行っていたけど出来なかったから無理だろうと思っていた。イエス様の力を完全に信じきれておらず、半信半疑だった。しかし、父親は、イエス様の言葉を聞きイエス様を完全に信じるようになった。私たちは信仰を持つことは、過去でも、未来でもない。「今」である。その言葉を聞き、イエス様は癒された。

  

この光景を見た弟子たちも驚いていた。それは、自分たちでは霊を追い出すことが出来なかったからである。そこでイエス様に質問をした。そのイエス様の答えは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ない。」(29)と祈ることの重要性を語られた。祈りは、密接な関係をあらわす。父なる神様との関係が密接となる事が必要。それは、神に全てを委ねるということである。

  

私達、イエス様を「今」信じ、神様と密接な関係となることで喜びの信仰生活を送ることが出来る。           

                            (後藤真英)

 

 

 10月1日()  聖日礼拝

            「主のもとに立ち帰れ」      ホセア書14章25節 

  

紀元前8世紀半ば、預言者ホセアは神からのメッセージを告げます。

 

イスラエルの民は、天の神さまを捨て、偶像礼拝に向かい、大国アッスリア、エジプトに寄り頼みます。偶像は、命なく、私たちを祝福することはできません。大国は最後にはイスラエルを見捨てました。

 

神は慈しみと憐れみをもって語られました。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与えアコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったときエジプトの地から上ってきた日のように。」(2:16-17)。               

 

「イスラエルよ、立ち帰れ あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。」(2節)。 私たちは目の前のものに踊らされます。力あるように見えるもの、偶像の神々、この世の流行、価値観、それらのものはやがて移り変わっていきます。

 

  「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」(エゼキエル書19:32)。 天の神さまは、私たちが滅びるのでなく、永遠の命を持つことを願っておられます。

 

「わたしは背く彼らをいやし喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。」(5節)。  

                           (久多良木和夫)

 

 

 10月8日()  聖日礼拝

            「人生の転機」        マルコ福音書10章4652節 

 私たちの人生には、様々な転機があります。それは一つ一つの出会いによって起こります。それは、すべて神さまの御手の中にあります。

 

 主イエスは一人一人を見られ、その人に呼びかけられ、その人が求めているかどうか、ついてくるかどうかを見ておられます。

 

 ティマイの子で盲人のバルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と繰り返し叫び続けました。多くの人が叱りつけ黙らせようとしても叫び続けました。ダビデのことは当時メシア(救い主)の称号として、ユダヤ人だけが用いていた呼び方です。

 

 主イエスが、「あの男を呼んで来なさい」と言われると、人々は「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、素晴らしい言葉を彼に語りました。

 

 バルティマイは、主イエスからの呼びかけに応答することを通して、道端で、神さまが憐れみ深いことを知らされ、身体の目と霊の目を開いていただくという二重の喜びを経験しました。             

                         (久多良木志津子)

 

 

 10月15日()  聖日礼拝

            「キリストから学んだこと」    エフェソ4章1724節

 

 「異邦人と同じように歩んではなりません」(17節)は、口語訳などでは間に「むなしい心」が入る。むなしい心とは、一言で表わすと罪の心である。罪の意味は的外れであり、的外れの道を歩んではならないとなる。そのようにならないためにも、「心の底から新たにされて」(23)いくことが必要である。それは自分(人間)の力では出来ない。

 

 「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(3:17)、キリストの内住である。心の王座をキリストに明け渡すことである。むなしい心の状態は、寂しい状態ともいえる。他に頼れるものがなく、罪の道へと入ってしまった。しかし、心にキリストが内住してくださることで、寂しくなくなり喜びへと変わる。キリストの内住により、「心の底から新たにされたもの」は、「正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(24)

 

 聖めの生活である。『キリストから学ぶ』とは、キリストに興味を持ち、影響を受けることである。聖めは、キリストに似たものとなることである。似たものとなるためには、キリストに興味を持ち、影響を受けていくことになる。聖めの生活を送るために私たちは、キリストから多くの事を学び続けていこう。キリストから何を聞き、何を教えられ、何が真理と学ぶのか。(21節参照) それは、主イエスキリストそのものである。   

                          (後藤真英)

 

     

 10月22日()  聖日礼拝

            「主の霊を注ぐ約束」        ヨエル3章1-5節

 

 水を注ぐことで花や作物は元気を取り戻します。愛情を注ぐことで赤ちゃんは健やかに成長します。

 

私たちは、現在のこと、将来のこと、持ち物のこと、健康のこと、そして人生の終わりの時のことに大きな恐れをいだきます。

 

 預言者ヨエルは、主の日のことを預言しました。「ああ、恐るべき日よ 主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る。」(1:15)。「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に太陽は闇に、月は血に変わる。」(3:4)。預言者ヨエルは、イナゴの大群の預言、アッスリア、バビロンによる敗北の預言をしました。主の日は、主がすべてを裁かれる日です。

 

 「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは 奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(1,2節) 。天の神さまは私たち人間に主の霊を注ぐ約束をしてくださいました。裁きの日である主の日がやって来ても、主の霊をいただいている者は大丈夫です。

 

 主の霊は、イエス・キリストを救い主として受け入れた者たちにペンテコステの日に注ぎ与えられました。イエス・キリストの十字架の贖いを通して、永遠の命を受けることができます。              

                         (久多良木和夫)

 

     

 10月29日()  秋の特別歓迎礼拝

          「確かな希望に生かされて」    ヨハネ福音書14章17節

 

 14歳の時に隣の家のおばあさんが亡くなりました。私は、人は死ねば忘れ去られていく、生きることはむなしく、何のために生きていくのだろうと思いました。むなしいものではなく、確かなもの、絶対なるもの、永遠なるもの、聖なるものを求めるようになりました。仏教関係の本、キリスト教関係の本を読みあさりました。

 

 大学に入って、医学の勉強と共に通信講座で仏教の勉強をしました。卒業後3年して京都にて尼僧となりました。仏教大学の専攻科の学びもし、尼僧道場の舎監と教師になりました。真剣に厳しく求め続けましたが、私が求めていた絶対なるものはありませんでした。お釈迦様は大変偉大なお方であり、世界の名だたる宗教家のお一人ですが、私たちと同じく死すべき方でした。仏教は、人間の理性の基づいた悟り、深い宗教哲学はありますが、理性を超え宇宙を貫いて存在する絶対的真理はありません。私は失意落胆し、還俗し、小児科医に戻り結婚し、子どもが二人与えられました。

 

 神は生きておられます、私たちの主イエスは生きておられます。私たちは神に到達しようと一生懸命努力しますが、それは不可能です。神さまの方から私たちのすぐそばまで来てくださいます。私は夫婦の愛情問題でとても悩みました。夫が百パーセント悪いと思い、離婚も考えました。そのようなとき、隣に建ったキリスト教会の特別伝道集会で、説教者の伊藤栄一牧師より全き平安を与えられた証しの説教を聞きました。そして自分も全き平安をいただきたいと心から願い、主イエスを信じ受け入れました。その後、不思議なことに、夫への赦しと愛が豊かに与えられました。 

 

 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節) 

                          (藤井圭子師)

 

     

  11月5日()  聖日礼拝

           「主を求め、生きよ」       アモス書5章4-6節 

 

 アモスという預言者は、南ユダのテコア出身で、家畜を飼い、いちじく桑を栽培していた人です。紀元前8世紀前半から半ばに、北イスラエル王国で預言者としての働きをなしました。ヤロブアム2世の時代で、国は非常に栄えていました。しかし、貧富の差があり、不正、宗教の堕落が横行していました(2:6-8、3:11、5:11)。

 

人々は、神の呼びかけに応じようとしませんでした。「お前たちはわたしに帰らなかった」(4:6、8、9、11)。

 

 「ベテルに助けを求めるな ギルガルに行くな ベエル・シェバに赴くな。ギルガルは必ず捕らえ移され ベテルは無に帰するから。」(5節)。べテル、ベエル・シェバ、ギルガルは、神への礼拝のための祭壇が築かれたところです。そこでの礼拝は形式的なものとなっていました。500年前に、ドイツで当時のカトリック教会が贖宥状(免罪符)を買うことで罪の償いができる、罪は赦されると呼びかけていたのと似ています。

 

 「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」(4節)。「主を求めよ、そして生きよ。」(6節)。  神は救いの道を備えてくださいました。それは人の善行によってではありません。ただ、神の慈しみと憐れみによってです。神は、イエス・キリストをお遣わしくださいました。

   (久多良木和夫)

 

 

 11月12日()  聖日礼拝

           「光の子として歩みなさい」    エフェソ5章6-20節

 

 パウロは、「光の子として歩みなさい」(8節)と述べる前に、「あなたがたは以前には暗闇でした」(同)と、暗闇の中にいたのではなく、私たち自身が暗闇と言っている。それが「今は主に結ばれて、光となっています。」(同)と語る。

 

 主イエスが、光として暗闇である私たちの心に光を差し込んでくださった。私たちは、光の子として歩むためにすることは「何が主に喜ばれるかを吟味」すること(10節)。暗闇の時は、見ている先は真っ暗で何も見えなかった。要するに、そこが暗闇であるかもわからなかった。しかし、主からの光が照らされることで光と闇の部分が分かるようになった。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」とある(13節)。

 

 光の子らしく何が光で何が闇であるかを考えつつ歩んで参りましょう。また、パウロは「愚かな者としてではなく、賢い者として細かく気を配って歩みなさい。」(15節)と語る。光を知ることは、何がよい事で悪い事かの知識を得たことになる。そこで光の子らしく、「時を良く用い」(16節)、「主の御心が何であるかを悟り」(17節)「酒に酔いしれず・・・むしろ霊に満たされ」(18節)歩みましょう。 

                          (後藤真英) 

 

     

 11月19日()  聖日礼拝

    「神はできる‐ラクダを針の穴を通す方法」  マルコ10章1731節

 

 沢山の財産を持つ青年が主イエスのもとを訪ねてきた。彼は、当時のユダヤ人が「永遠の命」と呼ぶ、自分の死を超えても残る確かなものを探していたからだ。

 

 しかし、その青年に対して主は「財産を貧しい人に施しなさい」と言われた。その言葉に青年は悲しみながら去る。財産が彼のアイデンティティだったのだ。

 

 そして主は「財産のある者が神の国に入ることは難しい」と言われた。その言葉に弟子たちは驚いた。なぜなら、当時の価値観では財産は神の祝福と考えられていたからだ。つまり、財産が沢山ある人は神に祝福されていると思われていたのだ。しかし、主は「そもそも人が神と共に生きることは難しい」と言われるのだ。 

 

 私達はどんなに素晴らしい持ち物や才能、魅力があっても、それで神に救われるということは無い。そもそも私達人間は誰一人として、神に相応しい存在ではないのだ。  

 

 しかし、そのような私達のことを神は見捨てずに、神と共に生きることができるなら、主イエスを十字架にかけることも厭わない神なのだ。なぜなら、神と共に生きることにこそ、私達の生きる勇気も力もあるからだ。そして、どのような現実を引き受けながらも、それでも前に進むための力もあるからだ。 

                     (福岡渡辺通教会 馬場勇樹師)

 

 

 11月26日()  聖日礼拝

          「ヨナの祈り」            ヨナ書2章1-11節

 

教会学校の子どもたちの中で、最もなじみ深い聖書の中の人物の一人がヨナです。彼は預言者ですが、神さまの命令に背いて逃げ出しました。ニネベではなくタルシシュに向かいました。途中大嵐になり乗っていた船が沈みそうになりました。ヨナはその原因は自分にあることを知っていました。

 

 彼は海の中に投げ込まれました。そのまま溺れ死ぬかと思ったら、大きな魚にのみ込まれました。しかも死なずに生きていました。その魚は神が用意されたものでした。ヨナはこれで自分の人生はついに終わると思いました。でもそうではありませんでした。神がヨナの命を生かし続けられたのです。

 

 ヨナ書は、旧約聖書の中では、神の愛は、イスラエルの民だけでなく、全世界の民に向けられていることを告げるユニークな書です。(4章11節)

 

 「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。」(3節)。「しかし、わが神、主よあなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。」(7節)。神はヨナを憐れんでくださいました。神の大きな憐れみがヨナにかけられました。ヨナは神の愛に感謝し、「救いは、主にこそある」(10節)と告白しています。                                                                                            (久多良木和夫)

 

 

 12月3日()  アドベント第1主日礼拝

       「救い主誕生の預言」           ミカ書5章1-5節

 

  預言者ミカは、紀元前8世紀に活躍した預言者です。時代は、北イスラエルが大国アッスリアに苦しめら呑み込まれようとしていた時です。

 

 ミカ書5章のこの箇所は、救い主のイエス様がお生まれになる町を預言した有名な箇所です。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(1節)その町の名はパンの家という意味のベツレヘムです。エルサレムよりおよそ10キロ南の町です。救い主は、その預言の通りベツレヘムでお生まれになりました(マタイ2:9-11)

 

  「彼こそ、まさしく平和である。」(4節)。この世においては、力ある者、経済力、軍事力の大きい国が、他者をそして他の国を凌駕し支配しようとします。そのような人間の力による支配は限界があり、いつか破綻します。真の平和の君として主は来られ、民を助けてくださいます。

 

 「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(4章3節)

 

  真の平和は、神との平和という土台があって与えられるものです。神との平和は、主イエスによる贖いを通して備えられました。

                          (久多良木和夫)

   

 12月10日()  アドベント第2主日礼拝

     「光の道、平和の道」         ルカ福音書1章5779節 

 

 私たちは聖書を読むとき、自分自身を聖句に重ね合わせて読みます。「時が来れば実現するわたし()の言葉を信じなかった」のは、ザカリアでしたが、私たちも同様です。初めはまだであっても、その時になったら必ず神の言葉の如くなることを彼は信じることができませんでした。50年もの長い間、心の奥にあった願いを神は聞き入れてくださらない、という不信と怒りのようなものがあり、彼はそこに覆いをかぶせていたのではないでしょうか。

 

 言葉を話すことができない期間を過ごしたのち、妻エリサベトが男の子を産み、その子の名前を天使が告げた通り「ヨハネ」と書いたとき、口がほどけました。彼の不信仰は信仰へ変わり、神への賛美が湧き出て来ました。罪の赦しによる救いを与えてくださる神の憐れみの心、光の道、平和の道があることを語りました。「主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(77-79節)。

 

 自分の不信仰を知らされた後、信仰の行いへとすすんだザカリアはまず主なる神をほめたたえました。天使に告げられた通り息子ヨハネは、救い主イエスのために道を整える働きをしました。       

                        (久多良木志津子)

 

     

 12月17日()  アドベント第3主日礼拝

   「飼い葉桶の中の救い主」       ルカ福音書2章1-7節

 

 救い主イエス様は、家畜小屋でお生まれになり、飼い葉桶の中に寝かされました。聖書はそのことを伝えています。

 

 ローマ皇帝の命令によって、ユダヤの人たちは生まれ故郷の町で住民登録をしなければなりませんでした。マリアとヨセフはベツレヘムに行きました。宿屋はどこもいっぱいで、泊まる場所は家畜小屋しかありませんでした。マリアはそこで救い主イエス様を産みました。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6,7節)。

 

 飼い葉桶は、牛やロバ等の家畜のえさ箱です。食べかすやよだれが付いていたかもしれません。決してきれいではありません。そのような場所に救い主は寝かされたのです。その飼い葉桶には深い意味がありました。

 

 その夜ベツレヘムの野で羊を飼う羊飼いたちは、救い主の誕生を知らされました。家畜小屋の中の飼い葉桶の中で寝ていることを告げられ、出かけて行きました。立派な宮殿の立派な揺りかごの中の中に寝ていると言われたら自分たちは行けないと思ったかもしれません。でも、家畜小屋の飼い葉桶ということで親しみをもって行くことができました。

 

 神は一番低いところにお下りくださり、わたしのもとに来なさいとあなたを招いてくださっています。       

                         (久多良木和夫)

 

     

  12月24日()  クリスマス礼拝

      「インマヌエルの主」       マタイ福音書1章1825節 

 

 クリスマスの主は、私たち一人一人の人生の歩みを覚えてくださっています。そして、どんなときにも共にいて、歩みを助け導いてくださいます。

 

ヨセフは苦悩しました。私たちそれぞれも人生の歩みにおいて悩む時があります。ヨセフは、身重のマリアとの結婚の約束を解消し、秘かに縁を切ろうと考えました。マリアの胎内の命はどこから来たのか、マリアの言うことはとても信じがたいことでした。

 

 主の天使が夢の中でヨセフに、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったと告げました。ヨセフはマリアを受け入れる決断をしました。イサクの子ヤコブは、どん底の危機の時、神が語りかけられ大いなる約束をいただきました。(創世記28:15)

 

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)神が共にいてくださる、なんと幸いなことでしょう。そしてその幸いな約束は神との関係の回復を抜きには考えられません。

 

  「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(21節)それは罪からの救いです。罪とは真の神との断絶のことです。その断絶からの回復を主イエスは成し遂げてくださいました。イエス・キリストは、クリスマスの主であり、十字架の主であり、復活の主です。  

                            (久多良木和夫) 

     

 

  12月31日()  年末感謝礼拝

      「御言葉に聞き従う」       ヨハネ福音書21章114節 

 

 2017年を振り返ると、様々のことがありました。4月に後藤真英教師の着任、7月に第41回西南夏期聖会、10月に秋の特別歓迎礼拝、歓迎集会、その他とありました。3名の方が受洗、3名の方が転入会、3名の方が召天されました。

  

「舟の右側に網を打ちなさい」と復活の主はペトロたちに語りかけました。聞き従ったペトロたちは多くの魚を捕ることができました。標語「主の御言葉に聞き従う」に対して、皆さんはどうだったでしょうか。

 

 主イエスは、種をまく人のたとえで、実を結ばない人と実を結ぶ人の違いを語られました。御言葉を聞いても聞き流し、主に寄り頼むことをせずに歩む者は実を結ぶことができないと主は語られました。実を結ばない自分であるならそのことを認めて、再び主を見上げ寄り頼みましょう。御言葉を聞いて悟る者は実を結ぶと約束しています。聖書の御言葉を心に刻み、主に信頼して歩んでいきましょう。

 

 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40:8)変わらない確かな主の御言葉を与えてくださるところの永遠に生きて働いてくださる主に感謝して従っていきましょう。   

                         (久多良木和夫)