2018年 10月

 10月14日() 聖日礼拝

   「担い、背負い、救い出す神」     イザヤ46章1-4節

 

 私たちの人生における神の関係での過去、現在、未来を表わしている。

 

 過去‐『担う神』 「あなたたちは、生れた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。」(3節b)神は、私たちが生まれた時から、私たちが神の事を知る前から、人生の始めから私たちの事を守ってくださり導いてくださっている。

 

 現在‐『背負う神』 「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。」(4節a)白髪になるまでとは、生涯最後まで背負っていくという約束である。背負うとは、負債など重荷である。それが、主イエスの十字架である。十字架によって私たちの罪を全て代わりに背負ってくれた。そして私たちの前を歩いてくれている。先導をしていくださっている。 

 

 未来‐『救い出す神』 「わたしが担い、背負い、救い出す」(4節b)罪を全て背負ってくれて終わりではない。主イエスは十字架の死後3日目に、復活された。罪と死から打ち勝たれ、罪を全て赦してくださった。預言者イザヤの時代に、既にわたしたちを罪の奴隷から解放してくださる約束がされている。

 

 神は私たちの人生の初めからそして最後までわたしは担い、背負い、救い出す」神であると約束してくださっている。その神様の後を生涯信じて歩んでいこう。                        

 

                            (後藤真英)

 

 

  10月21日() 聖日礼拝

  「人を裁くな、赦しなさい」  ルカによる福音書6章37-42節

     

 喜びがあり、楽しくもあり、時に心を悩ますことがあるのが、人間関係です。  

 

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(37節)裁く者は裁かれます。赦さない者は赦されません。一方、裁かない者は裁かれません。赦す者は赦されます。

 

 裁かない、赦すということは、一般的な人ではなく、自分の目の前の相手であり、特定の人だから、難しいのです。「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(42節)。自分の目に丸太があるのにと主は語られます。

 

 私たちは、主イエスの十字架での身代わりの死によって罪を赦された者です。

 その大きな恵みをいただいているのです。  

                          (久多良木和夫)

 

 

 10月28日() 聖日礼拝

  「倒れない家を建てよ」   ルカによる福音書6章43-49節    

 

 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」(43節)「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」(45節)。良い実を結ぶ者、良い言葉を出す者とさせていただきましょう。

 

 家は外観や内部の具合も大事ですが、一番大切なことは、しっかりとした土台の上に建てているかどうかです。別の言い方をすれば、大雨、台風、洪水、地震の時に倒れないことです。主イエスが語られた家とは、私たちそれぞれの人生という家です。大雨、洪水等とは、人生における大きな嵐であり、人生の最後にやってくる死です。

 

 倒れる家は、土台なしで地面に置かれた家であり、砂の上に建てられた家です。倒れない家は、地面を掘り下げ、岩の上に土台を置いた家です。

 

 倒れる家は、主イエスの言葉を聞いて行わない者の家です。主イエスの言葉を心の端っこに置き、それをないがしろにする者の家です。倒れない家は、主イエスの言葉を聞いて行う者の家です。主イエスの言葉を心の中心に置き、それを感謝して受け止め、それに従って歩む者の家です。

                         (久多良木和夫)