2018年11月

 11月4日() 聖日礼拝

     「これほどの信仰を」     ルカによる福音書7章111節 

 

ローマ人であった一人の百人隊長、彼は、天の神さまを信じ礼拝を真実に捧げるユダヤ人を応援して会堂を建ててあげました。また、彼の部下が重い病気になり何とか助けてあげたいと願う優しい人でした。

 

 彼は、使いをやって、主イエスに助けを求めました。自分に向かう主イエスに、御足労を断りました。しかし、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と主イエスのひと言を求めました(7節)。

  

百人隊長としての権威を経験していた彼は、主イエスが神から与えられている神の子としての権威を心から敬い、その絶大な力を信じていました。

 

 彼は主より「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」とほめられました(9節)。彼の部下は癒されました(10節)。

 

 百人隊長は、時代が変わっても、自分自身が変わり、弱り果てても変わらない確かな力の御言葉を信じていました。自分の分別、知識、悟りには頼らず、主に信頼したのでした。

 

 「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」(ヤコブの手紙1章21節)。主に信頼し、御業を拝し、勝利をいただきましょう。

                          (久多良木和夫)

 

 

 

11月11日() 聖日礼拝

 

     「若者よ、起きなさい」     ルカによる福音書7:1117 

    

 

 一人のやもめが受けた大きな恵みの出来事が記されています。彼女は愛する夫に先立たれ、一人息子の成長を楽しみに生きていました。ところが、その一人息子を失い、悲しみのどん底に突き落とされました。

 

 

 

 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた

 

(13節)。憐れに思いという原語のギリシャ語は、とても深い同情を意味する言葉です。主は、私たちが抱える悲しみ、苦しみ、悩みを受け留め、共にいて、それを共に担ってくださるお方です。

 

 

 

 イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。(14-15節)。起きなさいという原語のギリシャ語は、主イエスが与った復活を意味する言葉です。人の力ではどうにもならないことを、復活の主ご自身がその御力をもってなされることを意味します。

 

 

 

 預言者エゼキエルが、見せられた枯骨の谷の幻(エゼキエル書37:1-5)は、ユダヤの民に実現しました。

 

 

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25)。主は、信じ従う者に復活の主の御力を体験させてくださるお方です。           

                         (久多良木和夫)

 

 

 

 11月18日() 聖日礼拝

 

     「来たるべき方は」        ルカ福音書7:18-35 

 

    

 

 人生という旅において、どう進んだら良いか悩むときがあります。その時に必要なものは、助けと導きではないでしょうか。

 

 

 

 洗礼者ヨハネは、二人の弟子を遣わし、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせました(19節)。来たるべき方とは、真の救い主ということです。主よ、その方はあなたご自身ですか。あなたに寄り頼んでも良いのですねと尋ねたのでした。

 

 

 

 ヨハネは、主イエスの誕生の時のヘロデ王の息子のヘロデが、律法で禁止されていた結婚をしたことを指摘したことで、捕らえられ獄の中に長く幽閉されていました。ヨハネは、死を覚悟させられる苦しみの中で悩み、確信が揺らぎ、弟子たちを主イエスのもとに送ったのでした。

 

 

 

 主イエスは、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」と答えました。(22-23節)。

 

 

 ヨハネは、苦難の日、悩みの日に、主に尋ね、助けを求めました。そして、主より答えをいただきました。まもなくヨハネは、殉教の死を遂げますが、主よりの答えを握り、天に旅立ったことでしょう。   

 

                        (久多良木和夫師)

 

 

 

 

11月25日() 聖日礼拝

 

     「命の光を持つ」         ヨハネ福音書8:1-12 

 

    

 

 民衆を前にして座ってじっくりと教え始められた主イエスの所に、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせました。彼らは主イエスを訴えるという下心を持っていました。

 

 かがみ込み地面に何かを書いておられた主は、身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。彼らはこの言葉に自分自身のことを振り返らざるをえなくなり、立ち去って行きました。この時、女は立ち去らずに留まりました。主イエスのそばに。「あなたを罪に定めない」とは、「罪のないわたしがあなたに代わって十字架で罪の裁きを受けますから、あなたは赦されます」という宣言です。

 

 

 「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(7節)とあります。私たちの周りの人たちが誰もいなくなるこの人生の最後の時、主と二人になるその時に「あなたの罪は赦されている、大丈夫だよ」のその一言をいただくことを願います。

 

 

 

主イエスのそばに留まった女には、新しく生きる道と「命の光」が与えられました。この光は、目に見える消え去る光ではなく、消えない光です。暗闇でこそ輝く光、人の力の限界の時、最後の時に輝く光です。

 

                        (久多良木志津子)