2018年 1-6月

  1月7日()  新年礼拝

     「信仰によって生きる」        ハバクク書2章14節 

 

 預言者ハバククが活躍したのは、紀元前7世紀からの後半です。南ユダ王国を支配しようと迫っていたアッスリアの国が滅び、第16代目のヨシヤ王が宗教改革を行いました。しかし、彼はエジプトの国との戦いで戦死してしまい、南ユダの国はエジプトの支配下に置かれました。次にはバビロニアに支配されていった大変な時代でした。ハバククはその苦しみを神に訴え抗議しました。「それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか 神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに。」(1:13)。

 

主なる神は、彼に語りかけられました。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(4節)。この御言葉は、ローマの信徒への手紙1章17節で、使徒パウロによって引用されています。ガラテヤの信徒への手紙3章11節においても語られています。

 

 どのような時にも、主を仰ぎ、主に祈り、主に信頼して主の助けと導きをいただいて歩んでいきましょう。目の前の困難、行き詰まりに打ち沈む時があります。その時に主を見上げる者であらせていただきましょう。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。」(詩編62:6)。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。(哀歌3:22)

                         (久多良木和夫)

 

 

    1月14日()  聖日礼拝

     「ただ中におられる主」     ゼファニヤ書3章14-20節 

 

 ゼファニヤは預言者ハバククよりも少し前に働きをなした預言者です。ハバククは南ユダの国がエジプト、バビロニアという大国に支配されていた時に、「神に従う人は信仰によって生きる」と語り、信仰の目を主に向けて歩むことの大切さを告げました。 

 

 ゼファニヤは、南ユダの国がアッスリアという大国に支配されていた時に、真の神以外のものに心を向け歩んでいた南ユダの人々に、そして真の神以外の神々に心を向けて歩んでいた南ユダの国以外の諸国の人々に、主の日の審きを告げました。

 

 それと同時に、ゼファニヤは、 「お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(17節)と告げました。

 

 主なる神がただ中にいてくださり、勝利を与えてくださるというのです。実際の歴史を見ると、南ユダの国は、その後、バビロニアに滅ぼされていまい、多くの者はバビロン捕囚となります。しかしその期間が終わってもう一度南ユダの国は再興されます。神殿中心の信仰から、律法中心の信仰へと変わっていきます。その後、主を見失いますが、天の父なる神は、独り子イエスを救い主として遣わしてくださいました。

 

 主は、私たちそれぞれが抱えている事柄をご存じで、助けを与え、希望を与え、勝利を与えてくださるお方です。 

                         (久多良木和夫)

 

   1月21日()  新年聖会礼拝

     「その偉大な力によって」       エフェソ6章1018節 

 

 人生は旅であると同時に戦いでもあります。悪魔は、神から引き離すべく立ち向かってきます。その戦いに勝利するために、神の武具を身につけなさいと命じられています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(11節)

 

 第1は、真理の帯です(14節)。真理とは主イエスを指しています。

 

 第2は、正義の胸当てです(14節)。天の神さまは、すべてを公平に裁かれます。ひどいことを言ったり、ひどいことを言う敵に自ら復讐しようとせず、神に任せなさいと告げられています(ローマ12:19)

 

 第3は、平和の福音を告げる準備の履物です(15節)。どんなときにも主の救いの恵みを証し伝えることが大事です。

 

 第4は信仰の盾です(16節)。神を信じ、神にすべてをゆだねる信仰こそ大事です(ヘブライ11:6)

 

 第5は、救いの兜です(17節)。主イエスによって与えられた永遠の命を何よりも大事なものとして歩みましょう。

 

 第6は、神の言葉の剣です(17節)。真理からそらそうとする多くの声に惑わされず、聖書の御言葉に聞き従って行きましょう。

 

 第7は、祈りです(18節)。たゆまず祈りましょう(ローマ12:12)

 

 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(1節)神の偉大な力を受けつつ、歩み行きましょう。 

                          (久多良木和夫)

 

  1月28日()  聖日礼拝

     「味わい 見よ 主の恵み」         編34123節 

 

 賛美とは、褒め称えである。主への感謝と歌詞を通して、主を証していくので「主に賛美する」ではなく「主を賛美する」が本来であろう。

 

 詩編34編は、賛美することの意味が描かれている。「どのようなときも、わたしは主をたたえ わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(2節)とあるように、賛美は心が晴れやかな時だけではなく、辛い時などもする。ダビデ自身がこの詩を書いた時、サウル王に敵意を持たれ襲われているため、逃げている中書かれたものである。その中でも、ダビデが賛美することが出来たのは「苦難から常に救ってくださった。」お方が主であることを確信していたからである(718節等)。

 

 苦難とは、罪のこともあらわす。神様は、救いの神であり、贖いの神でもある(23節)。主を信じる者として、通るべきものは自分の持っている負、醜いもの罪を悔い改めることが必要である。その先に喜びがある(19節参照)。

 

 喜びをもって生き長生きする秘訣は、「主を畏れること」にある(1213節)。「主は何も欠けることがないお方」(詩編23:1)であるので、主に従うものは何も欠けることがない。

 

 主に従う者として生き続けることは、御言葉によって生かされること。御言葉を味わって、神様を見ていくことで神様からの恵みに気づかされる。

                            (後藤真英) 

 

 

 2月4日()  聖日礼拝

      「ただ神の霊によって」      ゼカリヤ書4章114節             

 

 預言者ゼカリヤは、預言者ハガイと同じ時代に活躍した人物です。  

             

 ユダヤの民は、南ユダの国がバビロンに滅ぼされ、多くの人が遠いバビロンに捕囚の民として連れて行かれました。大きな苦難の後、ペルシャの国がバビロニアを滅ぼし、キュロス王の命令で祖国に帰ることができました。 

 

 エルサレム神殿再建に取り組みましたが、大きな妨害等もあり、途中で中断しました。その時に神から遣わされたのがハガイとゼカリヤです。

 

 ゼカリヤが見た幻は、金の燭台と7つのともしび皿です。両脇の二本のオリーブの木から油がともしび皿に油が供給されていました(2、3、12節)。

 

 指導者として立てられた大祭司ヨシュアと総督ゼルバベル、そして民を神は奮い立たせてくださいました。中断した神殿再建は再開し、紀元前515年に完成に至りました。

 

 「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(6節)。これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる(新改訳)。武力とは、組織的な力を意味します。権力とは、個人の能力を意味します。組織的な力や個人の能力が何よりも大事だと私たちは考えます。でも、本当の力は、神からの霊である聖霊によって、与えられるものです。

                          (久多良木和夫)

 

 

 2月11日()  聖日礼拝

       「わたしの名は」          ルカ9章18-20節

  

 イエス様は、弟子たちに「わたしを何者であると言うのか?」と問いました。それに対し、ペトロが「神からのメシア」(20)と告白した。群衆たちが、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」などの答えがある中、そのような噂に流されることなく、ヘブル語で油注がれた者を意味するメシアであること、そして神であると信仰告白をした。

  

 主イエスは、何か大きなことが起こる前は必ず父なる神に祈っている。当箇所の初めでも、主イエスは人々に問われる前に、一人で祈られている。それは、信仰告白のためだけではなく、その後弟子たちに初めて明かすご自身の死と復活のことのためであっただろう。

  

 主イエスは、三度弟子たちにご自身の死と復活を述べている。それぞれその前後では主イエスの神顕現がなされている。①ペトロの信仰告白の後、②イエス様の姿が変わる場面の後、③エルサレム入城。そして、三回とも死と復活の内容に変化がある。 

  

 1回目では、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23)と語っている。弟子たちには、主に従う者として、わたし(イエス様)がメシア(キリスト)であるという信仰を持ち続けてほしいと思っていたのであろう。    

                            (後藤真英)

 

 

 2月18日()  聖日礼拝

        「十字架を背負って」     マタイ16章21-28節

 

主イエスは、十字架につくためにこの世に来てくださり、私たち一人一人の救いのために十字架にかかってくださいました。

 

 主は、その公生涯の終わりが近づいてきたとき、十字架の死と復活の予告をされました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められた。(21節)。

 

 そんなことがあってはなりませんといさめたペトロに対して、主は厳しい言葉で叱られました。ペトロは人間的な思いからそう言いました。その根底には、主イエスの十字架がなくても済みますという考えがあり、神の救いの計画を邪魔しようとしました。そのことを主は厳しく叱責されました。十字架なしでは、解決できない問題があるのです。それは、私たち人間の罪であり、神との断絶の問題です。

  

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24-25節)。自分の願い、思い、計画がうまくいけば、神なしでも良いと考える時、その行きつくところは永遠の滅びです。主の十字架の大いなる恵みを受け取って、神と共に歩むならば、主との幸いな交わりが与えられ、その行きつくところは永遠の命です。                    

                         (久多良木和夫)

 

     

 2月25日()  聖日礼拝

       「この最後の者にも」       マタイ20章1-16節

  

 主は、私たちを大きな愛しみと憐れみの愛によって救いに招かれています。

 

主イエスは、天の国についてのたとえ話をされました。ぶどう園の主人は働き人を求めて町に来ます。まず夜明けに雇われた人がいます。その後、午前9時、12時に、そして午後3時にも来て、雇って行きました。夕方の午後5時にも来て、雇われていない人に声を掛けました。彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。(7節)。もう雇われることもないとあきらめていたのに、雇われどんなに嬉しかったことでしょう。

 

賃金は、夕方の人から順番に支払われ、一番最後が夜明けに雇われた人でした。皆同じく1デナリオンの賃金でした。夜明けの人は抗議しました。それに対して、主人は「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と答えました。(14節)。

 

ぶどう園の主人とは、天の神さまのことです。支払われた1デナリオンとは、救いの恵みであり、永遠の命のことです。主は、招きに応じた人すべてに、永遠の命を与えてくださるお方です。

 

この世の選びは、その人の見栄え、能力等によってなされることが多いことです。でも、主なる神は、ただ一方的な愛によって招き救ってくださいます。

                       (久多良木和夫)

 

      

 3月4日()  聖日礼拝

         「ロバに乗った王」       マタイ福音書21章-11節

       

真の救い主であり、真の王としてこの世においでくださった主イエスは、最後、ロバに乗ってエルサレムの町に入って来られました。ご自身が神から遣わされた救い主であることを明らかにするためでした。

   

     主イエスは、ロバに乗ってエルサレムの町に入城されました。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9章9節)の預言の通りでした。

 

 主イエスは、馬ではなくロバに乗られました。ロバは平和のために用いられる動物です。主は、平和の主としておいでくださいました。人間の罪のためにこの世には争いがあります。その根本のところには、命の主、真の愛と祝福の神との断絶があります。その断絶を取り除き、神との平和を与えるために主は来てくださいました。  

  

もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」(3節)。主は、あなたが必要なのです。あなたを用いたいと願っておられます。 

 

群集は、歓喜して、「ホサナ」と叫びました。その中の多くは、5日後、「イエスを十字架につけよ」と叫びました。ホサナの本来の意味は、「今、救ってください」ということです。このホサナの原点を忘れないようにしましょう。

                        (久多良木和夫)

 

     

 3月11日()  聖日礼拝  

       「最後まで耐え忍ぶ者」     マタイ福音書24章-14節

 

主イエスは、エルサレム神殿の崩壊と終末のしるしの予告をされました。 

 

どんなに立派なものもいつか崩壊します。私たちは、見えるものに寄り頼みやすいすが、変わることのない主に寄り頼む者でありたいと思います。 

 

エルサレム神殿は、紀元70年にローマ軍によって、徹底的に破壊されました。福島第一原発事故は、人の英知ではなく、主の御前にへりくだることの大切さを示しています。  

 

主イエスは、この世界の終末のしるしを教えてくださいました。終末とは、人間が何でもできる、何をしてもかまわないというそのような事柄が終わり、神の完全な支配の前に、すべての者が神を仰ぎ、助けと憐れみを求める時です。

 

終末のしるしは、6つあります。

第1は、偽のメシア、預言者の出現です。ものみの塔、モルモン教、統一教会(世界平和統一家庭連合)、オーム真理教、幸福の科学等々です。

第2は戦争と戦争の噂です。アメリカ、ロシア、中国の三強の牽制し合い、北朝鮮問題等です。

第3は飢餓と地震です。世界で現在9億人の人たちが飢えで苦しんでいます。世界各地で起きている大地震等です。

第4は迫害です。パキスタン、インド、中国、中東の国々、アフリカの国々でクリスチャンに対する迫害が起きています。

第5は不法と愛が冷えることです。現代社会において、互いに無関心になり、助け合うことをしなくなっています。

第6は世界宣教です。現在、キリストにある救いの福音が全世界に宣べ伝えられています。

 

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(24節)。主のご支配、助けをいただきつつ、最後まで信仰の歩みを進んで行きましょう

                          (久多良木和夫)

 

     

 3月18日()  聖日礼拝

       「真っ白に輝くイエス」    ルカ福音書9章28-36節 

 

イエス様は、祈るために山に登られました。祈っている時「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(29節)。主の栄光に包まれた状態となったのです。そして、イエス様が栄光に包まれた中に律法授与者であるモーセと預言者の代表としてエリヤが現われました。彼ら3人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(31節)この「最期」とは、受難と十字架と復活の事です。そして、「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」(34節)と神の御声からイエス様は、神の子であり、メシアであることが神から語られました。そして,そこにいたのはイエス様のみでした。

 

 一方、弟子たちは、栄光に包まれている真っ白に輝いている3人であることは分かったが、話している内容までは理解できていませんでした。そこがモーセと弟子たちの違いです。しかし、弟子たちは、分からないながら、眠気の中でも、見落としまいと「じっとこらえながら」その栄光を見続けていた。

 

わたしたちも、霊的な事は素晴らしさは分かっても難しいことが多いです。その時でも、弟子たちのように見落としまいと主の栄光を見続けていくことに意味があります。そして、またモーセやエリヤのようにわたしたちが主の栄光に包まれて主を証していきましょう。

                          (後藤真英)

 

     

 3月25日()  聖日礼拝

       「ゲッセマネでの祈り」    マタイ福音書26章3646節 

                 

主イエスが十字架を前にして、最後の最後になしてくださったこと、それはゲッセマネの園での祈りでした。この祈りがなければ、主イエスの十字架刑もなかったでしょうし、救いの業も全うされなかったことでしょう。

 

主イエスは、最後の週の日曜日にはろばに乗ってエルサレムに入城し、木曜日には、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐がなされました。 

 

最後の晩餐の後、主イエスは3人の弟子を連れて、ゲッセマネの園に行き、祈られました。共に心を合わせて祈ることを要請された弟子たちでしたが、眠っていました。その弟子たちに、主は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と語られました(41節)。  

 

主イエスは、十字架刑がどれほどつらく苦しいことかをよく知っておられました。主の最初の祈りは、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」というものでした(39節)。しかし、主が行きついた祈りは、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」というものでした(42節)。私たちの救いのために、主は十字架の道を選び取ってくださいました。

                        (久多良木和夫師)

 

     

 4月1日()  聖日礼拝

       「前に進まれる復活の主」    マタイ福音書28章1-10節 

                 

 主イエスは、全世界の人々のために、その命を十字架で捧げてくださったお方で、その主は、死を打ち破って復活してくださった主です。

 

十字架から三日目の日曜日の早朝、マグダラのマリアともう一人のマリアに天使は告げました。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(7節)。その後、復活の主イエスが、二人に告げました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。

 

ガリラヤは4つの地を意味しています。

第1は、日常の歩みです。ガリラヤとは弟子たちの出身地です。日常生活の中で、復活の主は共に歩んでくださいます。

第2は、私たちが不安を覚える場所、ところです。初めて体験する出来事において、困難が予想される不安が襲ってきます。復活の主は先に行って待っていてくださいます。

第3は、死という大きな壁、関所です。人生の最後に待ち伏せている死という怪物であり、敵です。復活の主は、その死を滅ぼしてくださいます。「最後の敵として、死が滅ぼされます。」(コリント一15:26)。

第4は、天の御国です。主イエスは、十字架の死と復活を通して、天の御国に住まいを用意してくださいました(ヨハネ14:2-3)。自分自身が罪人であることを認め、主イエスを救い主として信じる者を天の御国に迎え入れてくださいます。          

                         (久多良木和夫)

 

 

 4月8日()  聖日礼拝

       「平和があるように」       ルカ福音書24章3649節 

                  

主イエスは、復活して弟子たちのもとに帰って来てくださいました。そこには2つの目的がありました。第1は弟子たちの恐れを取り除くため、第2は弟子たちを新たに遣わすためでした。

 

弟子たちは、多数派であり、権力と力を持っていたユダヤ教徒を恐れました。それと自分たちの裏切りに対する神の怒りを恐れていました。復活の主は「あなたがたに平和があるように」と言われました(36節)。それは恐れる必要はないことを意味し、赦しの宣言でした。

 

「復活の主は、弟子たちに罪の赦しと平安を与え、新たにして、新しい使命をお与えになりました。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(47-48節)。弟子たちは主の福音に生かされ、その恵みに与り、そのことの証人となる使命が与えられました。

 

復活の主イエスは、今生きる私たちにも、恐れを取り除き、新しい使命を与えてくださっています。  

                         (久多良木和夫)

 

 

 4月15日()  聖日礼拝

    「イエス・キリストの福音」 マルコ1章1節 イザヤ52章710節

 

マルコ1:1は、マルコによる福音書の概要が込められていると言ってもよい。

 

Ⅰ「神の子イエス」‐西暦は、主イエスの誕生から始まっている。主イエスは、2000年以上前にこの世界に人となり来られ、33年間歩まれた。福音書は、その中での公生涯と言われる3年間の働きを記している。マルコは、その中で特に、病の癒しなど神の業における奇跡など「神の子イエス」としての働きを強調している。マルコにだけ、主イエスの降誕の箇所がない。すぐに、洗礼者ヨハネになる。(2節~)その事からも、神の子イエスが見えてくる。

 

Ⅱ「イエスキリストの福音」‐福音書とは、著者の自叙伝ではない。「イエス・キリストの福音」である。そして、福音とは神からの良い便りである。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える足は」(イザヤ52:7)主イエスの生涯そのものが福音である。「イエス・キリストの福音」は別の言い方で言うと、十字架の道である。主イエスは、自分の命をささげ、この道がいかに美しいものであるかを伝えた。

 

Ⅲ「福音の初め」‐聖書に、「福音の初め」はあるが「福音の終わり」とはどこにもない。福音、主イエスの十字架は今もなお続いている。十字架とは、主イエスの死で終わりでないということである。復活の喜び、そして昇天を通し今もなお導いていることを示している。

 

イエスキリストの福音という、主が用意してくださった、素晴らしく美しい道を主イエスの後に続いて歩み続けて行こう。

                           (後藤真英)

 

 4月22日()  聖日礼拝

      「正しい礼拝」            マラキ書1章6-14節

   

正しい、正しくないは、人が判断することでなく、神が判断されます。礼拝は、毎聖日の礼拝だけを指しているのではなく、日々の神への礼拝、日々の歩みをも指しています。

   

「わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのかと万軍の主はあなたたちに言われる。」(6節)。民は、神への尊敬と畏れを忘れたことにより、神に喜ばれない捧げものをするようになりました。「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。」(8節)。

 

その一番の原因は、祭司であり、レビ人でした(2:1-9)。神に直接仕える者の責任は重大です。

  

     礼拝における献げものは、何でしょうか? 献金でしょうか、それも献げものの大事な要素ですが、それ以外に、神への感謝、讃美、祈り、神の御言葉を慕う心、それに従おうとする心と大事なものがあります。

 

アベルの献げものを神は喜ばれました。一方カインの献げものを神は喜ばれませんでした。アベルは自分にとって一番大切な肥えた初子の羊を捧げました。

                          (久多良木和夫)

 

 

 4月29日()  聖日礼拝  

       「義の太陽」           マラキ書3章1924節   

 

本当の愛は、時に厳しさを伴います。愛する者のために間違ったことに対しては、それを指摘し、やめるように諭します。

 

神への尊敬と畏れを失った民や祭司に対して、神は、預言者マラキを通して立ち帰れと呼びかけられました(3章7節)。 

 

神は私たちの心の内面をご覧になります。神は急に来られます(31節)。お客さんが急に来られて困ることがあります。それは準備していない時であり、家の中が片付けられていない時です。

 

 

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようにすぐに火で燃えてしまいます(19節)。逆らう者は灰になってしまいます(21節)。

 

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(20節)。義とは、ヘブライ語で「ツェダーカー」であり、全く正しいということであり、神のみがお持ちの性質です。そして、そこには救いという意味があります。

 

義の太陽とは、救い主である主イエスご自身を意味しています。神は、私たちの救いのために主イエスをお遣わしくださいました。主によって、罪の赦しが与えられ、確かな平安、失われない希望が与えられました。躍り出て飛び跳ねる喜びをいただくことができます。   

                         (久多良木和夫)

 

 

 5月6日()  聖日礼拝

      「弟子たちの祈り」          使徒言行1章1226節

   

 動物にできなくて人にできる特別なことの中に、お互いの間での会話、議論、そして創造主なる神へ心を向けて言葉を用いての祈りがあります。主に向かっての祈り、讃美は、議論よりもずっと大事なことです。 

 

議論は、頭の良い人、頭の回転の速い人が勝ちます。祈りは神の前に謙虚な人、神に向かって辛抱強く、熱心な人が勝利します。願わくば、議論ではなく、祈りによって勝利し、神の御業を拝する者でありたいと思います。

 

主イエスの昇天の後、弟子たちは不安と自分たちの力なさを覚えたことでしょう。弟子たちは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24章49節)という主イエスの約束を握って、エルサレムの一軒の家の二階の部屋に集まって一緒に祈りました。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(14節)。

  

先日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてユネスコの諮問機関が世界遺産にふさわしいと勧告をしました。キリスト教信仰が禁じられた禁教期に弾圧を受けながらもひそかに独自の形で信仰を続けた潜伏キリシタンの人たちがいたのでした。そこにはお互いの励まし合いと共に神への切なる祈りがあったことでしょう。

 

 私たちも祈りを合わせつつ進んで行きましょう。そしていろいろな事柄を乗り越える忍耐と希望をいただきましょう。  

                        (久多良木和夫)

 

 

 5月13日()  聖日礼拝

       「イエスの母マリア」        使徒言行1章614節 

 

主イエスが天に昇って行かれた後、ガリラヤの出身であった弟子たちが「戻る」ところは、ガリラヤではなくエルサレムでした。そして、主が十字架にかけられる前の日、最後の食事をされた場所、「泊まっていた家の上の部屋」に上がったのです。

  

14節に「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。弟子たちと、女性たち、主イエスの親族という集まりの中でマリアは主イエスの母親という特別な存在でした。

 

主イエスが十字架刑を受けられるのを見たマリアは、「剣で心を刺し貫かれ」ました。心は傷を受け、血を流しました。その母マリアが悲しみを乗り越えて、祈っているのです。そしてマリアもペンテコステの恵みを受けるのです。世界に教会が誕生する準備の時、マリアは自らをそこに置いています。息子イエスを裏切った弟子たちと心を合わせて真剣に祈り、主なる神様の約束を待ち望みました。主イエスのことを伝えていく重要な一人としてこれから生きようとしています。マリアは弟子たちから離れていくことはしませんでした。彼らと一緒にひたすら祈りました。

  

「イエスの母マリア」の祈りに学びましょう。神様と1対1で祈る祈りと共に、祈りの集団の一人として祈るのです。

  

ホーリネス誌5月号に記されています。佐藤雅文『祈りの生涯』より、-「祈祷」は祈祷であるとともに「祈闘」である。悪魔との白兵戦である。彼の退くまで頑張りとおす攻撃戦闘である。  

                        (久多良木志津子)

 

 

 5月20日()  ペンテコステ礼拝

       「聖霊の注ぎ」             使徒言行2章1-13節  

  

天の神さまは、三位一体の神です。創造主である父なる神、救い主である子なる神、そして聖霊なる神の三つの位格をお持ちです。生ける力ある祝福の神です。

  

主イエスは、十字架の死より三日目に復活し、弟子たちと共に40日間共に歩んでくださいました。召天より10日後、聖霊が弟子たちの上に降りました。

 

弟子たちは、変わりました。お金持ちになったとか立派な身なりになったということではありません。確信を持って主イエスの弟子として大胆に恐れなく歩むようになったのです。この聖霊降臨の出来事は、ヨエル書3章の預言が成就した出来事でした。

 

 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(2章32-33節)

 

   聖霊降臨、それは神が与えてくださった大いなる恵みです。聖霊なる神は、以下の通り6つの大いなる恵みの主です。

①神の子どもとしての命、身分を与えてくださる方(ローマ8章16節)

②御国の命の保証を与えてくださる方(エフェソ1章14節)

③御言葉を理解し受け取る恵みを与えてくださる方(ヨハネ14章17節)

④執り成し祈ってくださる方(ローマ8章26節)

⑤助けてくださる方(ヨハネ16章7、13節)。弁護者、助け主なる方です。  

 人生においては、山があり谷があります。順風の時があり、逆風の時があり

 ます。その中で、希望を失わず生きるようにしてくださいます。

⑥力の与え主です(使徒1章8節)。それは主の弟子としての力であり、主を証しする力です。         

                        (久多良木和夫)

 

     

 5月27日()  聖日礼拝

    「イエス・キリストの名によって」    使徒言行録3章110節      

 

主なる神によって私たちに与えられているものは、主イエスによる救い、永遠の命、そして聖霊なる神の内住、そしてイエス・キリストの名です。

 

 生まれつき立ち上がることも歩くこともできずにいた一人の男性がいました。彼は大きくなり物乞いをして生計を立てていました。毎日、エルサレム神殿の美しい門と呼ばれるところに運んで来てもらっていました。彼は癒しを必要としていました。私たちもそれぞれ癒しを必要をしている存在です。

 

 彼の人生はある日を境に変わりました。ペトロとヨハネに出会ったのでした。ペトロは彼に言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6節)。その時、彼は自分で立ち上がり歩けるようになりました。

 

  主イエスは、弟子たちに主イエスの名でお祈りすることの大きな恵みについて告げられました(ヨハネ14:13、15:16,16:23-24)。

 

ペトロたちは、聖霊なる神に強めていただき、信仰をもって主イエスの名を用いました。そのとき大きな御業がなされました。

 

 イエス・キリストの名を用いて祈ること、宣言することを聖霊なる神の助けの中でなさせていただきましょう。      

                       (久多良木和夫)

 

 

 6月3日()  聖日礼拝

     「荒れ野で叫ぶ声」          ルカ福音書3章1-14節        

 

今の世界は、真実の執り成しの叫び、訴えを必要としています。

  

洗礼者ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」(8)。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫びました(マタイ3:2)。時代は、ローマの支配下にあり、政治は腐敗していました。人々の歩みも投げやりになっていました。

 

 ヨハネは、父はザカリヤ、母はエリサべトでした。彼は、生まれた時から、救い主イエスの道備えをする者と定められていました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(ルカ1章76-77節)。彼は大きくなり荒れ野に向かいました。律法を守ることに厳格でメシアを待望していたエッセネ派に属していたのではないかと言われています。

 

どうしたら良いかとの問いに、ヨハネは具体的に答えます(10-14節)

 

罪の赦しによる救いとは、主イエスによる罪の赦しをいただくことであり、真の祝福を与えて下さる神の愛に生かされて生きることです。その恵みに感謝して生き、主の助けと導きを得て歩むことです。むなしいものにくっついたまま歩まないことです。

 

ヨハネは、救い主であるイエス様の道備えとしての働きをなしました。

                           (久多良木和夫)

 

 

 6月10日() 聖日礼拝

     「主イエスの洗礼」        ルカ福音書3章15-22節      

  

 大切なことは、言葉で語るより歩みを通して語る方が後に残ります。父なる神、救い主なるイエス、聖霊なる神の三位一体の神は、この世界の歴史の中で降誕、十字架、復活、聖霊降臨の出来事を通して救いの御業をなしてくださいました。

 

 洗礼者ヨハネは、悔い改めの水の洗礼を授けました。人々にそのままでは滅ぶことを伝え悔い改めを迫りました。その警告には大きな意味がありました。しかし、限界課題がありました。悔い改めた歩みを継続すること、どんなときにも希望を失わずに歩み続けることはとても難しいことです。

 

 ヨハネは、聖霊と火で洗礼を授ける主イエスを紹介しました(16節)

 

その主イエスは、洗礼者ヨハネより水の洗礼を受けられました。罪の全くない方が私たちのために洗礼を受けられたのです。

 

 「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ2章18節)。私たちの受ける試練を深く理解し助けるためです。

 

 「主イエスの洗礼の時に、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(21-22節)。父なる神、救い主なる主イエス、聖霊なる神がその時、在され、働かれました。   

                         (久多良木和夫)

 

 

 6月17日(日) 聖日礼拝

    「荒れ野で誘惑を受けられた主」   ルカ福音書4章1-13節       

 

主イエスは公生涯の働きに入られる前に試験を受けられました。それは悪魔からの試み、誘惑でした。その試験をパスすることはご自身のためではなく、私たちのためでした。

 

あなたは、どのような試み、誘惑を受けることが多いでしょうか?、

 

 主イエスは、40日間、荒れ野で過ごされ悪魔から3つの誘惑を受けました。

 

 第一は、石をパンに変えて空腹を満たしたら良いのではという誘惑です。イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった(4節)

 

 申命記8章3節の御言葉を引用して悪魔の誘惑を退けました。生きる上で物質的なものすなわち食べ物、お金は確かに大切です。しかしそれがあれば、生きる希望を持ち続けることができるかといえば否です。神を信じ、その御言葉で生かされる必要があります。

 

 第二は、すべての権力と繁栄を与えるから、自分を拝めという誘惑に対して、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と申命記6章13節のみ言葉を引用して。斥けられました (8節)。人間は、莫大な富、大きな権力を手に入れようと願い、してはいけない恐ろしいことに手を伸ばすことがあるのです。

 

 第三は、神を自分の都合で僕(しもべ)のように扱っても良いのではという誘惑に対して、主イエスは、『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』と申命記6章16節を引用して答え、その誘惑を斥けられました。

 

 主イエスは、荒れ野での誘惑に勝利して、公生涯の働きにつき、十字架への道をなお進み出されました。                                         

                         (久多良木和夫)

 

 

 6月24日(日)  聖日礼拝

     「迫害で散って行った人々」     使徒言行録8章1-8節     

 

聖霊降臨の恵みの中で、主イエスの弟子たちは力強く証しをなし、主イエスを信じ仲間に加わる者も多くなりました。しかし、信仰と聖霊に満ちていたステファノが殉教の死を遂げました。そして、エルサレム教会への大迫害が起こり、多くの弟子たちが散らされて行きました。

  

 ホーリネスの教会は、今から76年前の1942年から翌年にかけ、国から宗教弾圧を受け、それは1945年まで続きました。また1943年には、教会解散命令が出され、大打撃を受けました。その大きな原因は、ホーリネス教会が伝道熱心であったことと共に再臨信仰を高く掲げていたことにありました。戦争一色の国家にとって都合が悪かったのです。戦後2年目の1946年、ホーリネスの群は新しく結成されました。

  

 エルサレム教会への大迫害で散って行ったキリスト者たちは、散って行った各地で、伝道しました。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(4節)。困難を経験しましたが、主は共にいてくださいました。

                         (久多良木和夫)