2018年2月

 

 2月25日()  聖日礼拝

 

      「この最後の者にも」       マタイ20:1-16

 

 

 主は、私たちを大きな愛しみと憐れみの愛によって救いに招かれています。

 

 

主イエスは、天の国についてのたとえ話をされました。ぶどう園の主人は働き人を求めて町に来ます。まず夜明けに雇われた人がいます。その後、午前9時、12時に、そして午後3時にも来て、雇って行きました。夕方の午後5時にも来て、雇われていない人に声を掛けました。彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。(7節)。もう雇われることもないとあきらめていたのに、雇われどんなに嬉しかったことでしょう。

 

賃金は、夕方の人から順番に支払われ、一番最後が夜明けに雇われた人でした。皆同じく1デナリオンの賃金でした。夜明けの人は抗議しました。それに対して、主人は「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と答えました。(14節)。

 

 

ぶどう園の主人とは、天の神さまのことです。支払われた1デナリオンとは、救いの恵みであり、永遠の命のことです。主は、招きに応じた人すべてに、永遠の命を与えてくださるお方です。

 

 

この世の選びは、その人の見栄え、能力等によってなされることが多いことです。でも、主なる神は、ただ一方的な愛によって招き救ってくださいます。

                       (久多良木和夫)

 

                          

 

  2月18日()  聖日礼拝

 

       「十字架を背負って」     マタイ16:21-28

 

主イエスは、十字架につくためにこの世に来てくださり、私たち一人一人の救いのために十字架にかかってくださいました。

 

 

 主は、その公生涯の終わりが近づいてきたとき、十字架の死と復活の予告をされました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められた。(21節)。

 

 そんなことがあってはなりませんといさめたペトロに対して、主は厳しい言葉で叱られました。ペトロは人間的な思いからそう言いました。その根底には、主イエスの十字架がなくても済みますという考えがあり、神の救いの計画を邪魔しようとしました。そのことを主は厳しく叱責されました。十字架なしでは、解決できない問題があるのです。それは、私たち人間の罪であり、神との断絶の問題です。

 

 

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24-25節)。自分の願い、思い、計画がうまくいけば、神なしでも良いと考える時、その行きつくところは永遠の滅びです。主の十字架の大いなる恵みを受け取って、神と共に歩むならば、主との幸いな交わりが与えられ、その行きつくところは永遠の命です。                    

                         (久多良木和夫)

 

 

 

 2月11日()  聖日礼拝

 

      「わたしの名は」         ルカ9:18-20

 

 

 イエス様は、弟子たちに「わたしを何者であると言うのか?」と問いました。それに対し、ペトロが「神からのメシア」(20)と告白した。群衆たちが、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」などの答えがある中、そのような噂に流されることなく、ヘブル語で油注がれた者を意味するメシアであること、そして神であると信仰告白をした。

 

 

 主イエスは、何か大きなことが起こる前は必ず父なる神に祈っている。当箇所の初めでも、主イエスは人々に問われる前に、一人で祈られている。それは、信仰告白のためだけではなく、その後弟子たちに初めて明かすご自身の死と復活のことのためであっただろう。

 

 

 主イエスは、三度弟子たちにご自身の死と復活を述べている。それぞれその前後では主イエスの神顕現がなされている。①ペトロの信仰告白の後、②イエス様の姿が変わる場面の後、③エルサレム入城。そして、三回とも死と復活の内容に変化がある。 

 

 

 1回目では、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23)と語っている。弟子たちには、主に従う者として、わたし(イエス様)がメシア(キリスト)であるという信仰を持ち続けてほしいと思っていたのであろう。    

                            (後藤真英)

 

     2月4日()  聖日礼拝

      「ただ神の霊によって」      ゼカリヤ書4114             

 

 預言者ゼカリヤは、預言者ハガイと同じ時代に活躍した人物です。  

             

 ユダヤの民は、南ユダの国がバビロンに滅ぼされ、多くの人が遠いバビロンに捕囚の民として連れて行かれました。大きな苦難の後、ペルシャの国がバビロニアを滅ぼし、キュロス王の命令で祖国に帰ることができました。 

 

 エルサレム神殿再建に取り組みましたが、大きな妨害等もあり、途中で中断しました。その時に神から遣わされたのがハガイとゼカリヤです。

 

 ゼカリヤが見た幻は、金の燭台と7つのともしび皿です。両脇の二本のオリーブの木から油がともしび皿に油が供給されていました(2、3、12節)。

 

 指導者として立てられた大祭司ヨシュアと総督ゼルバベル、そして民を神は奮い立たせてくださいました。中断した神殿再建は再開し、紀元前515年に完成に至りました。

 

 「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(6節)。これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる(新改訳)。武力とは、組織的な力を意味します。権力とは、個人の能力を意味します。組織的な力や個人の能力が何よりも大事だと私たちは考えます。でも、本当の力は、神からの霊である聖霊によって、与えられるものです。

                          (久多良木和夫)