2018年 4月

 

  4月29日()  聖日礼拝

 

      「義の太陽」          マラキ書3章1924節 

  

 

本当の愛は、時に厳しさを伴います。愛する者のために間違ったことに対しては、それを指摘し、やめるように諭します。

 

 

神への尊敬と畏れを失った民や祭司に対して、神は、預言者マラキを通して立ち帰れと呼びかけられました(3章7節)。

 

 

神は私たちの心の内面をご覧になります。神は急に来られます(31節)。お客さんが急に来られて困ることがあります。それは準備していない時であり、家の中が片付けられていない時です。

 

 

高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようにすぐに火で燃えてしまいます(19節)。逆らう者は灰になってしまいます(21節)。

 

 

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(20節)。義とは、ヘブライ語で「ツェダーカー」であり、全く正しいということであり、神のみがお持ちの性質です。そして、そこには救いという意味があります。

 

 

義の太陽とは、救い主である主イエスご自身を意味しています。神は、私たちの救いのために主イエスをお遣わしくださいました。主によって、罪の赦しが与えられ、確かな平安、失われない希望が与えられました。躍り出て飛び跳ねる喜びをいただくことができます。   

                         (久多良木和夫)

 

 

 

  4月22日()  聖日礼拝

 

      「正しい礼拝」            マラキ書1章6-14節

 

 

正しい、正しくないは、人が判断することでなく、神が判断されます。礼拝は、毎聖日の礼拝だけを指しているのではなく、日々の神への礼拝、日々の歩みをも指しています。

 

 

 

「わたしが父であるならわたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるならわたしに対する畏れはどこにあるのかと万軍の主はあなたたちに言われる。」(6節)。民は、神への尊敬と畏れを忘れたことにより、神に喜ばれない捧げものをするようになりました。「あなたたちが目のつぶれた動物をいけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても悪ではないのか。」(8節)。

 

その一番の原因は、祭司であり、レビ人でした(2:1-9)。神に直接仕える者の責任は重大です。

 

 

 

礼拝における献げものは、何でしょうか? 献金でしょうか、それも献げものの大事な要素ですが、それ以外に、神への感謝、讃美、祈り、神の御言葉を慕う心、それに従おうとする心と大事なものがあります。

 

 

アベルの献げものを神は喜ばれました。一方カインの献げものを神は喜ばれませんでした。アベルは自分にとって一番大切な肥えた初子の羊を捧げました。

 

                          (久多良木和夫)

 

 

  4月15日()  聖日礼拝

    「イエス・キリストの福音」 マルコ1章1節 イザヤ52章710節

 

マルコ1:1は、マルコによる福音書の概要が込められていると言ってもよい。

 

Ⅰ「神の子イエス」‐西暦は、主イエスの誕生から始まっている。主イエスは、2000年以上前にこの世界に人となり来られ、33年間歩まれた。福音書は、その中での公生涯と言われる3年間の働きを記している。マルコは、その中で特に、病の癒しなど神の業における奇跡など「神の子イエス」としての働きを強調している。マルコにだけ、主イエスの降誕の箇所がない。すぐに、洗礼者ヨハネになる。(2節~)その事からも、神の子イエスが見えてくる。

 

Ⅱ「イエスキリストの福音」‐福音書とは、著者の自叙伝ではない。「イエス・キリストの福音」である。そして、福音とは神からの良い便りである。「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える足は」(イザヤ52:7)主イエスの生涯そのものが福音である。「イエス・キリストの福音」は別の言い方で言うと、十字架の道である。主イエスは、自分の命をささげ、この道がいかに美しいものであるかを伝えた。

 

Ⅲ「福音の初め」‐聖書に、「福音の初め」はあるが「福音の終わり」とはどこにもない。福音、主イエスの十字架は今もなお続いている。十字架とは、主イエスの死で終わりでないということである。復活の喜び、そして昇天を通し今もなお導いていることを示している。

 

イエスキリストの福音という、主が用意してくださった、素晴らしく美しい道を主イエスの後に続いて歩み続けて行こう。

                           (後藤真英)

 

 

  4月8日()  聖日礼拝

       「平和があるように」       ルカ福音書24章3649節 

                  

主イエスは、復活して弟子たちのもとに帰って来てくださいました。そこには2つの目的がありました。第1は弟子たちの恐れを取り除くため、第2は弟子たちを新たに遣わすためでした。

 

弟子たちは、多数派であり、権力と力を持っていたユダヤ教徒を恐れました。それと自分たちの裏切りに対する神の怒りを恐れていました。復活の主は「あなたがたに平和があるように」と言われました(36節)。それは恐れる必要はないことを意味し、赦しの宣言でした。

 

「復活の主は、弟子たちに罪の赦しと平安を与え、新たにして、新しい使命をお与えになりました。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(47-48節)。弟子たちは主の福音に生かされ、その恵みに与り、そのことの証人となる使命が与えられました。

 

復活の主イエスは、今生きる私たちにも、恐れを取り除き、新しい使命を与えてくださっています。  

                         (久多良木和夫)

 

 

   4月1日()  聖日礼拝

       「前に進まれる復活の主」      マタイ28章1-10 

                 

 主イエスは、全世界の人々のために、その命を十字架で捧げてくださったお方で、その主は、死を打ち破って復活してくださった主です。

 

十字架から三日目の日曜日の早朝、マグダラのマリアともう一人のマリアに天使は告げました。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』(7節)。その後、復活の主イエスが、二人に告げました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。

 

ガリラヤは4つの地を意味しています。

第1は、日常の歩みです。ガリラヤとは弟子たちの出身地です。日常生活の中で、復活の主は共に歩んでくださいます。

第2は、私たちが不安を覚える場所、ところです。初めて体験する出来事において、困難が予想される不安が襲ってきます。復活の主は先に行って待っていてくださいます。

第3は、死という大きな壁、関所です。人生の最後に待ち伏せている死という怪物であり、敵です。復活の主は、その死を滅ぼしてくださいます。「最後の敵として、死が滅ぼされます。」(コリント一15:26)。

第4は、天の御国です。主イエスは、十字架の死と復活を通して、天の御国に住まいを用意してくださいました(ヨハネ14:2-3)。自分自身が罪人であることを認め、主イエスを救い主として信じる者を天の御国に迎え入れてくださいます。          

                         (久多良木和夫)