2018年 7月-

  7月1日(日)  聖日礼拝

    「迫害で散って行った人々」     使徒言行録8章1-8節     

 

聖霊降臨の恵みの中で、主イエスの弟子たちは力強く証しをなし、主イエスを信じ仲間に加わる者も多くなりました。しかし、信仰と聖霊に満ちていたステファノが殉教の死を遂げました。そして、エルサレム教会への大迫害が起こり、多くの弟子たちが散らされて行きました。

 

ホーリネスの教会は、今から76年前の1942年から翌年にかけ、国から宗教教弾圧を受け、それは1945年まで続きました。また1943年には、教会解散命令が出され、大打撃を受けました。その大きな原因は、ホーリネス教会が伝道熱心であったことと共に再臨信仰を高く掲げていたことにありました。戦争一色の国家にとって都合が悪かったのです。戦後2年目の1946年、ホーリネスの群は新しく結成されました。

 

エルサレム教会への大迫害で散って行ったキリスト者たちは、散って行った各地で、伝道しました。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(4節)。困難を経験しましたが、主は共にいてくださいました。

                        (久多良木和夫)

                                   

 

 7月8日(日)  地区講壇交換礼拝

      「『殺すな』の正しい理解」   マタイ福音書5章2122節     

  

私たちは自分は、殺人を犯すような悪い者でないと考えます。しかし、聖書はこう告げています。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(22節)。兄弟を憎む者は人殺しだという神様の宣言です。人間は結果だけを見て判断しますが、神様は心の動機を見て判断されます。  

 

人は神のかたちに似せて造られた。神は、神のかたちを持っている人間を一番愛してくださっています。だから、人を殺すなと戒めておられます。

 

神さまは、私たちの救いのために独り子であるイエス様を犠牲にされました。その赦しの愛を信じれば、誰でも滅びることなく永遠の命を得るようにしてくださいました。サタンの奴隷から神をアバ父よと呼ぶ神の子どもにしてくださいました。

 

怒りの反対は愛、柔和と言えます。最後の勝利者は怒る者ではなく、あくまでも優しく、そして親切な者です。しかし、それは不可能なことではないか、今までどれだけ相手を傷つける言葉を発したのか、どれだけ怒って来たことか。

 

 聖書の中に、激しく怒る人だったのに変えられた人物が記されています、それが大きな励ましです。モーセは、40歳の時 激しく怒り人を殺してしまいました。40年の訓練の後、柔和で謙遜の人に変えられました。民と喧嘩することなく、神に祈り勝利しました。ペトロしかり、パウロしかりです。

 

ファリサイ人のような傲慢な心、霊的な無知を認め、悲しみつつ真剣に悔い改め、イエス様の愛を真剣に見上げるならば、聖霊によって生まれ変わることができます。

                (在日大韓基督折尾教会牧師千 奉祚師) 

    

 

 7月15日(日)  聖日礼拝

     「権威と力の主」           ルカ福音書4章31-44節    

 

 私たちはいろいろな支配またいろいろな影響の下に生きています。願わくば、良き支配、良き影響の下に、助けをいただき希望をもって歩みたいものです。

 

 主イエスは権威と力の主であることを確認したいと思います。

 

 主イエスは、第1には汚れた霊を追い出す権威と力をお持ちでした。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」(36節)。「イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。」(41節)。汚れた霊、悪霊は人の命令では出て行きません。しかし、主イエスの命令の下では出て行きます。現在も悪霊は、様々なものをもって人を束縛し苦しめます。主は、今も、悪霊、サタンによって苦しめられている者に対して悪霊、サタンを外に追い出してくださるお方です。

  

 主イエスは、第2に病で苦しむ者を癒す権威と力をお持ちです。「シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」(38-39節)。「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」(40節)。

 

 主イエスは、第3に愛と憐れみの主であり、私たちの救いのためにこの世においでくださった方であり、十字架にかかってくださった方です。死を打ち破り復活されたお方です。主は、私たちのために最善の助けを与え、最善の道を備え開いてくださる主です。

                          (久多良木和夫)

                       

       

 7月22日(日)  聖日礼拝 

     「固い決意をもって」        使徒言行録1119-26節

 

 ユダヤではステファノ事件後、迫害のために散らされた人々は、同じユダヤ人以外に主の御言葉を語らなかった。そんな中、キプロス島のキレネの人が、アンティオケアで、ギリシア語を話す人々に、主の御言葉を宣べ伝えた。そこに「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」(21)

 

 この事はエルサレムにも伝わり、バルナバをアンティオケアへ遣わした。バルナバは、まず、アンティオケアに到着して、主に立ち帰った者の数などの主の恵みを見て、喜びんだ。そして、彼らに「固い決意をもって主から離れないように」と語った。固い決意をもってとは、主の言葉と救いの恵みをいつも握っていく事である。

 

 ホーリネス信仰は招きを大切にする信仰である。招きとは、その時決意してその時だけ神の前に出るだけで、終わるのではなく。その思いをいつも持ち続けることが大切である。その事をバルナバは語り、彼らに自分の信仰の姿で証をしていった。「バルナバは立派な人物で聖霊と信仰に満ちていた」(24節)「聖霊に満たされる」とは、主イエスの十字架と復活が神の自分たちへの愛であることを理解できる唯一の真理の道である。バルナバも自分で知ることはできなかった。十字架と復活の信仰を持てるように神に仕えていたからである。

 

 バルナバと回心したサウロという二人の宣教者の姿を通し、アンティオケアの人々は「キリスト者と呼ばれる」ようになるほど主の教えを聞き続けていた。私たちも、信じて洗礼を受けて、それで終わりとせず、持ち続けられるように、いつも聖霊を求め続ける固い決意の信仰をもって行きましょう。                              

                           (後藤真英)

     

 

  7月29日()  聖日礼拝 

        「人間をとる漁師に」      ルカ福音書5章1-11節

  

 自分から道を選んで進む道も素晴らしいことですが、招かれてそれに応じて進む道も 素晴らしいものです。

  

 ペトロは、ガリラヤ湖の漁師でした。そのペトロが主イエスに招かれて、弟子となりました。主イエスがペトロを12弟子の一人にされたことは不思議です。

  

 ある日、主イエスはペトロに舟を少し漕ぎ出すように頼み、その舟の上から群衆に教えられました。その後、沖に漕ぎ出して網を降ろし漁をするように命じました。その命令に従って網を降ろしたところ、たくさんの魚が獲れました。夜通し漁をして一匹も獲れなかったペトロは驚きました。この方はどなただろう、神のもとから来られた方に違いないと思い、自分の罪深さを示されました(8節)

 

 イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(10-11節)

 

  ペトロは、自分を招かれた主イエスのお言葉に従って主イエスの弟子となりました。その生涯には失敗も多くありましたが、主の愛と憐れみによって、その働きを最後まで全うしました。                                            

                        (久多良木和夫)

 

 

 8月5日(日)  聖日礼拝 

         「罪を赦す権威」     ルカ福音書5章12-26節 

 

 主イエスは、重い皮膚病の人と中風の人を癒されました。主の特別なる御手が置かれ、病が癒されたのです。

  

 私たちが一番苦しむことの一つは病ではないでしょうか。主の助けを願い求めて、癒しの恵みをいただきましょう。

  

 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。」(24節)。罪を赦す権威は、この地上においては誰にも与えられていません。主イエスのみがお持ちです。

 

  病の癒しをなされる主は、神と私たちの関係が断絶している事柄、すなわち罪という最も大きな問題を解決するために来てくださいました。私たちが自分では払いきれない罪の代価をすべて支払うために主は、十字架の上でその命を献げてくださいました。

  

 主イエスを信じ、その一番大切な罪の赦しをいただきましょう。既にいただいている一人一人は、この罪の赦しを何よりも大いなる恵みであると感謝しつつ、歩んで行きましょう。     

                         (久多良木和夫)

 

 

  8月12日(日)  聖日礼拝 

      「復活、命である主イエス」   ヨハネ福音書111727節

 

 私たちそれぞれ、この地上に生まれ出て、ただ一つの命を与えられています。その命の長さは、異なります。長寿を全うする方もいますし、人生の半ばで終えることもあります。人は死んだらどうなるのか、どこに行くのか。

 

 主なる神は、どのような方でしょうか。第1には、永遠を支配しておられるお方です。第2に愛と憐れみのお方です。第3に解決のお方です。私たちそれぞれの罪の代価をあの十字架においてすべて支払ってくださいました。第4に勝利のお方です。死を打ち破ってくださいました。

 

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25‐26節)。マルタとマリアの弟のラザロの死に際し、主イエスがマルタに語られたお言葉です。

その後、主イエスは死後4日経ったラザロを生き返らせる奇跡を行われました。

 

 先に天に召された信仰者は、この地上に住む家族に対して、この天の神の恵みのご支配をいただくよう願い、主イエスのもとで、執り成し祈っていることでしょう。

 

 永遠の主、愛と憐れみの主、解決の主、勝利の主によって、復活の命の主のご支配の恵みに与るよう招かれています。                                                         

                        (久多良木和夫)

 

 

 8月19日() 聖日礼拝

        「宣教するために来た」       マルコ1:35-39

  

主イエスは、「朝早くまだ暗いうちに、・・・祈っておられた。」(35)ただ祈っていたわけではない、「人里離れた所へ出て行かれた」(同節)主イエスは「寂しいところ」(口語訳)にわざわざ出向いて、祈りに向われたのである。それは、他の音が入らないようにして、神様との一対一の対話、神様の御心のみを聴くためである。

 

さて、その後をシモンたちが後を追い捜しました。そして、捜し出すと『みんなが捜しています』(37)と言いました。群衆や弟子たちの福音の無理解につながる。人間の限界性である。彼らが捜している理由は、主イエスに病や悪霊から癒していただきたいからである。勿論、主イエスは癒しの御業をなされる。しかし、そこが目的ではない。弟子を含め人々は癒しの奇跡で止まってしまった。

 

 主イエスはご自身の口で宣教するために来たと語られた(38)。宣教とは、神の国の福音である。病の癒しや悪霊の追い出しは、神の国の宣教の御業としての手段の一つである。その事を明らかにされた。そしてそれを、大きな都市だけではなく小さな町や村へも語っていくと宣言された。これが主イエスの使命であった。これは福音が一部の人々だけでなく、すべての人々に与えられている事に繋がってくる。私たちも、主イエスの後を追いつつ、福音を宣教する者として歩もう。 

                            (後藤真英)

 

 

 8月26日() 聖日礼拝

        「罪人を招かれる主」        ルカ福音書5章2732節

  

主イエスとの出会いはレビという徴税人にとってはサプライズでした。思ってもみなかった感激のプレゼントを受け取りました。彼の名前はマタイでした(マタイ9:9)。

  

彼は、同胞を裏切り、ユダヤを支配していたローマの国の手下になりました。決められていた徴収額以上のものを徴収し、私腹を肥やしていました。彼は汚れた者、罪びとと呼ばれ、町の人から嫌われ、友達はとても少なくなり、寂しさを覚えていたことでしょう。誰も彼を食事に誘ってくれません。

 

そんなマタイに主イエスは声をかけられました。イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた(27節)。彼は立ち上がって主イエスに従い、12弟子の一人になりました。

 

彼の家で、主イエスは招かれ共に食事をしました。このことを咎めるファリサイ派の人々に対して、主イエスは語られました。イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31‐32節)。

 

正しい人ではなく、罪人を招くために主イエスは来て下さいました。

                         (久多良木和夫)

 

 

 9月2日() 聖日礼拝

        「新しいぶどう酒」        ルカ福音書5章3339節

 

 人々、おそらくファリサイ派の人々、律法学者は、弟子たちがバプテスマのヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々のように、断食や祈りをしていないと非難しました。

 

それに対して、主イエスは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。」(34節)と答えました。弟子たちは、救い主である主イエスが来てくださったことを心から喜び、結婚式の婚礼のように花婿なる主イエスを祝って過ごしていました。

 

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。主イエスは、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」と語られました(37‐38節)

 

新しいぶどう酒は発酵が進む中で、ぶどうの糖分がアルコールと炭酸ガスに変わります。そのガスの力は大きなものです。古い革袋ではなく新しい革袋が必要です。 

 

主イエスは、今までの古い命ではなく、新しい命なる方です。この方を古い観念や考え方ではなく、やわらかい心で受け入れることが大切です。

                        (久多良木和夫)

 

 

 9月9日() 聖日礼拝

        「安息日の主」            ルカ福音書6章1-11節

 

  私たちの心は、その時の状況や他の人の態度によって、その人に対して優しくなったり、厳しくなったりすることがあります。しかし、神の私たちに対する心は変わりません。私たちが愛と祝福の神につながって永遠の命を持って生きるように願い、導かれる愛です。

 

 律法学者やファリサイ派の人々は、弟子たちが週の七日目の安息日に麦畑の穂を摘んで食べたことに対して、安息日規定を破ったと非難しました。主イエスは、それに対して、かつて、祭司アヒメレクは空腹のダビデたちに祭司以外に与えてはいけない供え物のパンをあげたことを語りました。

 

 主イエスは、安息日に手の萎えた人を癒されました。それにも律法学者やファリサイ派の人々は、非難の目を向けました。

 

 安息日の戒めは、出エジプト20章8-11に記されています。そこには、神が、天地万物を創造され7日目に休まれたことを根拠として記されています。今一箇所は、申命記5章12-15節に記されています。そこには、出エジプトにおいて神の大きな助けをいただいたことを根拠として記されています。

 

 「人の子は安息日の主である」(9節)。安息日に、すべての良いものを与えてくださっている主、大きな愛と憐れみをかけてくださっている主を覚えましょう。

                         (久多良木和夫)

   

 

 9月16日() 聖日礼拝

         「喜び、祈り、感謝」   テサロニケ一5章16-18節      

 

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(1618)。 

 

 喜ぶこと、祈ること、感謝すること、この3つのことは案外と忘れていたり疎かになっているのではないでしょうか。この3つのことは、神の愛、神の恵みがあって与えられ導かれるものです。

 

 モーセは、120歳で生涯を終えましたが、最後まで目はかすまず、活力は失せませんでした(申命記34:7)。カレブは、85歳の時に、40歳の時と同じように健やかでした。何よりも主に寄り頼む信仰を持っていました(ヨシュア記14:11-12)。

 

 「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう(詩編23:6)。 主は一番良いことをなしてくださいます。主の愛は真実で変わることがありません。主の家とは、この地上においては、教会であり、主への礼拝であり、神の家族の交わりです。また、この地上の命が終わった後における天の御国を意味しています。

 

 喜び、祈り、感謝が、主の愛、主の恵みによって、日々の歩みの中で、そして生涯の歩みの中で満ちますように。    

                                           (久多良木和夫)

 

 

  9月23日() 秋の特別歓迎礼拝

        「幸いな人になる」          詩編32:1-11

 

  聖書は時代が変わっても本質的に変わらない幸せとは何かについて語ります。

 

 「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(1-2節)

 

  聖書が言う幸いとは、神に祝福された人という意味です。本当の幸せは、あなたの外面、あなたの持っているものにあるのではない。あなたの内面、心にある。それを問いかけてくるのが聖書です。

 

 罪は、私たちの外にあるのではなく、真ん中にあります。私たちの在りようです。

  

 聖書は、罪、咎をなくしてしまいなさい、なくせるとは言っていない。背きはあるけれども赦されている。罪はあるけども覆われている。主がお認めにならない、特別な扱いを受けている。それを受けていることの幸い、心に欺きがないことの幸いです。

 

 「わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。』(5)

 

  神は待ち受けていたように赦してくださるお方。ずっと責め続けるお方ではない。言い表したときに待っていたかのように赦してくださる方です。

 

 神は、入念なる準備をし、イエスキリストの十字架という多大なる犠牲をもって待っていてくださる。自分の内面の背き、罪、咎を神さまの前に隠すことなくみんな持って出たその時に、わたしはあなたを迎える用意をしていたよと迎えてくださる。そういう神さまです。神は帰って来るものを子どもとして迎えてくださいます。

                        (東京基督教大学学長 山口陽一師)

 

 

  9月30日() 聖日礼拝

       「幸いと不幸」          ルカ福音書6章2026節

  

 24節から26節には、富んでいる者、満腹している者、ほめられる者は不幸であることが告げられていています。普通は富んでいる、満腹している、ほめられることは幸せと考えますが、その反対なのでドキッとします。富、満腹、ほめられることで驕りが生じ、自分の生きる意味を考えない、真の生ける神を見失うことが多いからです。ザーカイ、ダビデがそうでした。

 

  「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(20節)「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。」(21節)貧しさ、飢えは、物質的、肉体的なものというよりは、その人自身の内面において、乏しさを覚え、助けを求める姿を意味しています。目に見えるものはいつか失われて行きます。これさえあれば大丈夫だと考えていたものがそうでないことに気が付かされることがあります。行き詰って苦しんでいたザーカイは主イエスと出会い、ダビデは自らの罪を認め悔い改めて、その赦しの中で神の大きな愛に出会いました。

  

 憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる時も、主を見上げる中で、主よりの慰めをいただき、生きる力をいただくことができます。

 

 真の生ける主、祝福の神と出会い、永遠の命をいただき歩む幸いにそれぞれは招かれています。       

                          (久多良木和夫)