2023年12月

12月3日() クリスマスアドベント第1聖日礼拝 

  「大いなる光を見る」         イザヤ書9章1-6節

 

 1年の終わり、新しい年を前にして希望を持って進みたいものです。しかし、実際の歩みにおいては、自分のこと、家族のことで現在抱えている問題、将来への不安、健康の不安等々とあります。大きな力に呑み込まれそうにもなります。時代という波、年齢という波、病気という波、人間関係という波があります。自分の存在の意味についても考えさせられます。

 

 「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように 折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」(3-4節)。力ある者が力によって力弱い者を虐げることは神の御心ではありません。ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ侵攻、ミヤンマー軍事政権による国民の支配、中国政府による少数民族ウイグル族への強引な支配、北朝鮮政府による国民への支配、・・です。

 

 神は私たちに良いものをたくさん与えてくださっています。この宇宙、地球、健康、食べ物、・・それなのに、私たちは当たり前のように考えているところがあります。そのような私たちに神のなしてくださった最高のことはクリスマスの出来事です。神と私たちの関係をズタズタにする罪の問題を解決するために御子イエスが遣わされたのです。罪の解決のためには、罪のない命が必要です。御子イエスは、その命を投げ出して神と私たちをつなぐ橋となってくださいました。

 

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。」(5節)。驚くべき指導者とは最高のカウンセラーということです。私たちを造り変えることのできる力をお持ちの方です。永遠の初めからおられ、永遠の終わりまでを支配しておられるお方です。神と私たちの架け橋になってくださった方です。

 

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1節)。大いなる光とは、救い主イエスを表しています。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8章12節)。主イエスは世の光としておいでくださいました。その主を、救い主として信じ、受けいれる者、その主と共に歩む者は、暗闇の中を歩かず、命の光を持ちます。たとえ暗闇と思えるところを通っても、そこから抜け出すことができ、希望を失いません。主のご愛と恵みに生かされて。希望をもって歩むことができます。

                          (久多良木和夫)

  

12月10日() クリスマスアドベント第2聖日礼拝 

   「イエスと名付けなさい」  ルカによる福音書1章26-38節

 

 クリスマスは、神の御子イエスの誕生の出来事を意味します。その方は平和の君となるべきお方で、神と人をつなぐ架け橋となってくださいます。 

 

 神と私たち人間の関係は罪によって断絶している関係です。聖書でいう罪とは、この世界をお創りくださり、私たちを愛し生かしていてくださる神を認めず、その方を無視して自分勝手に生きていること、神との交わりを失い、その関係が断絶していること、糸の切れた凧のような状態にあることを指しています。そのような神との関係が回復するために神は働いてくださいました。 

 

 神であり、かつ人としての方、その方がおいでくださった。どのようにしてか、それがまさに、クリスマスの出来事です。罪のない方としておいでくださる。神の命が人の内に宿る。 聖霊なる神がお働きになり、人の内に命が宿る。救い主イエスのこの世での誕生のために、選ばれたのが、おとめマリアでした。

 

 マリアは、ナザレという小さな村ナザレに住む女性で10代半ばでした。ヨセフという男性と婚約していて将来夫婦として歩み出す日を楽しみにして歩んでいました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」(30節)。神からの恵み、それは神からの選びを意味していました。神から選ばれることは栄誉なことです。しかし、その後にやってくること、それは、選ばれた者として担うべきことがあり、責任が伴いそれを果たしていかねばならないということです。

 

 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。(35節)。神であり、人である。罪のない方としてお生まれになる。どのようにしてそうなるか、聖霊なる神のお働きによってです。マリアの胎内に、神の子の命が宿りました。

 「神にできないことは何一つない。」(37節)。マリアを応答しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)。主のおっしゃることをそのまま受け止めます。それに従います。主のご命令ならば、信頼して従います。この私で良ければお用いください。この私は従いますと。

 

 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(31節)。イエスの意味は、神は救うということです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイによる福音書1章21節)。

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1章23節)。イエス、神は救い。神は私たちを罪から救ってくださるお方です。

                           (久多良木和夫)

 

12月17日() クリスマスアドベント第3聖日礼拝 

  「マリアの賛歌」       ルカによる福音書1章47-56節

 

 この箇所は。救い主イエスの母となったマリアの賛歌と呼ばれる箇所です。

わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(47節)。マリアは、主に向かって心から感謝と賛美を捧げました。こんな私が救い主の母となるべく選ばれたことを喜び感謝しました。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」(48-49節)。

 

 マリアは信仰をもって応答しました。「神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(37-38節)。他の人を用いてくださいとは言わず、今私で良ければ用いてくださいと申し上げました。

 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(51-53節)。思い上がる者は打ち散らされ、権力ある者は引き下ろされ、富める者は空腹のまま追い返されます。それは、断罪ではなく、招きです。思い上がる者がそれをやめるならば、権力ある者がそれに固守しないならば、富めるものはその富を独り占めしないならば、神からの恵みを受け取ることができます。身分の低い者は高く引き上げられ、飢えた人は良いもので満たされるというのです。

 

 「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(50節)。「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、」(54節)。クリスマスの出来事は神の憐れみによってなされた出来事です。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」」(78-79節)。神から、憐れみ、大きな愛が私たちに注がれています。

 

 神は、その独り子イエスをこの世に生きる私たちに、最高のギフトとして与えてくださいました。それは、神と断絶したまま歩み、滅びに向かっている私たちを救うために、神と離れたままではなく、神とつながって生きるようになるためです。

 

12月24日() クリスマス合同礼拝 

  「神は我々と共におられる」 マタイによる福音書1章18-25節 

 

 思いがけないことを経験することがあります。マリアの婚約者であったヨセフは、マリアからみ使いガブリエルからみ告げを受けたこと、そして聖霊によって、神の救いの主となる御子イエスを胎内に宿したことを聴きました。ヨセフは、そんなことを信じることはできません。

 

 このままでは、マリアは当時の律法によって石打ちの刑になって命が奪われてしまうと考え、ひそかに結婚することを解消しようと考えました。しかし、その夜夢で、神からの語り掛けを聴きました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20-21節)。ヨセフは、このことを真実だと受け止めました。

 

 その名は「イエス」。イエスという名の意味は、神は救うということです。何から救うか、それは罪からの救いです。罪とは、真の神を見失い、背を向けて歩みさ迷うことです。真の神とは、この宇宙、地球、世界を造り、命を与え私たちを産み出してくださったお方です。真の神と断絶して歩み、人を苦しめ、自分をも苦しめます。生きる意味を見失い、希望を失います。神は、御子イエスを通してその罪から救ってくださるのです。

 

 救い主のもう一つの名前は、「インマヌエル」です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)。インマヌエルとは、神は我々と共におられるということです。

 

 大きな困難、行き詰まりの中で、助けを求めます。その叫びはどこにも届かないと思える時もあります。しかし、クリスマスの主は、その叫びを聞いてくださいます。旧約聖書の中に登場する、ヤコブの子のヨセフは、兄たちの妬みを買い、遠いエジプトに売り飛ばされてしまいます。絶望の日々を過ごします。そのヨセフと神は共におられたと記されています。ヨセフはやがて、暗闇から引き出され、大事な働きを担う者となり、兄たちや一族を救う者になりました。

 

 

 クリスマスの出来事、神によって遣わされ人となってお生まれくださった救い主御子イエスを救い主として受け入れる者に、神は救いの恵みを与えてくださいます。私たちは、どのような時にもこの主に依り頼むことができます。なんという幸いでしょう。

                                             (久多良木和夫)

 

12月31日() 年末感謝礼拝 

   「神の国と神の義を」    マタイによる福音書6章25-34節 

 

 1年を振り返ると、世界では、2月のトルコ・シリア地震、5月のコロナ緊急事態の解除、8月のハワイ大規模山火事、10月のイスラエルガザ進攻、・・、日本では、5月の新型コロナ「5類」以降、8月の福島第一原発の処理水放出、・・とありました。

 私たちの北九州復興教会としては、納骨堂建設委への取り組み、4年ぶりのクリスマス祝会、1名の兄弟の病床洗礼、2名の方々の召天、‥とありました。

 

 本日の聖書箇所において、繰り返されていることは、「思い悩むな」ということです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(25節)。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(31節)。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(34節)。口語訳では「思い煩うな」、新改訳では「心配してはいけません」「心配するのはやめなさい」と訳されています。

 

 実際の歩みにおいては思い悩み、思い煩い、心配の種はたくさんあります。私たちはどうしても物事を悪い方に考えてしまう傾向があります。起きた現実が厳しい時、自分のせいでこうなってしまったのでないかと自分を責めてしまうことがあります。またその厳しい現実が自分を苦しめ追いかけてくることがあります。

 

 主なる神はあなたが責任を取りなさいと責められる方ではありません。自らが責任を取ると語られます。そのために、御子イエスをこの世にお遣わしてくださいました。主なる神は私たちのことを心配してくださるお方です。

 

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(26節)。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(30節)。主なる神は空の鳥を養い、野の花を装ってくださいます。

 

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(33節)。イエス・キリストを通して、神の国すなわち神のご支配は私たちの身近に置かれました。また神の義すなわち神の正しさは救いをもたらすものとなりました。

 

 神の国と神の義を中心軸に据えて歩みましょう。神の愛、神の恵みが私たちに豊かに注がれています。このことを感謝して神を中心にして歩んでいきましょう。

                         (久多良木和夫)