2024年 3月
3月3日(日) 聖日礼拝
「永遠の栄光への招き」 ペトロの手紙一5章8-14節
3つの柱で、メッセージを取り次ぎます。
第1は、永遠の栄光なるものがあるということです。あなたは何を得たら喜ぶ
でしょうか。これを手に入れたら最高というものがいろいろあるかもしれませ
ん。しかし、それらのものはやがて過ぎ行き消えゆくものであり、永遠に続くも
のはありません。しかし、神が備えてくださった永遠の栄光があります。一つは
主イエスにある救いです。主イエスにあって神の子どもとされ主と共に生きると
いうことです。もう一つはこの地上の生涯の先に備えられた永遠の御国です。
第2は、主イエスにあってみ救いに与り、御国を目指して歩む途中における歩
みです。その途中において悪魔の妨害があるということです。しかし、心配はい
りません。主の助けがあるからです。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あな
たがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探
し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」(8
-9節)。信仰の目を覚まして歩みましょう。自分の肉の力ではなく、神の依り
頼み歩むのです。エフェソの信徒への手紙6章には神の偉大な力によって強くな
りなさいと告げられています。神の武具の中で、最も大切なものの一つは信仰と
いう盾です。主により頼む信仰を持って歩んで行きましょう。
第3は、主なる神は、私たちを永遠の栄光に招いていてくださっているという
ことです。「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通して
あなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだ
あなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださ
います。」(10節)。恵みは神から与えられるものです。私たちは、その恵み
の主に目を向け、その主を仰ぎ恵みをいただくのです。「あなたがたの信仰は、
その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金より
はるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをも
たらすのです。」(1章7節)。試練の中を通ることで、練り鍛えられ、主に間
近く歩む者に作り変えられていくのです。
(久多良木和夫)
3月10日(日) 聖日礼拝
「イエスの言葉を思い出して」 マルコによる福音書14章66-72節
最後の食事の後、主イエスと弟子たちは歩きながら会話をしました。その時、ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。主イエスは、旧約聖書のゼカリヤ書を引用し、弟子たちが、主を否定しばらばらに散らされるが、必ず残される者がいてまことの弟子になることを語られました。
弟子たちのように、「もうやめようかな」と思われたことはありませんか?教会へ行くこと、聖書、祈り、奉仕、献金などについて、やがてそのどれもできなくなる時が来ますが、まだ途中においてです。
ルカ福音書22:32に、「あなたのために、信仰が無くならないように祈った」とあります。私たちのための主イエスの祈り、先輩方の祈りにより私たちの今があります。
大祭司から、「お前は神の子、メシア、キリストなのか」と問われた時、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」とイエスは言われました。その後に主イエスへのひどいしうちが始まったのです。一方ペトロは名もない一人の女中のことばに「その人を知りません」と。主との関わりを強く否定しました。神さまにすべておゆだねしているイエスとは全く逆です。
3回目は「それがうそなら呪われても良い」とまで強く否定しました。その後2度目の鶏の鳴き声が聞こえました。その時、ペトロ本心に立ち帰り、外に出て泣きました。「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」との主の言葉を思い出したからです。
ペトロは、ずっと主の言葉を思い続け、立ち去ることができなかったことも考えられます。主の愛により赦され、共に歩ませていただいたこと事実がありました。弟子として思いとは逆の言葉を言ってしまったけれど、主から離れることはできないという思いの中で、ペトロは勇気をもって大祭司の庭に居続けたのです。
「大丈夫だよ、私はそのようなお前を見捨てないよ、こうなるのはわかっていたんだ、まだこれから先がある、私は復活するのだから」とのまなざしを、主イエスはペトロに私たちに向けておられます。
(久多良木志津子師)
3月17日(日) 聖日礼拝
「主を呼ぶ人すべてに近くいまし」 詩編145編1-21節
詩編145編はダビデの賛歌、主なる神様を偉大な方として賛美する歌です。
145編は三つに区分することができます。
1-9節
ダビデはイスラエルの王でしたが、その栄光を神様に帰し、神様をあがめています。神様の御名が世界を越え、時代を越え、ほめたたえられ、呼ばれることをダビデは賛美します。続く4節以降には「御業」という言葉が6回出てきます。神様が個人になさった御業、共同体になさった御業、世界になさった御業を数え、賛美します。8節「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます」。造られた物を愛し、支え、導く造り主。この方が私たちの礼拝する神です。
10-16節
前半は、神の「主権」ということに触れます。私たちはイエス様を通し、神様が「そば近くいてくださる方」であることを知っています。けれどもこの方が「絶対的な主権者」であることを、忘れてはいけません。賛美されるべき方です。しかし神は憐れみ深く、慈しみに富み、14節「倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださる」のです。偉大な主権者、全能の神が、うずくまり弱る私たちを助けてくださり、15節「目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます」とあるように、必要を与えてくださる方です。「パンを欲しがる子供に石を与えず、魚を欲しがる子供に蛇を与える」ことはしません。イスラエルの民が荒野でマナを食べたように、命をくださいます。
17-21節
主は偉大な王、主権者、賛美されるべき方でありながら、18節「主を呼ぶすべての人に近くいまし、まことをもって呼ぶ人々すべてに近くいま」す方です。呼び求める切なる声に耳を傾け、応えてくださいます。この時、思い起こされるのは出エジプトの出来事です。叫び求める声を聞いて、主は助けを送られました。この民は、主の名を呼ぶことによって救われました。今の私たちの時代も、主の名を呼ぶことが求められている時代です。世界の大きな課題、試練を前にする時、私たちは無力です。しかし、キリスト者は「主の名を呼ぶ」ことができます。切に求め救いを求めることができます。神様がどれほど、私たちに目を向けてくださり、心にとめてくださるかを覚え、賛美し、また求めて祈りましょう。
(富山希望師)
3月24日(日) 聖日礼拝
「十字架上での叫び」 マタイによる福音書27章27-52節
本日は棕櫚の聖日です。主イエスは、馬ではなく、ロバに乗ってエルサレムに
入城しました。主がお入り用なのです。あなたも呼びかけられています。
最後の週、主イエスは、弟子たちの足を洗い、あなたたちもそうするように語
れました。最後の晩餐の後、主イエスはゲッセマネの園で祈り十字架に進むを選
ばれました。その直後、捕らえられました。大祭司カイアファのところと総督ピ
ラトのもとで尋問を受けらたました。ピラトのもとでの裁判の結果、有罪判決を
受け、ゴルゴダの丘で十字架刑に処せられました。
人々はイエスに対してののしりました(40,42-44節)。他の人からの
ののしりほどつらいものはありません。それに対して主イエスは反論されません
でした。
主イエスは十字架の上で深いとりなしの祈りをされました。そのとき、イエス
は言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らない
のです。」(ルカによる福音書19章34節)。そのとき、イエスがお赦しくだ
さいと父なる神に祈られた彼らとは、十字架につけ、ののしりあざ笑う者たちを
指していると同時に私たちを指しています。
主イエスは、十字架の上で叫ばれました。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれま
した。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわ
たしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46節)。神は、永遠
の初めから三位一体の神であり、父なる神、子なるイエス、聖霊なる神は一心同
体であられました。互いに一つであり、離れることのない愛の関係であられまし
た。しかし、父なる神は、私たちの救いのために御子イエスをこの世にお遣わし
になりました。子なるイエスは、そのことを了承されおいでくださいました。そ
して、この地上での最後において、上記のように叫ばれました。
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたの
は わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに
平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ
書53章5節)。その献げられた命を通して救いの門が開かれました。神との断
絶は取り除かれました。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて
息を引き取られた。(ヨハネによる福音書19章30節)。イエスは、酸いぶど
う酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお
渡しになった。(新改訳)。救いの御業は主イエスを通して成し遂げらました。
(久多良木和夫)
3月31日(日) イースター聖日礼拝
「恐れることはない」 マタイによる福音書28章1-10節
私たちは、様々な歩みの中で失意落胆、悲しみを経験します。そして希望がし
ぼんでいきます。しかし、復活の主イエスは私たちを見ていてくださり、支えて
くださいます。主は失意落胆、悲しみを共に担ってくださり、しぼんでいた希望
を再び膨らませてくださいます。
十字架刑のなされた金曜日から3日目の日曜日の早朝にマグダラのマリアとも
う一人のマリアは、主イエスのご遺体の納められた墓に行きました。香料を塗っ
て差し上げるためです。
その時に大きな地震が起きました。番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり死
人のようになりました(4節)。突然の恐ろしい出来事により番人たちは身動きで
きなくなったのでした。それは私たちも経験することです。
マグダラのマリアたちに天使から声がかけられました。「恐れることはない。
十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられ
ない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(5-6節)。主イエ
スは死を打ち破り復活されたというのです。
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知
らせるために走って行った。」(8節)。マリアたちは神から喜びと希望を注ぎ
込まれました。復活の主はマリアたちに「おはよう」と呼びかけられました。原
語は喜ぶ、ごきげんようということです。
私たちに恐れを抱かせる状況はたくさんあります。私たちは、時に過去のこと
を恐れ、現在のことを恐れ、未来のことを恐れます。災害、戦争、トラブル、恐
喝する者、いじめる相手、集団、ドメスティックバイオレンス、ストーカー、病
気、様々なことがあります。頼りにしていた物、頼りにしていた人を失うという
こともあります。
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラ
ヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(10節)。吹き
飛ばされそうな自分自身の日々、そこに主はおいでくださいます。その主と出会
って共に生きるのです。そのために、主イエスを私の救い主として受け入れるこ
とです。主をかつて信じ受け入れた者は、私の人生において、主イエスを端っこ
にして自分が主人である生き方を改めることです。主イエスを私の人生の主人と
して歩むのです。
久多良木和夫