2024年4月

 4月7日() 聖日礼拝 

   「平和があるように」   ルカによる福音書24章36-49節

 一人でも黙々と歩に頑張ることも幸いですが。その歩みが支えられ後押しされ励ましを受けて歩むことはより幸いです。復活の主イエスを仰ぎ見つつ、復活の主に祈りつつ歩むことは大きな幸いです。

 

 主イエスは肉体を取って復活されました、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。(39-40節)。

 

 復活の主は弟子たちのところにおいでくださいました。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(36節)。

 

 弟子たちは恐れていました。主イエスを捕らえて十字架刑に処したユダヤ教の力ある者たちが自分たちをも捕らえに来るかもしれないと考えたことでしょう。それ以上に恐れていたことは、自分たちが主イエスを最後助けることもせず逃げ出したことです。まさに恩を仇で返したからです。イエスをお遣わしになった父なる神はどんなにか怒っておられることか、自分たちに罰が下るのではないか、呪いがかけられるのではないかと考えたことでしょう。

 

 復活の主イエスの言葉は、その反対でした。「あなた方に平和があるように」あなた方は赦されている。わたしはあなた方のために十字架にかかった、あなた方の罪を私自身の命をもって贖ったのだと。

 

 旧約聖書の預言は成就したことを告げられました。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(44節)。

 

 

 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(47-48節)。悔い改めは原語ではメタノイアです。これは後悔するという意味はありません。向きを変えるという意味です。後悔はしても主に向きを変えなければその後悔のままです。主に向きを変えて歩む時に罪の赦しが与えられます。そのことがなる土台は、主イエスの復活です。なぜなら、振り返ったところに主なる神がおられるからです。

                          (久多良木和夫)

 

 4月14日() 聖日礼拝 

    「命と信心にかかわるもの」   ペトロの手紙二1章1-8節

 

 「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。」(3節)。命は私たちの1回限りの人生であり、それを生かすものです。信心は新改訳聖書では敬虔と訳されています。それは信仰の心の態度を意味します。

 

 命を輝かすこと、信心を真実に保つことを願います。しかしそれは簡単なことではありません。その反対になってしまうこともあります。しかし、感謝なことには、主イエスが、その命と信心にかかわるすべてを与え満たしてくださいます。

 命と信心にかかわることをペトロの手紙一から拾い出したいと思います。

 

 第1は生き生きとした希望であり朽ちず汚れずしぼまない財産を受け継ぐ者とされたことです(1章3-4節)。

 

 第2は、信仰の実りとして魂の救いを受けたことです(1章8-9節)。言葉では言い尽くせない素晴らし喜びに満ちあふれさせてくださいます。

 

 第3は魂の牧者であり監督者である方のところに戻ってきたことです(2章25節)。

 

 第4は、祝福を受け継ぐために召されたことです(3章9節)。

 

 第5は、キリストを主とあがめることです(3章15節)。相談し、呼びかける相手は、他の人や自分自身のこともあるでしょう。しかし、最終的には主ご自身に相談し呼びかけさせていただくのです。

 

 第6は、人間の欲望ではなく神の御心に従って肉における残りの生涯を生きることです(4章2節)。

 

 第7は、与えられている賜物を生かして互いに仕えることです(4章10節)。自分のためだけでなく互いに仕えるために賜物を生かすのです。

 

 第8は思い煩いを何もかも神に任せることです。そして強められ揺らぐことのないようにされることです((5章7、10節)思い煩いを主に任せ委ね歩むことができます。

 

 

 命と信心にかかわるものを主イエスが与え満たしてくださいます。命が輝くように、信仰生活が恵みに満ちるように主が働いてくださいます。

                                                      (久多良木和夫)

 

 4月21日() 聖日礼拝 

  「主イエスから派遣される」 マルコによる福音書16章14-20節

 

 弟子たちは、最初に主イエスに出会ったマグダラのマリヤから主の復活の知らせを聞いてもそれを信じることができないでいました。食事の場にいた弟子たちは、全員が主の弟子としては不合格でした。14節「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。

 

 しかし主イエスは彼らをとがめる目的でその食事の場に来られたのではないことは、その直後に弟子たちにこれからなすべきことを語られたことでわかります。弟子たちを新たに福音宣教のために遣わされるためでした。

 

 自分たちを赦してくださったお方から新たな役割を任じられて弟子たちは前に進み出しました。

 

 私たちも大きな課題が目の前に来るとまず、しり込みをします。それでも思い直して、祈って前に進み出す人、100パーセントではなくても、その何割かでも自分なりにさせて頂こうと考え直す人は素晴らしい、勇気ある人だと思います。

 

 私たちに神の言葉を受け渡してくれたのは、御言葉の御用をしている牧師かも、信徒の誰かかも、親、兄弟かも、友人かもしれません。私たちはそれを心で受けとりまし た。今度は誰かが神に動かされて神の御言葉を、福音を受け取るのです。

 

 福音とは、『キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、』コリント1 1534

 

 15節の「全世界に行って」とは、この場所から遠い場所へ、時には外国へ出かけていくということを意味を考えますが、それだけではなくて地球を一回りして、自分の隣に戻ってくる、自分の隣が世界の果てであるともよく言います。自分と一番近い関係の所、人も全世界なのです。イエス様は隣人を愛し、福音を伝えなさいといわれました。

 

 15年ほど前になりますが、入院しておられました当時90歳くらいの方をお見舞いした時、ベッドに教会で出している祈りの課題を記したプリントがありました、「ここでもいつも教会の課題を祈ってくださっているのですね」と言うと、「これだけではなく、うちの教会から献身した人たちの名前をあげて毎日祈っているのです」と、おっしゃったことを思い出します。高齢になられるまで、自分の生活の場で世界宣教の働きをされたのです。

 

 御言葉が示すように、主イエスは、それぞれの場所に各自を遣わされる時、「主は彼らと共に働き」とあります。主ご自身が、聖霊なる神が共に働かれるという約束を与えられました。

                          (久多良木志津子師)