2024年 2月

 2月4日() 聖日礼拝 

   「身を慎んで良く祈りなさい」    ペトロの手紙一4章1-11節

 

 苦しみを経験し、その苦しみからなかなか抜け出せずもがくことがあります。

主イエスは、もともとは神の御子であり、苦しみとは無縁でした。しかし、こ

の世界においでくださり、苦しみをなめられました。最後は十字架につけられ

誰も味わったことのない侮辱と苦しみを受けられました。「キリストは肉に苦

しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。

 肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」(1節)。

 

 「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、

宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もう

れで十分です。」(3節)。異性問題で、アルコールで人生を台無しにしてし

う人は多いのです。信仰の対象は何でも良いのではありません。信仰の対象の

が生ける祝福の神であるかどうかはとても大切なことです。

 

 「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開き

をしなければなりません。死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人

間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊に

おいて生きるようになるためなのです。」(5-6節)。この地上での歩みでど

のように歩んだかが、最後神の御前で問われることを心にとめて歩みましょう。

自分の歩みが間違っていることに気が付いたならそれを改めたいものです。また

良いことに励みたいものです。

 

 「万物の終わりが迫っています。」(7節)。地球温暖化、環境破壊、戦争、

核兵器の脅威、・・ このままさらに悪い方向に行ったらどうしようと考えま

す。また、人生の後半に入ると、いつ最後が来るのだろうかと不安や恐れを覚え

ます。その時に神に祈る幸いがあることを心に留めましょう。

 

 「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからで

す。」(8節)「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の

さまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」

(10節)。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神

が栄光をお受けになるためです。」(11節)。 「万物の終わりが迫っていま

す。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(7節)。思

慮深くとは、心を確かにして(口語訳)、心を整え(新改訳)ということです。

身を慎むとは、あれこれ身を突っ込まず、あれもこれもと追い求めることをセー

ブして、自分の欲望に乗りすぎずということです。主なる神により頼み、心を向

け祈るのです。主なる神は祈りを助け導いてくださいます。

 

                          (久多良木和夫)

 

 2月11日() 聖日礼拝 

    「試練、苦しみの時に」    ペトロの手紙一4章12-19節 

 試練、苦しみは、私たちの人生における大きなテーマです。それが来ないこと

を願いますが、それは時にやって来ます。

 

 「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する

者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」(15節)。自分で苦

しみを招き寄せないようにしなさいとまず告げられています。

 苦しい時にどうしたら良いのか。「神に依り頼めば恐れはありません。肉にす

ぎない者がわたしに何をなしえましょう。」(詩編56編5節)。主に依り頼み

ましょう。

 

 ダビデは、苦しみの中で神に祈り叫びました。「苦難の中から主を呼び求め

わたしの神に向かって叫ぶとその声は神殿に響き叫びは御前に至り、御耳に届

く。」(詩編18編7節)。ヨナもまた神に叫び求めました。「苦難の中で、わ

たしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声

を聞いてくださった。」(ヨナ書2章3節)。

 

 キリスト者としての歩む中で譲ることのできないことがあります。神でないも

のを神として礼拝することはできません。聖日礼拝をおろそかにすることはでき

ません。そのような中で、他の人から非難されることがないわけではありませ

ん。

 

 その試練、苦しみの中で、どう歩むか3つのことが語られています。第1は、

喜びなさいということです。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかる

ほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれ

るためです。」(13節)。肉の力ではできませんが、主は必ず守ってくださ

る、最善を導いてくださると信じて従い進むのです。第2は、神を崇めなさいと

いうことです。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じ

てはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさ

い。」(16節)。主イエスは、私たちのために十字架でその命を捧げてくださ

った方である、復活され今も生きて働いていてくださるお方であることを心に留

め、神を崇めるのです。第3は、委ねなさいと言うことです。だから、神の御

心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(19節)。自分の力では限界です、真実であら

れるお方、神に私の魂を、私自身をお委ねするのです。主はすべてを新たにする

ことがお出来になします。

 

 「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、

すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(14

節)。キリストの名のために避難されるとき、そのことだけしか見ないならば苦

しい、しかし、その時、主の栄光の霊である聖霊なる神が私たちの上に留まって

いてくださり、試練、苦しみに打ち勝たせてくださいます。また癒しの恵みを与

えてくださいます。

 

                           (久多良木和夫)

 

 2月18日() 特別聖日礼拝 

   「収穫からの働き手」  マタイによる福音書9章35節―10章1節 

 

 主イエスは町々村々を回って福音を宣べ伝えて来ました。「 イエスは町や

を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や

いをいやされた。」(35節)。そこで強烈に思わされたことが36節です。

 

 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを

見て、深く憐れまれた。」羊飼いのいない羊のようだ、なんとかわいそうかと心

の底、腹の底から思われた、そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働

き手が少ない。」(37節)。ぎっしりと実の詰まった麦のように、救われる

人々を収穫と見られました。

 

 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさ

い。(38節)。天の御国に入る準備のできている者がなんと大勢いること

か。だがしかし、働き手が少ない。収穫が多いのに働き手が少ない。

 

 弟子たちは働き手として「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対

る権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすた

めであった。」(10章1節)。それまで、主イエスはお一人で御国の福音を宣

べ伝え、癒し等の良い業をなさいました。しかし、一人では大変です。だって、

収穫はこんなに多いのだから。収穫の準備のできている人は多いのですだから。

弟子たちも働き手となって主イエスの働きに加わっていきました。

 

 弟子たちは、もともとは収穫でもありました。一人一人名前を呼ばれついてき

なさいとイエスのもとに集められた収穫のようなものです。主イエスはその弟子

たちを働き手として送り出されました。学生宣教の現場はまるで実り豊かに良い

畑のようです、。クリスチャンとなった学生がクリスチャンとして成長し福音宣

教の担い手となっていきます。彼らはまさに収穫からの働き手です。

 

 当時の群衆は、パックスロマーナの時代、表面的には平和と繁栄の中に身を

いていましたが、魂に傷と痛みをかかえ弱り果てていました。これは、今日の私

たちの世界と重なるものがあります。繁栄の中で多くの良い物を享受しているよ

うに見えても、様々な大変なことの中で魂が弱り果てています。

 

 10代後半から20代前半の若者もまた、深い所では孤独とむなしさを抱え

います。飼い主がいない羊のようにもがきながら生きています。聖書の救いの福

音を必要としている学生たちは多いのです。学生時代は人生の土台を築くべき大

切な時です。その時にこそ、神の国の福音が必要なのです学生宣教の可能性があ

ると信じましょう。。神のことを求めている学生は決して少ないのです。御国に

入る準備ができている人は少なくない、多いのです。少ないのは働き手なの

す。だから、私たちは収穫の主に願い求めましょう。

 

 私たちは収穫としてイエスに集められた者です。私たちは名前を呼ばれ憐れ

でいただいた者です。教会として、神の民として召し出されました。今度は働き

手としてそれぞれの場に遣わされていくのです。職場に、家庭にです。神の国の

福音を宣べ伝える者として遣わされたところで福音を生きるのです。

 

 収穫は多いが働き手は少ない、だから収穫の主である神さまに働き手を願い

めましょう。

                      (吉澤慎也師‐KGK総主事)

 

 2月25日() 聖日礼拝 

   「キリストの受難の証人として」    ペトロの手紙一5章1-7節

 

 思い煩いは、大きな問題です。私たちは思い煩いによりそれが心にのしかかってきます。赤ちゃん、乳児は大人と比べるならできることは限られています。しかし大人と比べて一番違うことの一つは思い煩わないことです。

 

 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(7節)。思い煩いをすべて神に任せなさいとから語られています。どんな課題でも神は受け止めてくださるお方です。主にお任せして、平安をいただき休ませていただきましょう。

 

 若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです(5節)。高慢な者、あくまで上に立つことを狙い、それにとどまり続けようとする者が多いのです。高慢な者はやがて斥けられ、打ち滅ぼされます。神は謙遜な者に恵を与えてくださいます。ただ神の御手のご支配のもとで感謝しつつ一歩一歩を歩ませていただくのです、自分で自分を高くする必要はありません。神がかの日に高くしてくださいます。

 

 「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。」(2節)。ゆだねられている人たちを大切に扱いなさいと命じられています。

 

 「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。」(1節)。この手紙を記したペトロは、キリストの受難の証人として語っています。全人類の罪を背負い、この自分の罪を背負って十字架で命を捧げてくださったその出来事をペトロは目撃しました。と同時に、自分が三度主イエスを知らないと否んだこと、そのことを予告された主イエスは、自分の信仰がなくならないように祈ってくださったことを知りました(ルカによる福音書22章32節)。その主イエスは十字架の死の後に復活され戻って来てくださり、再び自分に語りかけ、赦し、群れを養うように託してくださったことを心にとめ歩む者とされました。

                         (久多良木和夫)