2020年12月

12月6日() 聖日礼拝

             「栄光に輝く王が来られる」    詩編24編1-10節

 

旧約12聖書では、イスラエル人が神の民として選ばれた出来事が強くあります。その中でダビデは、「世界とそこに住むものは主のもの」(1節)と賛美しています。すべて主のものであると称えました。 

      

 「どのような人が主の山に上り 聖所に立つことができるのか」(2節)と言われました。主の山、聖所とは礼拝する場所を指します。そこに向かうには準備が必要です。「潔白な手」「清い心」心と体どちらも正しいものであること、「むなしいものによって魂が奪われず、欺くものによって誓わない」(4節)偶像崇拝に陥らないものを指しています。私たちは欠けがあり、完璧には出来ません。これらをするのは、「主を求める人」(7節)となることです。私たちは、主を第一とし心の真ん中において、求めていくことで、私たちは心も体も清められ聖所に立つ資格が与えられます。          

                    

 「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」(7,9節)の中にある「頭を上げる」「身を起こす」倒れている者がもう一度立ち上がります。傲慢や罪によって歩むべき道が崩れていました。それを立ち直すのは、ダビデとも思われていました。ダビデは「栄光に輝く王が来られる。…万軍の主、主こそ栄光に輝く王」(10節)と賛美をしました。主ご自身が万軍に輝く栄光に輝く王である。その主が世界に来てくださった喜びを待ち望みましょう。

                          (後藤真英師)

 

12月13日() 聖日礼拝

             「インマヌエルの主」   マタイ福音書1章18-25節

 

クリスマスは、救い主であるお方が誕生された日です。その意味は、神様が私たちに最高のプレゼントをくださったことです。

 

マリアの婚約者のヨセフは、マリアが語ったことすなわち聖霊によって救い主を身ごもったということを信じることができませんでした。マリアは不貞の罪を犯したに違いない。そのことが明らかになれば、マリアは石打の刑で命を奪われる。彼女の命を助けるために婚約を破棄しようかと悩みました。

 

しかし、ある夜夢で主の天使がヨセフに告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20-21節)。ヨセフはそのみ告げを受けとめました。

 

罪とは何でしょうか。それは警察に捕まるような悪いことという意味ではありません。罪とは神を認めず、神に背を向けて歩むことです。その方を信じるより自分を信じる、他の神々を信じることです。神のみ言葉を聴くより、自分の声を聴き、この世の声を聴くことです。

 

その結果、自分中心に陥り行き詰ります。人との間の平和を失い、自分のうちには平安を失います。心の中に暗闇が覆います。

 

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(23節)。 人は、最初の人アダムとエバの時以来、インマヌエルの恵みを失ってしまいました。そのインマヌエルの恵みを回復させるために、神ご自身が大きな犠牲を払ってくださいました。イエス・キリストを通しての神との交わりの回復の恵みがもたらされました。

                          (久多良木和夫)

 

12月20日() 聖日礼拝

             「三つの献げもの」    マタイ福音書2章1-12節

 

私たちそれぞれ、いろいろなものを所有しています。命、時間、持ち物、知恵、才能、その他、それをどう用いるかで、何を大切にしているかがわかります。

 

 三人の学者たちは、ユダヤの国から見るとはるか東方から旅をしてユダヤの国に来ました。彼らは、占星術の学者で、天の星の運行を研究して、そこから大切なメッセージを得ていました。彼らは、星の研究で、ユダヤの国の真の王の誕生を知りました。そのお方にお会いするために来たのです。

 

 ユダヤの国の領主であったヘロデに謁見しました。ヘロデはその王の誕生の地がベツレヘムであることを祭司長、律法学者たちから聞きました。それはミカ書に記されていました。ヘロデも祭司長、律法学者も、誰一人、その方に会いに行こうとしませんでした。

 

 学者たちは、救い主イエスに会うことができました。神は、星を通して彼らを導かれたのでした。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(9節)。

 

 彼らは、持ってきた3つの宝を献げました。黄金、乳香、没薬です。黄金は王にふさわしいものです。乳香は礼拝の時にたいて捧げる香です。そして没薬は死者を葬るときに用いた特別な薬です。とても高価なものでしたが、学者たちは自分の持ち物をはたいてそれを手に入れてやってきたのでした。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11節)。

                          (久多良木和夫)

 

12月27日() 年末感謝礼拝

         「相互の交わりに生きる」   使徒言行録2章42-47     

 

この年のテーマは、交わりでした。ギリシャ語の原語ではコイノニアです。この言葉には2つの意味があります。一つは人との交わりです。人との交わりを大切にし、互いを覚え合うということです。もう一つは、神との交わりです。主にしっかりとつながって歩むということです。具体的には、主に向かっての祈りであり、御言葉を読むことであり、礼拝を捧げていくことです。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(42節)。聖霊降臨の恵みを受けて、主の弟子たちは、これらの4つのことを大事にしました。

 

 この一年を振り返ってみると、1)礼拝、2)召天者合同記念礼拝、3)中止した諸行事、4)復興だより、5)ネットでの外部特別集会の視聴、6)週報等の届け、7)7つのグループ、8)クリスマス礼拝、9)シルバーサンホームでの宗教講話中止、10)祈祷会、11)来年度に向けての曽根担当教師の人事異動案などがありました。

 

 この年、新型コロナ感染のことで自ら行き詰まりを経験する中で、もっと大きな行き詰まりを経験している方々に思いを馳せるように導かれました。

 主につながり歩むことを通して、自分自身が支えられ恵まれることを通して、他の方々をもっと思いやり、互いに励まし合い、支え合って歩んでいきましょう。 

 

                         (久多良木和夫師)