2023年 2月

2月5日() 聖日礼拝 説教メモ

「見えないものに目を注ぐ」コリントの信徒への手紙二4章16-18節

 

★目と心

 私たちの目と心は動く

 自分の関心を向けるものを見る 

  新聞記事、ネット記事、ニュース、週刊誌の記事、テレビ 

   事件に関心、 映画、 山登り、 釣り、・・

  そこに自然に目が行き、心も向く

  いろいろな情報を手に入れる、 そこに関心が生き、そこで心がそこにいよいよ向かう。 

 自分のことが気になる。 人と比べての自分

  人が自分をどう見ているか、評価しているか

 私たちは、自由に見えて、様々なことに支配されている。縛られている。

  時にそれらが、自分の心を占める。 それに支配され、流されてしまう。

  

★落胆する

  心が上向きのこともあるが、下向きになってしまうこともある。

  落胆してしまう。 心が浮き上がって来ない。沈んだまま

  心がアップダウン 心が重い 錘(おもり)で沈む

  私たちの心は、大きく振り回されることがある。

 

★外なる人は衰え

○16節 

4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

見た目、外観  腰が曲がる  白髪が混ざる、抜け毛が多くなる

 年を取る 昔のようにではない  すぐ疲れる、 物忘れが出てきた

 人生の終わりが近い

  終活を考えざるを得ない、 どう人生を終えるか 

 難しい病に取りつかれる  難しい病になる

  それによって、日常生活に支障

  入退院を繰り返す。 入院生活が長くなる。 療養の身となる。

 苦労の末に、身体が弱る きつい労働、環境で、身体が弱る

 勢いを失う。 かつては勢いがあったが、今は勢いを失う。 かつては元気一臂だったが、今は元気を失う。

 

★艱難を経験する

  大変さを経験する  自分のこと、家族のこと

  事故に遭う、 病気を経験する。

  仕事を失う。 会社からリストラ、会社が倒産、・・

 使徒パウロ自身の経験

  福音を伝える宣教者としての歩みの中で、迫害を受けて苦しめられた。

○11:23-29

 11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。

11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

  どれだけ大変だったことか

 苦しみの中で、死を覚悟することもあったことでしょう。

 なぜ、このような苦しみの中を通らねばならないのか

  絶望感に支配されそうにもなったことでしょう。

  

★私たちはどうか? 

 私たちも、程度の差はあれ、苦しみを経験する。 重荷を抱える時がある。

 心が弱る時がある。

 このように衰えてしまった。 このような苦しみの中に身を置く

 どうしたら良いのか、このまま沈み込んだまま? 悶々とすることがあるかもしれない。

 

★日々新たに

 沈んだままではなく、浮き上がる。

 希望を失ったままではなく、新たに希望を受けて進む

○16節

4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

  疲れ切った体も、休息で回復する

 若い時のようにいかなくても、一晩ぐっすり眠ることで、そのたまった疲れが取り除かれる。 

 心の疲れは、一晩眠ったからということで、さっとは消えない。

 そのような私たちですが、日々新たにされ歩む恵みがある。

 それは、主イエスの恵みで、生かされること。

 「内なる人」とは?

  私たちの心を指すのでしょうか? 自分の心なのに、さまざまなことで窮屈になり、圧迫感でさいなまれる、いろいろなことで心が支配される。

 その心は疲れ切ることもある。

  その心をリフレッシュ

   自分で、時に、散歩、ジョギング、山登り、ショッピング、・・

  その心を主によってしっかり握っていただく。

  自分の心は自分でコントロール? それが難しい。

  自分の心を主と共に、主にお委ねしつつ、主の助けをいただきつつ。

 「内なる人」 それは主イエスを信じて歩む者を指す。

   主イエスを信じて歩み出した者のうちに、聖霊なる神ご自身が宿ってくださる。 主のものとして生きる。 主イエスが共にいてくださる。

  その恵みの中にある自分自身

  主は守り支えてくださる。決して見捨てない。

  共にあって導いてくださる。 道を開いてくださる。良い道へと導いてくださる。 内なる人は日々新たなにされる

  新たな力が与えられる、新たな希望が与えられる。

  

★今の歩みが向かうところ

 今の歩みは、どんな意味があるのだろうかと考える時がある。

◎17節 

4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

  今自分が取り組んでいることが、誰かのためになる、誰かの励みになるとするなら幸い。

 自分の歩みに何の意味があるのだろうか? 何の意味もないのではないかと思うとむなしい。 決してそんなことはない。

 自分は一人、むなしい そうではない 主が共にいてくださる。

 自分の歩みはどこに向かうか? 衰え、消えていく運命?

 そうではない、 天の御国へとつながる。

 主イエスのみ救いに与った者は、この地上において、主が見放さず、支えてくださる。

 やがて、ぽっと消えゆくのではない。

 この地上での生涯を閉じる時、扉が用意されている。

  天の御国につながる扉が開かれる。

  ぽっと消えゆくのではない。主の直接のご支配に御国に移される。 

 

★見えるものに目を注ぐ道

 見えるものに目を注ぎがちな私たち

 目を引くものは山とある、私たちの目と心をひきつけるものは多くある。 

 1)お金 お金は一番目が行きがち。大金を手に入れる

   お金に目がくらむ 大金を手に入れるためなら、どんなことでも

   今起きている広域、強盗事件 闇サイトの募集に乗ってしまう。

  その結果、人生を棒に振る。 あとで振り返ると後悔する。なぜ、あんなこ   

とをしてしまったのだろうと

 2)地位、名誉

   地位や名誉も目を引く。 地位を手に入れる、名誉を手に入れるためなら、どんなことでもやる。

 3)交友関係が広い

   友達が多い、自分の交友関係はとても広い、

   自分は、その中の中心だと考えてしまう。 第1線から退いたら、多くの

   関係者が潮が引くようにいなくなったということはよく聞く・

 4)自分は英雄だと考える。

   自分はヒーローだ、自分の将来は輝かしい。

   幻想を抱いて突き進む。 どこから大統領ではありませんが、その結果、多くの人が傷つき、苦しむ。ただの身勝手さ

   その自分の幻想を見つつつきすすむ結果、自分が破滅してしまう。そのこともわからなくなる。

自分は偉い者だ、自分を神のようなものと思い違う、自分こそヒーロ-

  自分は立派なものだ、実際にはただの者に過ぎない。

 

★見えるものには注意が必要

  見えるものに心動かされ、進みがちな私たち

  何が大事なことなのかと見極める必要がある。

  見えるものには、時に大きな落とし穴、罠がしかけられている。

  見えるものが、後には、私たちを支配してしまうことがある。にっちもさっちもいかなくなることがある。

◎18節

4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

 

★見えないものに目を注ぐ

 使徒パウロは見えないものに目を注ぐと。 見えないものは永遠に存続すると

 この見えないものとは何を意味するのか

 見えないものの一つ それは太陽の光

  すべていの色を含んでいるけど、通常はその光そのものは見えない。

  その色は、すべてのものに色を付ける。

  葉っぱの色が緑色なのも、バナナの色が黄色なのも、すべて、太陽の光の中で、その色以外を吸収し、その色だけを反射しているから。

 すべてのものが見え、いろいろな色があるのは太陽のお陰

 太陽の光の中に込められた熱エネルギー 地上のものは温まることができる。

 太陽の光のお陰で、植物は光合成をして、栄養を造り出すことができる。

 親の心の思い その中にある愛も直接には見えない。

  親の子どもを思う愛情、心配、 直接には見えないけれど、その愛、心配は確かなもの

 使徒パウロが言わんとしたかったこと、見えないものとは何か、誰のことか?

  それは、神ご自身、そして神の愛

  この地上のすべてを創造してくださったお方

  この地球を超えて、この宇宙のすべて主創造されたお方。

  そして、この地上に生きる私たちのために主イエスをお遣わしくださったお方。

 永遠の初めから永遠の終わりまでを支配しておられるお方

  その方は、私たちのこの肉の目では見ることができない。

  でも、確かにおられる。 そして、私たちに愛を注いでくださっている。

 どんな時にも見捨てず、共にいてくださるお方。

 私たちを引き上げ、助けて導いてくださるお方。

 その方を信仰の目を持って見続けた使徒パウロ。

 私たちもまた、使徒パウロに倣い、主なる神に目を注ぎつつ歩もうではありませんか。  ハレルヤ!

 

2月12日() 聖日礼拝 説教メモ

 「天にある永遠の住みか」 コリントの信徒への手紙二5章1-10節

 

★帰ることのできる家がある。

 帰ることのできる家があるということはとても幸せなこと

 家があって当たり前ではない。 家を持たない人もいる。

 家は幸いなところ そこに入れば、当然雨をしのぐことができる、風も防げる、寒さを防げる ゆっくり眠ることができる。 ありがたい。

 電気をつけることもできる。 夜も明かりをつけることができる。 本も読める。 テレビも見ることができる。 

 小さい子供の頃 どんなに夕方遅くまで遊んでも、家には母親が夕食を作っていてくれている。 今考えると、本当に贅沢だった。 共働きの家では必ずしもそうではない。

 遅くまで心行くまで遊んでも、夕食を食べることができる。 暖かいお風呂にも入ることができる。

 自分を待っていてくれる親がいるということは、なんと幸せであったことでしょう。

 

★健康な体

 体が健康であることはありがたいこと。

 普段は、そんなことは考えない。 いざ、病気になり体が弱くなると健康のありがたさをひしひしと感じる。

 三度の食事をおいしく食べられることも大きな感謝。 食事をおいしく食べられることも大きな感謝。

 体調が悪ければ、どんなにおいしい料理があったとしても、ほんの少ししか食べることはできない。

 

 

★地上の幕屋

 今日の聖書箇所では、私たちの体は、地上の幕屋と表現しています。

◎1-4節 

5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。

5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

   幕屋とは移動式のテントのことです。 天幕造りを生業としていた使徒パウロ

 天幕というのは移動式のテントのことです。

 羊の皮で作られていたのではないかと思います。

 雨風に打たれても、破れない。水を通さない、風を通さない。

 テントの強みは移動式である。石造り、木造りの家と比べたなら、折り畳みもでき移動もできる。しかし、一方、弱い。 年月と共に痛みが出てくる。

 破れることもある。 雨を通し、風を通してしまうようになる。

 直射日光、紫外線等で、少しずつ弱くなる。

 

★肉体は年と共に弱くなる。

 私たちの体 その健康も変わっていく。

 年を取れば、腰が曲がり、白髪が増え、しわが増える。

 ・背も縮ぢむ。背がもともと高い人は良いけども、私のように背が低い者はとても困る。

 ・年と共に、体は衰える。 疲れやすくなる。

 ・若い時のように、がむしゃらにできなくなる。

 ・山登り、ハイキングもきつい。階段の上り下りがつらい。

 ・膝が曲がらなくなった。 膝に水がたまるようになった。

 ・筋肉も細くなり、筋力も弱る

 ・物忘れが出てきた。 記憶力が減退する。

 ・いろいろなことをするにも、意欲が出てこなくなった。

 様々な衰えを経験する。

 自分の体が、自分のものでないように感じる。 年を取ると実感する様々な支障、弱り

 若さをだんだん失う。 年を取り、体は弱くなる。衰えていく。

 この体という時、肉体だけでなく、頭も。 いろいろ考える力も衰えていく。

 そして、もう一つ経験することが病気ということですね。

 自分は体には自信があった。

  その自分が糖尿病になった。体の一部が病気で冒された。

  消化器の病気、呼吸器の病気、ホルモンの異常による病気。 

  高血圧、自律神経失調、膝の病気、・・

  神経の病気、精神の病気になることもある。

 一つでも大変なのに、二つも、三つも抱える。

 病院通いの日々、薬をいくつも飲まねばならない。 入退院を繰り返す。

 長く入院しなければならない。 すっかり体が弱くなる。元気を失う。

 これからどうなってしまうのだろうか。

 この体はいつまで持つのだろうかと考えざるを得ない。

 肉体を与えられこの地上での生涯を過ごす中で経験すること。

 

★この体はいつまで持つのだろうか?

 年月を経たテントではないけども、この体は弱くなり、ボロボロ

 いつまで持つのだろうか? 元気で頑丈のはずだったのに、今は見る影もない。 

 この地上での生涯はいつまで残されているのだろうと考えざるを得ない。

 そこにあるのは嘆きであり、悲しみ。 どうなってしまうのだろう。

 そのような時、私たちは自分の体を支えていくしかない。

 そのような時、忘れてはならないことは、この体もまた天の神さまから与えられたもの。 この肉体も命もすべて神さまから与えられたもの 

 弱くなったとしても、病弱になったとしても、神さまに祈りを捧げつつ、歩みのです。

 神さまにお祈りをしつつ、日々進んでいきましょう。

 主よ、支えてください。強めてください。

 元気な時の体も、こうして弱くなった体も、神さまから与えられ支えられています。 主よ、感謝します。 天の神さまにお祈りを捧げつつ、歩むのです。

 

★私のこの体に与えられているもの

 それは命です。

 この体を肉体と精神、心が与えられています。

 その肉体も精神、心、しっかりして強い時もありますが、そうでないとき、台風のような強風で大きく揺さられて、頑丈な木の枝が折れるように、弱り果てることもあります。 木の枝は折れても、また枝を伸ばすことがあります。

 肉体も、日々、何億という細胞が新しく入れ替わっています。

 この肉体には、免疫力が神さまから備え与えられていて、病に打ち勝っていくことも多くあります。 すべて嘆きで終わらないようにしましょう。

 主よ、あなたによって、与えられているものを持って、なお満たしてください。 回復の恵みを与えてくださいと願いつつ歩んでいきましょう。

 

★キリスト者に与えられるもの

 主イエスを信じる者に与えられる最も幸いなもの それは何でしょうか?

 それは、何よりも主にある平安ではないでしょうか

  どんなことがあっても起来ても、主にあっての平安

  主が共にいてくださる、決して見離されないという確信

 そこに与えられているものは永遠の命です。

 その平安の源は何でしょうか?  それは主の御霊です。聖霊なる神です。

  主を信じ受け入れた者に与えられる聖霊。 それは神の命です。 

◎5節

5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証としてを与えてくださったのです。

  霊を与えていただいている。その幸いを心にとめましょう。

 

★この地上での歩み

 この地上での歩み

  その人生の長さはそれぞれ違います。

  生まれた国も、その生活環境も家庭環境も、違います。

  その置かれたところで、そう歩むか、そう生きるかは大切なことです。

 恵まれた幸せな環境もあるでしょう。 いろいろなことで満ちている。

 その反対に、恵まれない不幸と思える環境もあることでしょう。 これもない、あれもない、大変な劣悪な環境もあることでしょう。その置かれたところで生きていくしかない。

 環境のせいにしたくなることもあるでしょう。

 こんな恵まれない環境に置かれたことを恨み、それを理由にして投げやりに歩む人もいるでしょう。 反対に、そのような大変さの中にも関わらず、前向きに歩む人もいるでしょう。

 どのように歩むかは大切なこと。 真実に歩みたい。

 そう考えていた自分が、その全く反対な歩みの中に身を置く者になった。

 真実の反対、それは不真実です。 人をだます、人をだまして、その人の大事なものを奪う、それを何度もしているうちに、最初はやばいと思っていたことが普通になる。

 人をだましてその人の大事なものを奪うことに最初は良心の呵責を覚えていたのに、その意識もなくなる。

 このような楽をして、短時間に何十万、何百万を手に入れる。

 自分が汗水を流してではなく、人が汗水流して稼ぎ貯めたものを、詐欺で奪い取る。 不正をして、稼ぐ。 見つからなければ良い、とにかく、自分が良いものを手に入れればそれで構わない。 その相手が、その後、どう苦しもうが関係ないと考える。

 人を傷つけ苦しめる。 人の道を外れて歩み続ける。

 これが俺の道、これが私の道 それでよいのでは決してない。それで済む者ではない。

◎10節

5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 人は、すべて、最後には、キリストの裁きの座の前に立たねばならない。

 今は戦争だから、何をしても構わないと考えるでしょうか?

 人の道を外れたことを平気で行う。 戦争なのだからは、神の前には理由にならない。

 主を信じているものであっても、主なぞ、知らないと主を信じないものであってもすべての者は、最後の最後、どのような歩みをしたかが問われる。

 死んだら、そうせ、すべてが帳消しになる、悪いこと、間違ったことであっても、いろいろしてもかまわないのか? 裁きの座がある。 報いを受けねばならない。

 間違った道に歩んだ者は、その間違った道から、戻らねばならない。

 間違ったこと、不真実、不正、人を苦しめる歩みはやめる必要がある。

 主の助けがありますように!

◎7-9節

5:7 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。

5:8 わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

5:9 だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。

 目に見えるものによらず

  目に見えるもの お金、持ち物、財力、権力、身分、地位  それらに引きずられる

  信仰によって歩む 目に見えない方 神ご自身、神の愛に目を向けて歩む。

   その歩みの中で、大きく軌道修正される。

 神の愛を受けている自分は、どう歩んだら良いのだろう。

 主より助けと励ましをいただいて、主に喜ばれるように歩みたいという願いが起こされ、助けをいただいて、その道に歩み出す。 それは幸いなこと。

 

★天にある永遠の住みか

 地上の住みかである幕屋は古び、滅びていく。 肉体と精神、心が弱るだけでなく、滅びていく。すなわち、命の終わりを迎える。

 それは、考えられないこと

 自分という存在がなくなるということ それはどういうことなのか

 消滅してしまうということなのか? 死んだら、すべてが終わり消滅してしまうのか。 もし、そうなら、自分が生きている間は自分がやりたいことをすれが良いと考えるのか?

◎1-5

5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

5:2 わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

5:3 それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。

5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。

◎口語訳

5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。

5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。

5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。

5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

◎新改訳

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。

5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

 天に住まいが備えられている。 天から与えられる住みかがある。

  それは、地上のテントとしての住まいである肉体とは違い、朽ちない肉体

 復活の命

 天に永遠の住みか、永遠の家が用意されている。

◎ヨハネによる福音書14:1-6

14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 父なる神の家には住むところがたくさんある。

 主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた救いの完成のゆえに。

 天にある永遠の住みかあり。

 天に永遠の家あり

 復活の命を与えられて、主の御そばで永遠に生きる。

 その大いなる恵み、その幸い

 それは、主より与えられるもの、着せていただけるもの

 この地上の肉体は弱り果てていったとしても、天上に永遠の住みかが用意されている。 なんという幸いでしょう。ハレルヤ

 

 

2月19日() 聖日礼拝 説教メモ

「キリストの愛が私たちを コリントの信徒への手紙二5章11-15節

 

★何のために生きるのか?

 生きる日々の中で、ふと何のために生きるのかと考えることがあるかもしれない。 普段はそんなことは考えない。生きているから生きる。

 何のために生きるかは考えない。

 これがしたい。これを手に入れたいと願い、歩む。

 日々の歩みの中で、何か喜びがあれば、一番と思って歩む。

 

★誰のために生きるか

  誰かのために生きるかなど、考えたこともない。

  もし言うとしたら自分のために生きる。 自分のしたいことをする。 これを手に入れるために歩むのだ。 自分がすべてと考えることもある。

  一方、この人のためにという思いも時に与えられる

  この目の前のこの人のために。

  目の前で苦しんでいる人、困っているこの人たちのために。

  日本で、時に海外にまで出かけることもあるかもしれない。

  自分の幸せだけのためでなく、この人たちの幸せのために。

  自分の家族のために、子どものために、孫のために。

  親が亡くなり、いなくなったら、その子どもはどうなる?

 様々な道があるが、祖父母が、祖父が、祖母が面倒を見るということがある。

   老骨に鞭打って、孫のために

  自分のために生きることも素晴らしい、また、誰かのために生きることも素晴らしい。 自分が持っている時間、エネルギーを、自分だけのためでなく、誰かのために用いる。 それは大変なことも多いが、幸いなこと。

 

★使徒パウロは、だれのために生きたのか?  

 彼は、復活の主に出会って、生き方が変えられた人の一人。

 その後の歩み。

◎13節

5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。

 彼は、二つのことのために生きた。

  第一は、目の前の人たちのために 主イエスを信じて歩むクリスチャンのために。 まだ、主イエスを知らない人たちのために ただひたすらに。

  第二は、神のために生きた。

  神の御心を追い求め、教え示されたことをなした。 神のしもべとなり、宣教者となって歩んだ。 自分がこう思ったから、こう考えたから、こうするのではない。 それだけならば、時に暴走してしまう。 

  神の名を用いて、自分のやりたいことをやる。自分勝手に、自分の教義を作り、自分が神になってしまう。その結果、多くの人が苦しむことにもなる。

 

◎11-12節 

5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。

5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。

 神にすべてを知っていただき、真実に歩む。

  間違っていたら正していただく。 目の前の相手に対しても、真実に歩む

  自分の本当の正体を隠して事をなす。 時にそれは、偽り、ごまかし、詐欺ということに陥ることもある。 自分の姿、正体を示しつつ。 さらけ出しつつ。

 

★私たちは捕らえられる。

 私たちは時に捕らえられる。 それは、何か悪いことをして警察に逮捕されるとか、イノシシのように、仕掛け罠にかかって、捕まえられるということではありません。

 何かに夢中になる。 はまってしまう。 いろいろなものにはまりますね。

  グルメにはまってしまう。 食べ歩き

  走ることの快感 

  ゲームにはまる  楽しいゲーム。何時間でもやる。 楽しくて仕方ない。

  あるものコレクション

   あるものを集める。 

  料理研究 おいしいものを作ることに熱中。 いろいろなものを作る。食材の研究 これは、自分も楽しめるだけでなく、誰かに食べてもらい喜んでもらう。

  映画、ビデオ鑑賞

  素晴らしい作品に感動して、また、ほかの作品にと熱中して、時を過ごす。

  そのことで、自分を忘れる。 ストレス発散になる 悪いことではない。 良いこと。 でもそれに熱中しすぎて、多くの時間を取られてしまう。 それがすべてになってしまうこともないわけではない。

 

★悲しみに捕らえられることがある。

 人は、私たちは、時に悲しみに捕らえられることがある。

  それは深い悲しみ、 時々襲ってくる悲しみ。

 なぜ、こんなことになってしまったのか、なぜあんなことが起きたのか

 なぜ、この私の人生にあのようなことが起きたのか

  自分が経験した大変さ 自分の家族が経験したこと。

  もう過去のこと でもそのことを思い出すと悲しみが自分を包む。

  今も続いている大変さ その大変さの中で、悲しみに押しつぶされそうになる。 悲しみの感情 それはいつも自分を包む そして、悲しみの中に沈みこませる。 あの時、どうしたあのような行動をしてしまったのだろう。なぜ、あんなことをしてしまったのだろう?

 なぜあんなことを言ってしまたのだろ? なぜ、こうして上げなかったのだろう? 後悔の念を時に抱く。 もう過去には戻れない、その過去のことを思い出すと悲しみに包まれることがある。

 悲しみとどう付き合うかは、私たちの課題 

  

★憎しみに包まれることがある。

 憎しみの相手がいる。 あんなひどいことを言われた、あんなひどいことをされた。 そのことで、この自分、自分の家族が受けた悲しみ、苦しみ。 地獄のような悲しみ、苦しみ。

 相手が許せない、あの人を許すことはできない、あの人たちを許すことはできない。

 昨晩 NHKスペシャル「キーウの子どもたちの冬」というドキュメント

  後半だけ見た。 ウクライナの首都キーウに住む子どもたち

  子どもたちが抱える苦しみ

  あんなひどいことをしたロシア人は決して許せないという思い、感情

  ミサイルが次々と打ち込まれ。目の前で、家が町が破壊された。何より、愛する家族が死んでしまった。愛する同級生が亡くなってしまった。

 目のまえで起きた。 命を失い、焼け焦げてしまった。 その場面に身を置き、 その悲しみを味わった、その焼ける臭いを嗅いだ。決して忘れることはできない。 憎しみの感情、思い。

 小学校、中学校、高校 その授業の様子

 学校の先生と子供たちの様子が映し出された。

 子どもたちの受けた心の傷、そして持ち続けている許せないという強い思い、感情 先生は語る。 「憎しみは相手を滅ぼす、そしてそれと同時に自分を滅ぼす。」

 ある一人の少年  自分は高校を卒業したら、軍隊に入りロシアと戦うのだ。 相手を打ちのめすだと 心配する母親

 その少年の父は、ウクライナの東部戦線で、敵の砲弾によって大けがをして瀕死の重傷  その少年は、ますます、怒りと憎しみ

 父親は大丈夫なのか 連絡が長くつかない。

 母親がまだ入院治療を受けている父親に会いに行く。 その先でテレビ電話がかかって来る。 父親の安否がわかりホッとする少年と姉妹

 その時に少年は一番聞きたかったことを思い切って質問をする。

 「お父さんは、軍隊に入って戦争の只中にいる。お父さんは。何のために戦うの?、ロシア人が憎くないの?」

 父親は応える。 「ロシア人がすべて悪いわけではない、ロシアの人の中にも良い人はたくさんいる。お父さんが戦うのは、この戦争を一日も早く終わらせたいからだ。子どもたちに戦争を体験させたくないからだ」と。

 その少年の父親は、ロシア人が憎くて戦争をしているのではない。

 この戦争を一日も早く終わらせるために。 ウクライナに平和が戻ってくるために。 その少年の心は揺れ動く。 高校を卒業したら、どのような道を進んだら良いのかと。

  

★悲しみ、憎しみの渦が私たちに迫って来る

 その中に巻き込むことがある。 その中で、もがき苦しむ私たち。

 どうしたら良いのか?  いくら考えても答えが見つからない。 その渦の中で悩み、苦しむ私たち。

  

★キリストの愛

 使徒パウロにとって、神とは、キリストとは?

 そのことが、14-15節に記されている。

◎14-15

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。

5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

 神の愛、キリストの愛が彼自身を駆り立てている。

 他の訳では?

◎口語訳

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

 

◎新改訳

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 キリストの愛が、駆り立てている。キリストの愛が強く迫っている。キリストの愛が取り囲んでいる。

 キリストの愛がパウロを突き動かしている、キリストの愛が間近にある。

 キリストの愛が取り囲んでいる。

 ケズィックコンベンションの早天聖会のメッセージの最初に寒波対策のことを少しだけ触れた。 私のこの冬の寒さ対策 長袖の暖かいシャツを着ることと毎朝一枚、服の上から貼るカイロを貼ることということを伝えた。

 寒い時、体に寒さを覚える時に、焚火に当たる、暖炉の日の前で体を温める、暖かいお風呂に入る。 冷え切った体が温かくなる。

 寒い寒いと震え続けなくても済む。

 かつては、自分思いだけで歩んで行ったパウロ、かつての名前サウロ

  クリスチャンたちを次々捕らえ牢の中に投げ込んだ。

 そのサウロが復活の主イエスに出会い、回心する。パウロという名前になる。

 サウロは大きい者、強い者、偉大な者という意味がある。

 パウロは、小さい者という意味がある。 大きい者から小さい者に変えられて行ったパウロ

 自分ですべてやる、自分がすることに間違いはない、このなすことを神さま、見ていてくださいと豪語していたサウロ

 パウロになり、自分のできることをさせていただく、自分のすることにもいろいろ間違いがある。神様、正してください、正しく歩めるように導いてください。と

 神様、あなたの御心はどこにあるでしょうか? あなたの御心に沿うことができるように助けてください。そのように歩ませてくださいと

 

○使徒言行9:1-22

 

 あの時、あのダマスコの町に向かう途上で、神はこの私と出会ってくださった。 神の愛が、この私をとらえてくださった。

 神の愛は、この自分を滅ぼされなかった。 あの時、三日間、目が見えなくなったが、その後ずーとではなく、目が再び見えるようにしてくださった。

 アナニアを遣わして、頭に手を置き、癒してくださった。

 キリストの愛が、駆り立てている。キリストの愛が強く迫っている。キリストの愛が取り囲んでいる。 

その恵みの中で生かされた使徒パウロ

 私たちに対しても、あなたに対しても、神の愛は臨んでおられる。

 

★キリストのために生きる

 使徒パウロは、変えられた。 キリストのために生きる者になった。そのように変えられた。キリストの愛に生かされ、キリストのために生きる者となった。

自分のためだけに、自分の思いだけ生きる歩みから、キリストの御思いを伺いつつ、神に自分がどのように歩むべきかを尋ねつつ、歩むようになった。

神が願っておられることを、心にとめ、それにできるだけ、沿うように歩むように変えられた。

 キリストの愛が、私たち一人一人に、あなたを駆り立てています。

 強く迫っています。取り囲んでいます。 ハレルヤ!