2023年10月

 10月1日() 聖日礼拝 説教メモ

    「あなた方の信仰と希望」  ペトロの手紙一1章13-25節 

 

☆良きもの

 良きものを求め、良きものを手に入れ、その良きものと共に歩みたい。

 ある人にとっては、それは一生かけて学ぶ学問である。その学を深める。

 あることの研究に生涯を費やすこともあるでしょう。 病気の治療、病気に対しての新薬 この仕事、この仕事に生きがいを持ち、それに打ち込む。

 友との出会い、伴侶との出会い

  親友と呼べる人を持っている人は幸い、助け合って歩む伴侶 子ども、また孫 ペット 家で飼っている犬や猫 かつて飼っていた犬や猫

 自分を生き生きさせる趣味 それらの良きものをもって歩めることは幸い。  

☆それぞれの生涯で大切にするもの

 これこそ、大事にしたい。 それがその人を生き生きさせる。

  自分が持っている良いもの、自分が出会ったその良いものを大切にする。

 ある人は、他の人に幸せを求めて、大きな喜びを心に持つ。

 

 

☆本日の説教題は、「あなた方の信仰と希望」

 信仰 これこそ大切なもの、これこそ信頼する者、この方こそより頼むべき方

 希望 今を生かすもの、将来に向けての明るい光 このことを心にとめる時、大きな喜びとなるもの

 信仰、希望はとても大切なもの それを持っていない時、不安であり、恐れが心によぎる。不安や恐れが心を占める。 人生における不安や恐れ 一時的なものもある、一方、長くそれに付き合うこともある。それと向き合い、苦悩することもある。

 信仰、希望をしっかり持ちたいものです。

 

☆信仰、希望を超えるもの

 信仰、希望を超えるものはなんでしょう?  聖書が示すもの その箇所があります。 キリスト教式の結婚式でもよく開かれる聖書の個所

○コリント一13:13

  13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る、との宣言。

 信仰こそ大切だと主張する信仰者がいたとする。しかし、愛がないならそれはむなしい。

○コリント一13:1-3

 信仰、希望を超えるものは愛であると聖書は告げる。

 

☆信仰、希望を支えるもの

 もう一つの問い、信仰、希望を支えるものは何ですか? どう答えるでしょうか? 信仰、希望は自分が持つもの、その本人である自分ではないかという答えもあるかもしれない。 自分がしっかりしていることが大切だ。

  自分がしっかりと信仰の心をもって歩むこと。 自分がしっかり希望を見つめ、心にとめて歩むこと。 その通りという面も大きい。

 今日の聖書箇所が教えることは、そうではない。

◎21節

1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

  信仰と希望とは神にかかっている。 その信仰と希望を支えているものは神である。

 その神はどのような方か? それはとても大切のこと

 その神が、ある期間はいてくれたのに、ある期間が過ぎたら、どこかに行ってしまった、。消えてしまったというならそれは困る。

 その神が、もし、こうせいよ、ああせよと指示ばかりするような存在だったら、その指示に従い続けなければならない、疲れきってしまうことでしょう。

 聖書が指し示す神とはどのような方であるのか?

 

☆復活の神

 復活の力を持つ神である。 復活の主である。

 復活は幸いのこと もうだめだと思っていたものが蘇ることは幸いなことですね。

 傾いていた店が、勢いを回復して勢いを増したならうれしい。

 これはもう処分ものだ。それをもう処分して捨てるだけだと思っていたものがリサイクルされる。 これでもうだめかなと思うものが、もう一度力を発揮することは嬉しいこと。

 復活の力を持つ神は、イエス・キリストを復活させてくださった。

 十字架につけられ殺されてしまったイエスを、復活させてくださった。

 十字架にかかって死なれたイエスは、その3日後に蘇ってくださったお方。

 

☆復活の主の恵みを受けて

 復活の主の恵みを受けて生かされる。 望みえない時に、望みを持つことができる。とができないような状況の中にあっても、希望を持つことができる。

 希望を持つことがとても難しい状況の中に置かれることがある。

 人生の歩みにおいて、希望が根こそぎ取り除かれるような出来事、状況 もはやこれまで。 思っていたようには事が運ばない。思い通りには事が運ばない。 自分が取り組んできたことが、挫折するということもないわけでない。

 これがあるから大丈夫だと思っていたのに、この人がいるから大丈夫だと思っていたのに、それを失うということも時に起きる。  

  順調に進んでいた事業が傾いて、倒産してしまうということもある。

  自分自身が、突然弱くなる。 年齢が進み、今までできていたことに自信がなくなる、できなくなる。 突然の病気 

  大きなストレスが続き、精神的にも不調になることもある  

 あの日本の短距離界のホープの一人桐生祥秀(きりゅうよしひで)も、潰瘍性大腸炎になって療養の期間を過ごしたと聞いている。また、元気になり走っている。

 ああここまでかと思えるようなことを私たちも経験することがある。大きな行き詰まり、困難。 自分の力では、どうすることもできないような事柄に遭遇することがある。 そのような時にも、助けを受けて進みたいものです。

 

☆パウロの告白

 それは、過去における歩み

◎14節

1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、

 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順なことなりと

 それは、裏を返せば、キリストと出会う前 欲望に引きずられていた。

  様々な欲望 渦巻く欲望 それが自分をあらぬ方向に導き、深い沼に引きずりこむ。

  自分で制御できるように思えてできない。そのことで人生がめちゃくちゃになることもないわけではない。

  ギャンブル依存になってしまう。 ギャンブル、楽しくて仕方ない。ここまででやめておけば良いのだが、もう少し、もう少しと、だんだん深みにはまってしまう。

 ギャンブルだけではないですね。様々の欲望が私たちの歩みを狂わせることがありますね。

  パウロ自身は、かつてサウロという名の時代には、キリスト者に対して激しい迫害に息を弾ませていた。

◎18節 

1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、

  先祖伝来のむなしい生活

  先祖からの言い伝えに従い歩んでいた。 この言い伝えに従えば大丈夫だと

  みんなそのように歩んでいる それがユダヤ人としての生き方 日本人としての生き方 でも、むなしい生活だったと告白している。

 なぜ、むなしかったのか、本当の人生の喜び、感謝、希望につながらなかったということではなかったか。

◎24節

1:24 こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。

  人は草のようだ、花のようだ。 華やかさをいつか過ぎ去ってしまう。消え去ってしまう。

 

☆生かす主の言葉

 生かす確かのものがある。それは神からの言葉。

◎25節

1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

 変わってしまうもの、一時的なものに依り頼むことはできない。

 願わくば、確かなもの、根拠あるもの、一時的ではなく、永続するものに依り頼みたい。 主の言葉は永遠に変わることはない。

 永遠の初めから存在しておられ、永遠から永遠を支配しておられるお方。主なる神に依り頼むことは幸いなことです。

 その方のみ旨を記した聖書の御言葉、この主の言葉に聞いていきましょう。

◎23節

1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

 主の言葉は、神の変わることのない生きた言葉です。

 聖書の御言葉、それは神の言葉であり、朽ちない種です。 命を産み出す種です。 私たちの内に命をもたらす御言葉です。

 

☆受けた大いなる恵み

受けた大いなる恵みがある。

◎18-19節

1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、

1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

 贖われた 難しい用語

 奴隷の身にあるものが自由にされるために支払われる身代金 それがすべて支払われた。 そうすると、その奴隷は、奴隷の身分から解放され、自由の身となる。 神が、イエス・キリストの血潮をもって、罪の代価、借金をすべて身代わりとなって支払ってくださった。 すべての罪が赦されたという意味です。

◎22節

1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

  魂が清められた。

 心の奥底、心の中心にある魂を人は自分で清めることはできない。その魂を神が清めてくださった。 魂が新たなものとされた。

 そして、偽りのない兄弟愛を抱くようになったとパウロは告白する。

 その恵みを受けたのですから、感謝しつつ、清い心で、深く愛し合いなさいと語っています。

 

☆勧め

 こうありなさいと勧められている。

◎13-16節

1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、

1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 主イエスの再び来られる時に与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。

 聖なる神に倣って、生活のすべての面で聖なる者になりなさい。

 主の御心に沿って、歩み続けなさいと。

 

☆あなた方の信仰と希望

 あなた方の信仰と希望は神にかかっている。

◎21節

1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

 その神は、永遠を支配しておられる力ある神、愛の神。

 私たちを愛し助け導いてくださるお方です。

 

 その主が、私たちの内にある信仰と希望を支え守ってくださいます。ハレルヤ!です。

 

 10月8日() 聖日礼拝 説教メモ

    「天からの命のパン」  ヨハネ福音書6章33-40節 

 

☆生き物の成長

 生き物の誕生 その生き物の成長 それは感動

 牧師館のベランダでカメを飼っています。

 毎年数匹ずつ子ガメが誕生する。そのカメを数カ月飼い、育ててみたいという方に差し上げて来た。 夏前に土の中に産み付けられた卵が、1ヵ月半ほどでしょうか、卵からかえって、土の中から出てきて、ベランダをひょこひょこと歩いている。それを拾い上げ、容器に入れます。 それを育てます。

 

☆鳥類や哺乳類

 爬虫類は、親は生まれて来た赤ちゃんの世話をすることはありません。

しかし、鳥類、哺乳類は、生まれて間もない赤ちゃん鳥、赤ちゃんの時は、親が、体温が下がりすぎないないように温める。餌を与える、乳を与える。そして大きくなる。

 

◆NHK特集 鶴になった男~釧路湿原 タンチョウふれあい日記~

 昨日午後、以前放送されたドキュメント放送 年度:1987年度

北海道・釧路湿原に生息する日本を代表する野鳥タンチョウ。一度は絶滅したと考えられていたが、再発見後、手厚い保護が続けられてきた。高橋良治さんは、釧路丹頂鶴自然公園で30年にわたってタンチョウの保護と人工飼育に取り組んできた。

釧路湿原に雨が振り、地面に巣を作るタンチョウには危険な時期だ。卵が雨で濡れると孵化を止める親鶴がいるので、代わりに高橋さんが人工孵化をするという。

これから孵化する雛鳥のために、餌を調達した。湿原で体長が小さい魚を捕まえる。

タンチョウは外敵から雛を守っている。高橋さんは、鶴の親を真似て雛を守る。その後、雛は元気に育ち、親鶴と同じ大きさになった。公園に住む鶴は親に習って飛ぶ練習を始めた。高橋さんも鶴の雛に飛び方を教えるそうになった。高橋さんは雛のために、毎日猛ダッシュし練習に付き合った。そして遂に飛べるようになった。そして、雛から育て上げたタンチョウが旅立った。

 

☆子どもは親の愛と親の世話を受けて育つ

 鳥類であれ哺乳類であれ、赤ちゃん、子どもは親の愛と親の世話を受けて育つ。

 人間である私たちも親の愛を受け、親の世話を受けて育ち大きくなった。

 赤ちゃんの時、乳幼児の時のこと、ほとんど覚えていない。でも確かにその時に自分に愛以上を注ぎ、世話をしてくれた人がいた。

  親であるかもしれない、祖父母であったかもしれない、それ以外の人であったかもしれない。 その愛情と具体的な世話があった。

 

☆愛する者に対して

 愛する者に対して、その必要に応えたいと思う、必要なものを与えたいと願う。 それは、神が私たちに与えてくださっている心

 それは、本能ということもあるし、その心を自然に学ぶということもできる。

 その元には、神がその愛をお持ちの方であるから。 神という存在を聖書は告げます。

 神は永遠の初めからおられたお方、神は、力あるお方、愛のお方。

 全宇宙を創造された、私たちの住むこの地球も。それは偶然の出来事ではない。 神の意志がそこにあり、神の知恵を愛によるもの。 

 この地上に生きる私たちに対しての神の愛。

 

☆愛は行動する。

 その愛が本物である時に、愛は行動に移る。

 愛する者が弱っていたら、心配し一生懸命世話をする。

 赤ちゃんや幼子が熱を出したら、親は、特に母親は一生懸命、頭を冷やしてあげ、熱が下がるまで世話をする。

 おなかがすいて泣きだしたら、ほったらかしにはしない。そのおなかを満たすべく、母乳を挙げ、ミルクを挙げる。食べ物を挙げる。 愛は行動する。働きかける。

 

☆神の愛は働きかける愛 

 今日のメッセージの題は、「天からの命のパン」と付けました。

 聖書の中に、パンを与えるということで記事がある。

 1つは、旧約聖書の中の出エジプト記に記されている。

○出エジプト記6章1-36節

 エジプトの奴隷の苦しみから救い出されたイスラエルの民、しかし、民は、つぶやき、不平不満 おなかがすいた、かつていたエジプトの方が良かったと言った。

 それに対して、神は毎日の食べ物を夕べにはウズラを、朝にはマナと呼ばれるパンのようなものを与えてくださった。

 毎日の食べ物を与えてくださった。 神の愛、憐み、忍耐。 それはカナンの地に着くまで40年間続いたというのです。

もう一つの出来事が、新約聖書の福音書に記されている5つのパンと2匹の魚の奇跡の出来事

○ヨハネ6章1-15節

 主イエスによって、5つのパンと二匹の魚を何千倍にも増やす奇跡がおこなわれた。 人々の空腹は満たされた。

 

☆神の愛は、注がれている。

 神の愛は上から注がれている。

 私たちは、何か問題を抱えた時、思わず上を仰ぐ。どうしたら良いのだろう。何か良い方法はないものかと。 上からの知恵を仰ぐ。

 どうしたら良いですか? どうか解決したら良いですか? 良い道はないですか?と  必要を満たしてくださいと願う。

 神は、私たちの窮乏をご存じである。 今抱えている問題、課題を

 その問題、課題に対して、良い道を備え、導いてくださる。

  どうなるかわからない時、一番不安、恐れ

 その時に必要なものが2つある。

  一つは、その問題、課題が解決されること。 それは本当にありがたいこと、 問題解決。 これほどうれしいことはない。 平安と喜びが回復する。

  もう一つは、その問題、課題が進行中だとしても、それが解決されていないとしても。 共にいてくれる存在があるということ。

  自分は支えられている、見捨てられていないという思い。 これは力強い。

 

☆神の愛は、天からのパン

 神は天からパンを与えてくださった。

 そのパンとは、どういうものなのか? それは世に命を与える。

  この世に生きる私たちに命を与えるもの まさに、今日の聖書の御言葉

◎ヨハネ福音書6:33―35

6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。

6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 そのパンは命のパン そのパンを食べる者は飢えることがなく、渇くことがないという約束。

 おなか一杯、ご飯を食べる、パンを食べる、ご馳走を食べる。でも、数時間、半日過ぎれば、おなかがまたすいてくる。

しかし、そのパンを食べる者は、決して飢えない、決して渇かないという。

 そのパンは、命のパンであり、不思議なパン、不思議な食べ物。

 

☆そのパンこそ、主イエス

 人生は素晴らしい。いろいろな出会いがあり、いろいろな体験をする。

 そこに喜びがあり、醍醐味がある。 一方、行き詰まりや困難をも経験する。

 どうしたら良いのだろう、難しい、これはもうおしまいだと感じることもある。 大きかった希望が急にぺしゃんとなったりする。 不安と恐れを感じる。そのような私たちを、神はご存じである。そのような私たちを神は心配してくださる。

そのような私たちを助けたいと願っていてくださる。

神の取られた方法、それこそこの命のパンである主イエスを与えるということ。

 

☆その命のパンである主イエスを心に迎え入れる。

 その人の内に新しい命が宿る。その方の命を受け生きることができる。

 この世が与えることのできない命

 その命が息づいて、その後の半生を歩む。 それは最も幸いなこと。

 

☆一人の方のこと

 その方は、前任の都農教会の教会員の方でした。

 その方のおじいさんが、大正の時代でしょうか、若い時に九州から京都に行き、そこで過ごす中でキリスト教信仰を持った。

その息子、すなわちその方のお父さんは、若い時にキリスト教信仰を持った。熱心なクリスチャンとなった。

 その方は、小さい時から、キリスト教のことは知っていた。でも、キリストを信じることはしなかった。 やがて素敵なクリスチャンの女性と結婚した。

 それでも、クリスチャンにはならなかった。信仰、教会は妻に、また信仰熱心な両親に任せておけば良いと考えていた。

奥さんの熱心な祈りを受けつつ、商売に打ち込んだ。電気屋という割と大きな会社を経営していた。 

 しかし、50代になって、自分にないものを心にとめたのでしょうか、奥さんの勧めもあり、洗礼を受けてクリスチャンになった。

その方は、キリスト教信仰を持ち、大きな平安を経験した。

 キリスト教信仰を持つ前は、会社経営、社長として活躍していたけども、いろいろな思い煩い、焦りがあり、平安があまりなかった。

 信仰をもって、任せ、ゆだねることのできるイエス様がおられる、天の神さまがおられるという平安が与えられた。

信仰を持った後、肺の一部切除という大きな手術を受けなければならないことがあった。

 大きな手術を受ける。すべてをお任せすることができた。大きな大きな平安。

 すべてを支配しておられる神さまにお祈りして、すべてをお任せして手術に臨み、術後の回復も主が最善をなしてくださると信じて、大きな平安があった。

そして、つくづく、もっと早くキリスト教信仰を持っていれば良かったと話した。

 その方は50代でクリスチャンとなり、それからおよそ30年歩まれた。

 それは幸いなことでした。主の平安に包まれて天の御国に戻って行かれた。

復活の主イエス、生ける主イエスと共に歩まれた。

◎39-40節

6:39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

6:40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

 天の神さまの御心を心にとめつつ、歩まれた。

 主と共に歩んだ後半生であった。

 神の約束された御国を仰ぎつつ,希望と平安をもって、この地上の生涯を全うされました。

 

☆あなたも、この天からの命のパンを受け取ってください。

 

 あなたも、ぜひ、この天からの命のパンである主イエスを心に信じ、受け入れ生きる者になってください。

 

 10月22日() 聖日礼拝(曽根会堂) 説教メモ 

    「死から命へ」       ヨハネ福音書5章19-30節

 

☆遣わされる。

 自分から出かけることも尊いことですが、遣わされることはもっと尊いことです。 なぜでしょうか? 遣わされる理由があるからです。

 この働き、使命のためにあなたを遣わすと任命されたなら、その働き、使命を成し遂げる必要があります。

 

☆主イエスは、父なる神から遣わされました。

 遣わした先はこの世です。この私たちが住む世界です。

 罪と闇に満ちたこの世に、主イエスは父なる神から遣わされたのでした。

 遣わす者が真実な者であるなら、その働き、使命の結果もさることながら、その遣わした者のことを心配する。全然知らない人ではなく、知っている人、良く知っている親しい人を遣わしたなら、その遣わした人のことが気になる。

 その遣わす者が、自分の子どもなら、もっともっと気になる。

 

☆遣わされた主イエスは、その働き、使命に向っていった。

 主イエスの働き、使命 それは、この世で苦しむ私たちを救うこと。

 5:1-18

 38年間、病で苦しんでいた男の人 彼の周りの人は次々と癒されていくのに。彼はずっと病で苦しんでいた。

 その人に良くなりたいのかと尋ね、憐れんで、主イエスは安息日の日に癒してあげられた。 それは、その男の人にとってはなんと嬉しい日であったことでしょう。

◎17節

 5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

 主イエスは、この地上で働かれました。 それは、孤軍奮闘ではありませんでした。父なる神と共に働かれたのでした。 なんと麗しい関係でしょう。

 

☆父なる神と子なるイエス

 父なる神と子なるイエスとの関係 それはなんと麗しい関係であったことか。

 三位一体の神Triune God The Holy Trinity です。

 父なる神、子なる神、聖霊なる神  その三者が一つとして働かれる。

☆父が自分の子どもを何かの働きに送り出すとしたなら

 安否を心配しつつ、その働きが守られるように、毎日お祈りする。

 その前には、大切なことを伝える。

  これはこうするのだと、このような時にはこうするのだと教える。

  子どもは、親から聞いて学ぶ、見て学ぶ。

 そのような時を十分持って、送り出す。送り出されて行く。 

◎20節

 5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。

 父なる神はご自分のなさることをすべて子なるイエスに示される。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。

 すべてを示し教えられる。 そして、より大きな業を教えられる。

 

☆裁き

 裁き、これは一番厳粛なもの、恐ろしいもの

 人からの裁き 怖くいないと言えばうそになる。人からどう判断されるか、そう思われるか、どう判定が下されるか やはり怖い 自分が不安定であると、余計怖い。

 しかし、もっと怖いもの それは神からの裁き それは間違いのないさばき

 すべてをご存じであり、公正なる方の裁き それは間違いがない。

 自分のなしてきたこと、自分の歩んだ道。 そこにやましさがあれば、余計怖い。 その裁きの判断は、人の思いを超えている。神の高い基準がある。

 

☆大切なもの、裁きを与え任せる

  遣わす者に大切なこと、特に裁きを与え任せられた。

22節

5:22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。

 父なる神が持たれている権威 それは裁きをなすということ。 

 その権威を子なるイエスに任せられた。 その権威を譲られた。

27節

5:27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。

 裁きを行う権能を子なるイエスにお与えになった。裁きは子なるイエスにゆだねられた。

30節

5:30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」   裁くということ、それは神の権威。

 

☆その裁きが子なるイエスに委ねられている。

 子なるイエスに任されている。 子なるイエスはどう裁かれるのか? 

 裁きはどうバトンが渡されたか? その結末は、どうなったか?

 主イエスは、裁く者になられたのか?

 その答えは、十字架。 十字架は裁きの象徴である。でもそれは、人の受けた裁きではなく、神の子であるイエスの受けた裁き。ここに、キリスト教の中心、すなわち福音がある。

 

☆父なる神がお持ちのもの、それは命

 父なる神は、すべてをお持ちです。 その中で最高のもの、それは命です。

 命ほど、最高のものはない。 生き生きとしたもの、それは命

 命のあるところに輝きがある。命のあるところには喜びがある。感動がある。

 命があるところには、成長もある。大きくなる。

  そして次の命を産み出すこともできる。 その命を父なる神はお持ちです。

◎26節

5:26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。

 子なるイエスにも、内にも命を持つようにしてくださった。

 この地上においでくださった主イエス  その方は、命をお持ちである。

 それは人の持つ命ではなく、神だけがお持ちの命。上からの命。永遠の命。

 

☆裁きと命をお持ちの主イエス

 裁きと命を主イエスはお持ちである。

 この裁きと命を主イエスはどのようにお持ちになられたのか。

 その答えも、十字架。 十字架の上で、主イエスご自身が裁かれた。

 私たちが受けるべき裁きを主イエスご自身が、身代わりとなって受けられた。

 その結果、命が生み出された。 罪の代価はすべて主イエスによって支払われた。 命は主イエスを通して受け取る道が開かれた。これがキリスト教における福音です。

 命の水の泉が据えられた。 その泉から命の水が噴き出すようになった。

  その水を、飲むことができるようになった。

 

☆主イエスの御声

 死んだら何も見えず、何も聞こえず。 死は静寂の世界、命のない世界。 すべてが終わり。 ところが、そこに、子なるイエスの御声が響く。

 それを聞くときが来る。 その時に、すべての者は神の御前に立つことになる。

25節。

5:25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。

28-29節

5:28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、

5:29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 最終的に、命を受けるか、裁きを受けるかが決まる。 一番心にとめるべきはそのこと。

 

☆言葉は力

 言葉には力がある。 私たちは言葉によって意思疎通を図る。コミュニケーションをとる。

 言葉は人を励ます。言葉によって励ましを受ける。 言葉には力がある

 一方、言葉によって傷つくこともある。 棘のある言葉は人を傷つける。

 

☆言葉にあふれている現代

 情報過多の現代。 今という時代は情報があふれています。

 特に、インターネットの普及により、いろいろな情報、知識が簡単に手に入ります。 そのあふれる情報、知識は、表面的には、私たちの生活を助ける面は広がった。 では、現代人は、かつてインターネットのなかった時代と比べて、生きる力が増したか? 希望を力強く持っているか? 必ずしもそうではない。 生きる力はそれほど増してはいない。 希望をそれほど力強くは持っていない。

 むしろ、かつてより、生きる力は乏しくなったかもしれない。希望は弱弱しくにしか持っていないかもしれない。 いろいろな不安や恐れを抱く。

 言葉や情報、知識は増えたのに、不安や恐れが増した。

 人と人、民族と民族、国と国 互いに信頼できず、時に争い、戦争が起きている現実がある。

 

☆現代人である私たちは命に導く言葉を求めている。

 命に導かない言葉、命の反対に導こうとする言葉があふれる現代。

 命に導く言葉があるならば、それは幸いの言葉。 その言葉をどこに見つけることができるか? 文学作品の中に? 感動の映画作品の内に?

 その言葉は、聖書の中にあるのです。 聖書の中に神の言葉が記されています。

◎24節

 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 主イエスは、語っておられます。わたしは遣わされた者だと。

 わたしをこの世にお遣わしになったお方がおられる。その方は天の父なる神さまだと。 神がわたしをこの世にお遣わしになった。

 あなたたちを愛するゆえに遣わされた。あなたたちを救うために遣わされた。

 命に導く言葉は、主のもとから与えられている。

 

☆言葉を聞く

 赤ちゃんは、お母さんのおなかの中にいる時から、お母さんの声、お父さんの声を聴いている。ママの声、パパの声を

 赤ちゃんは、ママ、パパの語り掛けの言葉を聞いて、日々過ごす。

 ママの語り掛け、パパの語り掛けを受け、赤ちゃんはすくすくと育つ。

 

☆主イエスの言葉は遣わされた父なる神を指し示す。

 自分を遣わされた方がおられる。

 その方は、全知全能なるお方。力あるお方。 愛のお方、義なるお方、聖なるお方。

 私たちに心にとめていてくださるお方。

 私たちのもとに、救い主をお遣わしくださったお方。

 その独り子である御子イエスをお送りくださった。

 

☆死から命へ

 主イエスをこの世に遣わされたお方 それは父なる神さま

 その方を信じるならば、大きな幸いを得ると今朝の聖書箇所は告げています。

◎24節

 5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 主イエスをお遣わしくださった方を信じる者は、永遠の命を得ると。

 永遠の命とは、まことの神とイエス・キリストを心にとめ生きることです。

 ヨハネ福音書17章3節

  17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 永遠の命とは、主と共に生きることです。

 もはや、恐れる必要はない。なぜなら、もはや裁かれはしないから。

 裁きは、父なる神から、御子イエスにゆだねられた。 そしてその御子イエスは、裁きをその身に受けてくださった。あの十字架の上で。

 あなたの罪は、私が背負い、身代わりとなって十字架の上でその受けるべき裁きを、罰を受けてくださったのです。

 もはや、裁かれることはありません。 それゆえ、もはや恐れる必要はありません。

 死から命へ移されたのです。 

 どんな時にも、主なる神を仰ぎ生きることができるのです。

 その幸いが、私たちに与えられたのです。 ハレルヤ!