2024年4月
4月7日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「平和があるように」 ルカ福音書24章36-49節
☆新年度のスタート
新しい年度2024年度が始まりました。 主にあって、新しく歩み出しましょう。 主なる神がその歩みを守り祝福してくださいますように!
新鮮な思い、フレッシュな思い その思いを抱いて歩み出す。
その一方、不安や恐れもないわけではない。 支えられ守られますように!
☆復活節の歩み
復活の主イエスを心にとめつつ歩みたい。
主イエスは復活の主である。 今も生きておられるお方 その方を心に深く留めたい。 復活の主は、私たちそれぞれの人生に目をとめていてくださる。
そして、私たちを励まし支え導いてくださる。
☆山登り
一人で山を登ることも幸い 二人で山を登ること より幸い 励まし合うことができる、風景を共に分かち合うことができる。
きついときに励まし合う。 時に手を引っ張ってもらう、後ろから押してもらうということもある。 一人で山を登るとき 休憩し、一人でお茶を飲む、おにぎりを食べる。 二人で山を登るとき 休憩して、二人でお茶を飲む、おにぎりを食べる より楽しい。
☆復活の主イエスと共に歩む
一人で黙々と歩む 一人で頑張って歩む それも幸い
その歩みが支えられ、後押しされ、歩むことはより幸い
復活の主イエスを仰ぎ見つつ、心に覚えつつ、復活の主に祈りつつ歩むことは大きな幸いです。
☆本日の聖書箇所
ルカによる福音書24章36-49節
弟子たちが復活の主に出会ったことを告げる内容。
◎ルカ福音書24:36-49
☆弟子たちは恐れおののいた
弟子たちは復活の主イエスを見て恐れおののいた。
なぜか? 亡霊だと思ったから。 人の死 それは厳粛なものであり、もう二度と会うことができないと考える 夢の中で、死んだ人に出会う夢を見る あれもう死んでしまったと思っていたら、そうではなかったんだと思う。
もし、現実の中で出会ったら、その相手は亡霊だ、幽霊だ 恐ろしくなる
弟子たちは恐れおののいた。
☆肉体を取っての復活
主イエスは肉体を取っての復活をされた。
◎38-43節
山登りを思い描くこと それは楽しいことの一つかもしれない。
より楽しいのは、実際に山登りをすること
主イエスは、復活された 肉体をとって復活された。 弟子たちに手と足をお見せになった。 弟子たちが信じられず不思議がっていると、食べ物はあるかと尋ねられた。 弟子たちが焼いた魚を差し出すと、それを受け取り弟子たちの前で食べられた。
電話で話す 相手の声を聴きつつ テレビ電話で話す 相手の顔を見つつ
より幸いなことは共にあって、共に過ごし、共に会食をすること
☆主イエスの語りかけ
「平和があるように」
◎36節
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
これほどの幸いな言葉はない
【口語訳】
24:36 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕
主イエスの弟子たちへの言葉、それは平和があるようにという言葉でいう言葉でした。
☆弟子たちは恐れていた。
恐れの心で満ちていた。 心に平安がなかった。
心が動揺していた。 主イエスが捕らえられ、十字架刑に処せられた。そして死んでしまわれた。 弟子たちは、喪失感に包まれた。
希望の星が失われてしまった。 主イエスこそ、自分たちの希望である、喜びであった。 その主が失われてしまった。 悲しみ、失意落胆の中に投げ込まれた。 それと共に恐れが心を占めた。
主イエスをとらえ十字架に処した者たちの力は大きい。彼らが自分たちをもとらえに来るのではないだろうか 不安、恐れがあった。
そして、もう一つ弟子たちの心に引っかかっていたことは、自分たちは、一番肝心な時に逃げてしまった。 主イエスが捕らえられた時、彼らは逃げてしまった。 主イエスを助けることをしなかった。 なぜなら怖かったから。 自分たちが、自分が捕らえられることを恐れた。 それで逃げ出した。
イスカリオテのユダは、銀貨30枚で主イエスを売った。 裏切り者のユダ
他の11人の弟子たちはどうだったか? 彼らもまた裏切りものであった、
主イエスをお遣わし下さった父なる神は、どれだけ怒っておられるだろうか?
自分たちに対して神はどうなさるだろうか? どのような罰を下さるだろうか? 恐れ どのような呪いがかけられるだろうか?
☆「平和があるように」
その答えがここにあります。 「平和があるように」
恐れる必要はありません。 平和があるように! あなたたちは赦されています。 主イエスの言葉 「あなた方に平和があるように」 あなたに平和があるように
恐れる私たち、恐れる私 いかがでしょうか? 弟子たちだけでなく、私たちも恐れる存在ですね。 心にずっと引っかかっていることがあるかもしれません。あの事に対して、そうその見返りがあるだろうか。 良いことならば幸いですが、その反対のことならば、恐れが心を占める。
主イエスの言葉 「あなた方に平和があるように」 「あなたに平和があるように」 あなた方のために、あなたのために私は十字架にかかったのだと主は語っていてくださっています。 なんという感謝なことでしょう。
弟子たちの心から恐れがなくなった。 心が軽くなった。 心に平安が満ちた。
☆預言の成就
旧約聖書に記されている預言は成就した。
◎44-48節
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
旧約聖書に記されて内容
神がこの世界を創造されたということ
神が一つの民を選ばれた それはユダヤ民族である。しかしその民族だけを愛するということではなく、その周りの民、全世界の民を愛するということ
神が救いの御業をなされるということ
そのために大切な者を遣わすということ その方こそ神の独り子である主イエスである。 そのことが記されている。
そのメシア(キリスト)は、苦しみを経験される。それは十字架であり、その上での死 しかし、キリストは復活される
☆罪の赦しを得させる悔い改め
罪の赦しを得させる悔い改め
◎47-48節
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝 えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
私たちはすべて罪人です。
思いにおいて行いにおいて、罪を犯すものです。
〇ローマ人への手紙3章9-18節
正しい者はいない 一人もいない 口から出す言葉において罪を犯す者、足は罪を流すのに早い 思いにおいて、言葉において、行いにおいて、罪人である。
神への恐れがなく、自分勝手な歩みをなす者です。
それは、まさに神と断絶している者であり、神に敵対している者です。
聖書は、そのような私たちは罪びとであり、そのままでは滅びに至るものであると告げています。
罪の赦しをいただかねばなりません。 その赦しは、神から与えられるものです。 神は、御子イエスの十字架を通して、私たちそれぞれの罪の代価を、その命をもって支払ってくださいました。 払いきれない罪の代価 到底自分で支払うことはできない。
その代価を身代わりになって支払ってくださったキリスト そしてその主イエスは、復活してくださいました。
十字架において、その救いの恵みを見ることができるようになりました。
その救いの恵みを見るだけでなく、受け取って生きることができるように、主イエスは復活してくださいました。
☆赤ちゃんの振り返り
赤ちゃんは、生後半年を過ぎ、8か月ほどになると這い出します。
ハイハイをする。 母親のもとで抱っこされているだけだったのに、床に置かせられるとハイハイして、母親から少し遠くに進んで行きます。
途中で、少し不安になります。その時、赤ちゃんは、それをぐっと抑えてさらに進むということはしません。 大体において母親の方を振り返ります。そして戻ってきます。
☆悔い改めとは
悔い改め 原語では、meta,noia メタノイアというギリシャ語です。
悔い改めるとは、悔やむことではありません。
このようなことをしてしまった、あのようなことをしてしまった。なんということをしてしまったのか くよくよ悩むことではありません。
メタノイアの意味は、向きを変えるという意味です。180度向きを変える。
神に背を向けていた自分を認め、神の方に向き直るということです。
赤ちゃんがハイハイして母親から遠くに来てしまった。赤ちゃんが母親の方を見て、母親の方に向きを変えて戻っていくようにです。
☆向きを変えた先に
赤ちゃんが、母親から少し遠くにハイハイして離れていく。
母親は当然、その赤ちゃんから目を離さずに見続ける。どこかに行ってしまうことはない。
もし母親が、自分の赤ちゃんが少し遠くに行ったときに、他の用事をするために出かけて行った。そこから姿を消したとしたなら、赤ちゃんは大泣きをすることでしょう。
母親はそこで見守り待っています。
向きを変えること それは幸いなことです。
悔い改めて神の方に向きを変えたと時に神はそこにいてくださる。
復活の主がおられる。復活の主が、救いを手渡してくださる。
向きを変えて立ち返る者を救ってくださる。 罪の赦しを与え、神の子どもとして歩ませてくださる。
☆「平和があるように」
神の赦しは備えられました。
そして、復活の主イエスを通して、それはいただくことができます。
恐れを抱く弟子たちに「平和があるように」と語られた主が、私たちの主です。 主よりの平和を受け取らせていただきましょう。
4月14日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「命と信心にかかわるもの」 ペトロの手紙二1章1-8節
☆恵みと平和
復活の主が、主を信じる者に与えてくださる恵みと平和
恵み 主より与えられる良いもの 平和 主より与えられる主とのつながり、平安
恵みと平和がますます豊かに与えられるように なんという幸いでしょう。
◎2節
1:2 神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますま
す豊かに与えられるように。
☆主イエス
主イエスは生きて働いてくださる。 復活の主
神の力を持って働いてくださる。 そして良いものを豊かに与えてくださる。
◎3節
1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
命と信心とにかかわるすべてのものを与えてくださる。 命と敬虔
命とは、私たちそれぞれに与えられているもこの命 一つの命 一回限りの人生
その命、人生をいかに生きるかは私たちに任されている。
敬虔とは、信仰の心の態度 その真実さ 神に向かう心 それは人に見える部分もあるが、一番大切なものはその真実な態度
☆命と信心を与えてくださる
命と信心
それは、私たち次第? 命を輝かす、信心を高くする
そのような部分はないわけではない。 しかし、それはほんの少し 自分の力では限界がある。 頑張ってみるけれど、思い通りには必ずしもいかない。
命、人生を輝かすことは簡単ではない。 反対になることさえある。 輝かない、下降していくことさえもある
信心を高くすることは簡単ではない。 信心があやふやになる、敬虔が乏しくなる。 敬虔が薄っぺらなものになることさえある。
自分の頑張り、努力は時に必要かもしれないが、それも限界、行き詰る
そのような私たちに、命の輝き、信心の喜び、希望が与えられる
☆命と信心にかかわること
それは具体的に何を意味しているのか? 今日の聖書箇所でいうならば、8つのこと
◎5-7節
1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛
信仰から始まって、愛で終わっている。
☆私たちが生きるこの世界
今日の聖書箇所においては、この世に対する理解 情欲に染まった退廃した世界 私たちの肉的な思い 自分勝手な欲望 それらに引きずられる
それらに流される いつの時かそれがすべてとなってしまう。 人との関係が壊れてしまう。 自分中心 自分さえ良ければ良い。 自分の欲望が大きく膨らみ、自分がその欲望に支配される。そして気が付くと、深い沼にはまってしまっている。底なし沼 抜け出すことができなくなる。
この世界の悲しみ、悲惨、・・
◎4節
1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです
しかし、主は、そこから抜け出させてくださる。免れさせてくださる、
神の本姓に与らせてくださる。 それは神の憐みであり、神の愛のゆえに。
☆私はどう歩むか
怠惰ではなく、勤勉でと考える、願う
実を結ばないものでなく、実を結ぶものでありたいと願う。 しかし、実際には、その反対になってしまうことがある。 怠惰になってしまう。流されてしまう。なすべきことがあるのに、それらを無視、放棄してしまう。ああ、なんて情けないと思う。
実を結びたいと願いつつ、実を結ばないままで進んでしまう。
◎8節
1:8 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
しかし、主の憐みと助けをいただき、そこから引き揚げていただく。
怠惰から引き揚げていただく。 実を結ぶものにしていただく。
主イエスを知るようになる。 主イエスのご愛、ご支配を受け、主と共に歩む者として引き挙げていただく。
☆命と信心にかかわること
このペトロの手紙より 先に記されたペトロの手紙一より
具体的に見させていただきましょう。
①○ペトロ一1:3-5
主イエスを信じ歩む。 主イエスの復活によって、生き生きとした希望を与えられる。
生き生きとした希望 それがあるならば生きて行ける。
希望を失わせようとするこの世、この世界
いつの間にか、希望を見失うことがある。 希望がしぼんでしまうことがある。 行き詰まりの中に身を置くことがある。 そのような私たちに主は、希望を、生き生きとした希望を与えてくださる。
この世でうまくいけば、希望は持てるか? 必ずしもそうではない。
勢いのある時を経て勢いを失っていく時も通る 人生の終わりにもだんだん近づく。 私の人生の終わりは遠くはない、それは近づいている。 どうこの人生を閉じるかということも考えることがある。 そのような自分が、ただ終わりを見つめるのではなく、主の備えていてくださる御国に思いを馳せる。
故加藤 恩姉は、晩年、体が弱くなり、前のようには歩めない。
時に自分が自分でないように感じることもあったことでしょう。その中にあって、天の御国を思い、主イエスの支配しておられる御国を慕われた。
朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされていることを心にとめて歩まれた。
この地上の歩みの先に備えられた恵みの御国があることを心に覚え、生かされる。 その幸いを主は私たちに与えてくださっている。
② ○ペトロ一1:8-9
信仰の実りとして魂の救いを受けている。
春になって花が咲く 実がなる木がある。 梅の実、サクランボの実、桃の実 ビワの実、 桑の実、 ブドウの実、 ・・ それらは、この春の時期、花を咲かせる。 花が受粉し、小さな実ができ、それが膨らんでいく。 やがて立派な実をつける。
言葉には言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれている。
主が上よりの恵みとして、その喜びを与えてくださる。
主イエスを信じる信仰により、魂の救いを与えてくださった。
魂の救い それは主なる神が与えてくださるもの 最も幸いなもの
この世は与えることはできない。 自分で作り出さことはできない。
主が、イエスを信じる者に与えてくださる幸い 魂の救い
主が与えてくださったもの それを大事にしてゆく。 大切に受け止め歩んで行く。
それは他の何物にも代えがたいもの
それをいつの間にか大事に思わなくなり、それを端っこに置いてしまうことがある。
そして、それが与えられたことを何とも思わなくなることがある。
もう一度、主に立ち返るとき、主に向きを変えるときに、その幸いがもう一度戻って来る。
③○ペトロ一2:22-25
かつては羊のようにさまよっていた。 いろいろなものを求め渇きをいやそうとしてきた。 あのサマリア人の女性のようであった。 渇きを癒そうと次々と井戸を変えていた。 この井戸ならば、この井戸ならば、・・ しかし、渇きを癒されなかった。 一時的には渇きを癒されたが、すぐにまた渇きを覚えた。 魂の渇きを癒すことはできなかった。 ついに、主イエスとの出会いの時が来た。 主イエスの方から語りかけてくださった。 渇くことのない命の井戸を与えられた。
魂の牧舎であり、監督者である方のところへ戻って来た。
④○ペトロ一3:8-11
悪と侮辱を受ける 悪にさいなまれる、侮辱され大きな悲しみを経験する。
つぶされる思い。 つぶされてしまう。 かつては、そのことで沈み込んでいた。 その悪、侮辱を決して忘れない。決して許さない。 それに対抗して、悪に対して悪を、侮辱に対して侮辱を 自分はもっと相手よりも強く、相手をしのいで悪で、侮辱で返す。
そのようない生き方が変えられた。 悪をもって悪に返さず、侮辱をもって侮辱に返さない者に変えられた。
主の御救いをいただいた者として 主が私の主人である。私は主のものである。
主が共にあって守ってくださる、助けてくださる 悪から遠ざかる、善を行い、平和を願って追い求める。 相手に対して、呪いではなく、悪ではなく、祝福を祈り求める。
それは、ひとえに祝福の中に招かれ、祝福を受け継ぐものとされている故に。
⑤○ペトロ一3:14-15
心の中で誰に相談するか 誰を呼び求めるか 相談する相手、呼び求める相手
自分自身に対して? 誰に向かって 亡くなった誰かに向かって
主イエスに向かって、 主なる神に向かって 聖霊なる神に向かって
キリストを主とあがめる
⑥○ペトロ一4:1-2
神の御心に従って 自分の思い、願いをあくまでも中心ではなく 神の御心に従う 神の御心を追い求める 肉における残りの生涯を、神の御心に従って生きる それまでは、自分の思い、願望をあくまでも最優先して そのような歩み方を改めて歩む
⑦○ペトロ一4:10
自分に与えられているもの それは神からの賜物
神が自分に託してくださったもの、与えてくださったもの それを用いる。
自分だけのために用いることを捨てて、やめて その賜物を捧げる
それを生かして互いに仕える。 その道を進む。 栄光を主に帰する。
⑧○ペトロ一5:7-10
思い煩いを何もかも神にお任せする 思い煩いを自分で背負う そのことが自分を圧迫する その思い煩いが自分を支配する
それを神のお任せする 主よ、御手におゆだねします。 お任せする。 おゆだねしますと 神が心にかけてくださる。 主がしばらくの苦しみの後に、完全な者にしてくださる。強め力づけてくださる。 揺らぐことのないにしてくださる。
◇命と信心にかかわるもの
命と信心 それを満たしていただく
それが豊かなものになるよう、主イエスは私たちに与えてくださる。
◎3節
1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。
その命、その人生の歩みが輝いたものになるよう 満ちあふれるように
信仰の中身が恵みにあふれるように
信仰生活が恵みに満ちるように 主は働いてくださる。
なんという感謝なことでしょう。
4月28日(日) 聖日礼拝 説教メモ
「召しと選びの感謝」 ペトロの手紙二1章9-15節
☆生きていく上で
生きていく上で欠かせないもの
食べて、運動して、休んで、活動して、眠ること
呼吸、咀嚼、消化、血液の流れ
肺の働き、胃腸の働き、肝臓、膵臓、心臓の働き、様々な器官が働く必要がある。
☆日常において備えているべきもの
食糧、水、衣服、寝具、お金、・・
それらを備えていなければ、困ることになる。
☆備えているべきものとは
必要不可欠なもの それを備えていることの大切さ
◎9節
1:9 これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。
視力を失い、近くしか見えない。 人にぶっつかってしまう。ものにぶっつかってしまう。
以前の罪が清められていることを忘れている。
罪の中にさまよう。神から離れたまま歩むことになる。 これらとは?
○5-7節
1:5 だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、
1:7 信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛の8つ
☆罪を清めていただいて
かつては神を認めずに歩んでいた。 自分が中心であった。 自分の思いが最優先だった。 かつては罪の中に生きていた。
神を意識せず、自分を神として歩んでいた。自分ですべてを執り行う。一見自由だが、その責任はすべて自分が取らねばならない。
その責任をすべて取ることはできない。その歩みの結果の責任を自分が刈り取らねばならない。 その向かう先は、滅びであった。
しかし、真の神を知り、神を信じて歩むようになった。
その払いきれない歩みの結果、払いきれない罪の代価を主イエスがあの十字架で身代わりとなって支払ってくださった。 罪の赦しをいただいた。 神と断絶したものではなく、神とつながって生きる者となった。 霊的に、神の子どもとされて生きる者になった。 そこには平安があり、希望がある、 その中に生きる幸いをいただいた。 その幸いの中に招かれ歩む者となった。
それは、主イエスを信じる前には持っていなかったもの
罪を赦され、神と共に歩む幸いをいただいた。すなわち罪が清められた、
☆そのことを忘れるということは
その罪が許されたことを忘れるならば、平安と希望を失う。
自分で、自分の歩みの結果の責任を取らねばならない。それを自分で解決せねばならない。 不安と恐れに再び支配される。 それを振り払おうと歩む、神と出会う前のように、自分の力で生きる。自分がすべてを解決せねばならない。 それは苦しいこと。
☆この地上での歩みの幸い
真の神、愛と力の神、祝福の神と共に生きる。 必要なものは主が与えてくださる。
信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛の8つを忘れないようにと
その8つのことは自分で頑張って満たすのではなく、神に依り頼んで、神から満たしてい
ただく。 その歩みは平安と感謝、喜びをいただいて歩むことができる。
それに加えて、御国に向かって歩むことができる。
○11節
1:11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
人生の向かう先は大切なこと
今自分はどこに向かって進んでいるかがはっきりしていることは確かさの大切な事柄 自分は進んでいるがどこに向かっているかわからないとするなら、不安 その向かう先が、崖であるとするなら、大変なこと 恐怖に包まれる。
御国に向かって進んでいるのだ。
人生の終わりに向かって進んでいる これはすべての人に共通。
その先は何があるの? その先には何が待っているの? それがはっきりしないとするなら不安。
キリスト教信仰の歩みにおいて、大きな平安 それは永遠の御国が備えられ、そこに向かって進んでいる。やがての時には、そこで憩うことができる。
主イエスがその御国を用意してくださった。 その御国に入ることができる。
人生の終わりに向かっていることは確かだが、それはすべての終わりではない。 天の御国に憩う者とされること、そのことが保証されている、
そのことを心にとめつつ、歩みたい、そのように歩むことができる。
☆この世の歩み
この世がすべてではない。 この世がすべてであるなら、命の終わりはすべてを失うことになる。 この世がすべてであるならば、うまくいく時は世かもしれないが、うまくいかに時は苦しくてたまらない。 この世がすべてではない。
ペトロは、仮の宿と表現した。
◎14-15節
1:14 わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。
1:15 自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、
わたしは努めます。
仮の宿を離れる時が近づいている。 この地上での歩みを主から助けていただきつつ、歩む。
☆召しと選び
◎10-11節
1:10 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。
1:11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
◎口語訳
1:10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。
1:11 こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。
◎新改訳
1:10 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
1:11 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。
召されたこと、選ばれたこと
この主体は、どこにあるのでしょう。その召しと選びの主体は、天の神さまご自身です。
神の召しと選び
聖書には、それらのことが多く記されています。
その一つ一つを詳しく取り上げるなら、一日では足りません。
何人かを心にとめましょう。
第1の人はアブラムです。後にアブラハムと改名しました。
○創世記12:1-9
選民イスラエルの父となった人です。 全世界の民の祝福の初めとなった人です。
75歳の時に神から声をかけていただきました。 主なる神は、信仰の父としてアブラハ
ムを選ばれました。
第2の人はモーセです。
○出エジプト3:1-10
イスラエルの民をエジプトから導き出すリーダーとなりました。
失意落胆の40年を経て80歳の時に、神からの召しをいただきました
神は、出エジプトの出来事を完成させるためにモーセを選ばれました。
第3の人物はギデオンです。
○士師記6:6-14
ミディアン人に苦しめられていました。ギデオンは臆病者でした。
自分だけ助ければよいと考えていました。
そのギデオンが選ばれたのです。 その苦しい状況を打破するためにです。
第4の人物はペトロ自身です。
この手紙を書いたペトロです。
☆ペトロ自身の召しと選び
主イエスとの出会い
すべてを捨てて、主イエスの弟子となる
○ルカによる福音書5:1-11
主イエスとの出会い、主に従う者となった。3年間、主イエスの弟子として歩みました。 しかし、主イエスを裏切ることになる。
○ルカによる福音書22:31-34、54-62
主イエスの予告の通りに主を裏切ってしまった。 そのことで苦しむペトロ
☆召しと選びの感謝
召しと選びを確かなものとしなさい。
◎10-11節
1:10 だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、
いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。
1:11 こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。
どのようにして確かにするのでしょう?
召しと選びの主体は神ご自身です。 私ではありません、あなたではありません。 主のご愛、憐み、ご忍耐に目をとめる。
ペトロ自身
主イエスに対して恩を仇で返すようなことをしてしまった。
悔やんでも悔やみきれない 心に深いしこり それは、ペトロに心の深いところにあった。 それをペトロはどうすることもできなかった。
そのペトロに対して、復活の主イエスは赦し、回復、使命が与えられた。
○ヨハネ福音書21:15-19
ペトロは赦しを与えられた。 これからなす使命も与えられた。
召しと選び 召されたこと、選ばれたことの幸い、有難さ
それは主なる神がなしてくださったから。
私たちが立派だからではない、むしろ反対、みじめなものであった。
しかし、主は目をとめてくださった。 その主のご愛、憐みに心をとめる。
☆主は、ご自身が召した者、選ばれた者を守り導いてくださるお方
アブラハムに対して モーセに対して
ギデオンに対して ペトロに対して
主は、その歩みを助け導いてくださるお方。
その主を仰ぎつつ歩みましょう、 主から目を離さずに歩みましょう。